Vier(朝4時):第10週
by Wistawa Szymborska
【原文】
Die Stunde von Nacht zu Tag.
Die Stunde von einer Seite auf die andere.
Die Stunde, die sich auf das Kraehen der Haehne bereitet.
Die Stunde der Dreissigjaehrigen, fiebrig.
Die Stunde, da wir uns von der Erde entfernen.
Die Stunde des Winds von erloschenen Sternen.
Die Stunde bleibt denn-nach-uns-nichts-mehr-uebrig.
Die hole Stunde.
Die dumpfe, beschimpfte.
Der Stunden allertiefster Stollen.
Um vier Uhr am Morgen geht’s niemandem gut.
Geht’s den Ameisen gut um vier Uhr am Morgen
- sie seien beglueckwuenscht. Dann komme die fuenfte,
sofern wir noch weiter leben sollen.
【散文訳】
夜から、昼への時間
ある面から、別の面への時間
雄鶏の啼き声を準備する時間
30歳の人間たちの時間、興奮した
わたしたちが大地から遠ざかる時間
消滅した星々から吹いてくる風の時間
虚ろな時間
籠った、鈍い、誹謗され、侮辱された時間
時間の中で最も深い柱
朝の4時は、だれも、調子がよくない。
朝の4時には、蟻たちは、調子がいい。
蟻たちの幸運を祈るよ。そして、次に、5時が来る、
わたしたちが、まだこれから、いやでも生きなければならない限りは
【解釈】
詩人は、1923年の生まれ。ポーランドのひとのようです。
このひとに限りませんが、どうも詩人というのは、朝まだきという時間が好きなのではないかと思います。
それから、夕方の黄昏時。
何故か、曖昧な時間、移行の時間、境目の時間です。
「30歳の人間たちの時間、興奮した」という一行は、何をいっているのか。
30歳であれば、朝まだきの時間も起きていて、騒いでいるということなのだろうか。
最後の一行は、蟻を、わたしたち人間に譬(たと)えているのだと思う。
自分自身の人生を生きるために、自分の言葉を持て。そして、歳とともに、過激になれ。世界を変形させる為に。Have your own words to live your unique life! And be radical as you are getting older in order to transform the world!
2011年2月26日土曜日
2011年2月23日水曜日
ゾンビーの国のアリス
今日、仕事の暇に、メールをチェックしていると、アマゾンから推薦図書のメールあり、それが、Alice in Zombieelandとう題名の小説でした。
思わず、迷うことなくクリックして、買ってしまった。
ええ、こんな小説があるのか??と、未だに夜になっても疑っておりますが、写真の絵、表紙絵をみると、確かにルイス・キャロルと画家とおぼしきひとの名前が並んで印刷されている。ペーパーバックスです。
1、310円。
わたしは、不思議の国のアリス、鏡の国のアリスを英語ドイツ語で持っている。
また、大判の不思議の国のアリスの注釈本も買ってしまった。
(勿論、全然後悔していない。高かったけれど、高くないのである。これがマニアの心境なるらむ。とひとり合点する。)
それに加えて、開高健の娘の訳した、不思議の国のアリスの料理というレシピ本(翻訳)も持っている。これは、新潮文庫である。
この本の通りに料理を作って、一度、マッドティーパーティーを開いてみたいと思っている。
その節には、みなさま、そのような衣装、化粧、仮装をしてご参加下さいませ。
このようなことは、何か人間にとっては本質的なことに思われる。
何故、わたしはアリスの世界に惹かれるのであろうか?
それは、そう問うてみてわかることは、ナンセンス、無意味の世界に惹かれているということである。
そんなことをいったら、生きていることそのものが、そうではないかと思われるが、如何か。
必ず、何年に1回か、わたしは、なにもかも馬鹿らしくなることがあるのだ。
(何もかも馬鹿らしくなって、そうして実際に、一切合財を放り投げ、ぶん投げてしまう。
大体、この周期は、観察するところ、7年周期である。)
それも、とてつもなく明るく、全く否定的に暗くでは全然無く、あっけらかんと、北海道の冬の青空のように、懐かしく。
(しかし、わがこころは、歳とともに、春よ来い、早く来い、であります。)
思わず、迷うことなくクリックして、買ってしまった。
ええ、こんな小説があるのか??と、未だに夜になっても疑っておりますが、写真の絵、表紙絵をみると、確かにルイス・キャロルと画家とおぼしきひとの名前が並んで印刷されている。ペーパーバックスです。
1、310円。
わたしは、不思議の国のアリス、鏡の国のアリスを英語ドイツ語で持っている。
また、大判の不思議の国のアリスの注釈本も買ってしまった。
(勿論、全然後悔していない。高かったけれど、高くないのである。これがマニアの心境なるらむ。とひとり合点する。)
それに加えて、開高健の娘の訳した、不思議の国のアリスの料理というレシピ本(翻訳)も持っている。これは、新潮文庫である。
この本の通りに料理を作って、一度、マッドティーパーティーを開いてみたいと思っている。
その節には、みなさま、そのような衣装、化粧、仮装をしてご参加下さいませ。
このようなことは、何か人間にとっては本質的なことに思われる。
何故、わたしはアリスの世界に惹かれるのであろうか?
それは、そう問うてみてわかることは、ナンセンス、無意味の世界に惹かれているということである。
そんなことをいったら、生きていることそのものが、そうではないかと思われるが、如何か。
必ず、何年に1回か、わたしは、なにもかも馬鹿らしくなることがあるのだ。
(何もかも馬鹿らしくなって、そうして実際に、一切合財を放り投げ、ぶん投げてしまう。
大体、この周期は、観察するところ、7年周期である。)
それも、とてつもなく明るく、全く否定的に暗くでは全然無く、あっけらかんと、北海道の冬の青空のように、懐かしく。
(しかし、わがこころは、歳とともに、春よ来い、早く来い、であります。)
2011年2月20日日曜日
荘子と俳句
昨日今日と、閑暇あり、荘子を読む。
昨日は雑篇、今日は内篇と外篇を読む。
こうして荘子を読むのは、他方、松尾芭蕉というひとの思想を理解しようとするためなのであるが、荘子を読んで明白なことがひとつだけあります。
それは、荘子は、政治的であることを徹頭徹尾排したということです。
あるいは、商売とのことを考えると、その言っているところは、社会的な交際、社交というものも全く排したということです。
逆に、積極的に、この思想と態度をどういえばいいのかと考えてみると、それは、やはり世上いわれるように、無為自然に即(つ)くという考え方と、その行いです。
芭蕉が惹かれたのは、このことであることに間違いはないと思います。
つまり、無為自然、芭蕉が自然を何だと思い、どのように思ったのかを俳句から読み取ることができるだろうということでもあります。
俳句をするひとたち、即ち俳人たちは、芭蕉七部集の連衆の職業をみても、市井のひとたちであります。商人もいれば、医者もいれば、富裕のひとたちです。
富裕の余り、余剰の高等な遊芸が俳句であるといえば、それはその通りでありませう。
江戸の時代、元禄時代は、学校の歴史の授業で教わったように、確かに成熟していたのだと思います。改めて、この歳になって、そのことの意義を思うのです。芸術と経済と歴史の関係の意義もまた。
荘子を読んでおもうのは、やはり内篇の第1章、宇宙のはじめの生き物が、次々と変身を繰り返してゆくという話です。
これが、荘子という書物の根幹です。
それは、丁度、老子という書物、道徳経の根幹が、第1章にあるのと全く同じだと思いました。
わたしは、この荘子を、最初のところは、づっと、西洋の哲学と論理学でいうと何をいっているのかという観点から文章を読んでいきました。
同じものが別のものになる、成る、変身する、変態するということは、主語と述語は、実は同じものだ、同じ価値を有しているということをいっているのであり、それは一だというのであります。
これは、西洋哲学のよく考えないところだと思います。
混沌に穴を穿ったら、混沌が死んでしまったなどという話は、誠に、東洋人であるわたしからは、最高の話であります。この場合、話の中では、間違いなく、混沌という宇宙の始まりの状態は、媒介者、媒介物であり、その役割を演じている生き物です。(ここから、機能の話しをしたいのですが、今は控えます。)
何故西洋哲学は、そうなのか、そうは考えないのか?
つまり、わたしの哲学の定義は、哲学とは、それは何かという問いに答えることだというものですが、この定義から考えると、それは何かという問いに答えるときの、答え方、即ちものの考え方が、荘子と西洋の哲学者、たとえば、ソクラテスとは全然違っているのです。
何故なのか?
どうもこれは、老子もそう、荘子も読んで、そう思いましたが、言葉、言語に対する考え方の相違だと思いました。
今、これについては、こういうに留めます。後日を期して、また論ずることがあるでしょう。
さて、それから、もうひとつ。
人生は旅だという考え、人生を旅に譬える考えは、荘子にはありません。
それなのに、芭蕉をはじめ、お弟子さんたちの句、連句には、それがそう歌われているのは、荘子とはまた別の、日本人の譬喩であると思います。
旅のはじめと終わりをどのように考えるのか、生と死をどのように考えるのか、芭蕉の考えと、荘子の考えは異なっているということになります。
芭蕉は荘子の何を正解し何を誤解したか、芭蕉は荘子をどう正解し、どう誤解したか。
しかし、文藝は、誤解と引用から生まれるものです。
わたしだって、ソクラテスを誤解しているかも知れない。
それでも、そのひとの人生、わが人生を豊かにしてくれているのであれば、それは素晴らしいことではないでせうか。
こうして荘子を読んできて、先ほど、老子の第1章を読み返してみますと、誠に誠に、これで老子の思想は、やはり、尽きているのであります。
荘子も、そうではないかと思います。
荘子の、哲学も論理学も言語学も。
追伸:
混沌が、媒介者であることを、今回読んで認識しました。
媒介者、即ち関数、functionであります。
それはとらえどころが無いので、混沌と呼んだのでしょう。
宇宙創造の最初の関数、隠れた関数です。
(わたしなら、概念というでせう。)
それを恩恵を蒙ったふたつの生き物が、7つの穴を穿ったら、混沌は死んでしまったというのです。
全く、わたしは、この歳になって、古典の真理を知るということだ。
生きていてよかったなあと思い、歳をとってよかったなあと思う。
昨日は雑篇、今日は内篇と外篇を読む。
こうして荘子を読むのは、他方、松尾芭蕉というひとの思想を理解しようとするためなのであるが、荘子を読んで明白なことがひとつだけあります。
それは、荘子は、政治的であることを徹頭徹尾排したということです。
あるいは、商売とのことを考えると、その言っているところは、社会的な交際、社交というものも全く排したということです。
逆に、積極的に、この思想と態度をどういえばいいのかと考えてみると、それは、やはり世上いわれるように、無為自然に即(つ)くという考え方と、その行いです。
芭蕉が惹かれたのは、このことであることに間違いはないと思います。
つまり、無為自然、芭蕉が自然を何だと思い、どのように思ったのかを俳句から読み取ることができるだろうということでもあります。
俳句をするひとたち、即ち俳人たちは、芭蕉七部集の連衆の職業をみても、市井のひとたちであります。商人もいれば、医者もいれば、富裕のひとたちです。
富裕の余り、余剰の高等な遊芸が俳句であるといえば、それはその通りでありませう。
江戸の時代、元禄時代は、学校の歴史の授業で教わったように、確かに成熟していたのだと思います。改めて、この歳になって、そのことの意義を思うのです。芸術と経済と歴史の関係の意義もまた。
荘子を読んでおもうのは、やはり内篇の第1章、宇宙のはじめの生き物が、次々と変身を繰り返してゆくという話です。
これが、荘子という書物の根幹です。
それは、丁度、老子という書物、道徳経の根幹が、第1章にあるのと全く同じだと思いました。
わたしは、この荘子を、最初のところは、づっと、西洋の哲学と論理学でいうと何をいっているのかという観点から文章を読んでいきました。
同じものが別のものになる、成る、変身する、変態するということは、主語と述語は、実は同じものだ、同じ価値を有しているということをいっているのであり、それは一だというのであります。
これは、西洋哲学のよく考えないところだと思います。
混沌に穴を穿ったら、混沌が死んでしまったなどという話は、誠に、東洋人であるわたしからは、最高の話であります。この場合、話の中では、間違いなく、混沌という宇宙の始まりの状態は、媒介者、媒介物であり、その役割を演じている生き物です。(ここから、機能の話しをしたいのですが、今は控えます。)
何故西洋哲学は、そうなのか、そうは考えないのか?
つまり、わたしの哲学の定義は、哲学とは、それは何かという問いに答えることだというものですが、この定義から考えると、それは何かという問いに答えるときの、答え方、即ちものの考え方が、荘子と西洋の哲学者、たとえば、ソクラテスとは全然違っているのです。
何故なのか?
どうもこれは、老子もそう、荘子も読んで、そう思いましたが、言葉、言語に対する考え方の相違だと思いました。
今、これについては、こういうに留めます。後日を期して、また論ずることがあるでしょう。
さて、それから、もうひとつ。
人生は旅だという考え、人生を旅に譬える考えは、荘子にはありません。
それなのに、芭蕉をはじめ、お弟子さんたちの句、連句には、それがそう歌われているのは、荘子とはまた別の、日本人の譬喩であると思います。
旅のはじめと終わりをどのように考えるのか、生と死をどのように考えるのか、芭蕉の考えと、荘子の考えは異なっているということになります。
芭蕉は荘子の何を正解し何を誤解したか、芭蕉は荘子をどう正解し、どう誤解したか。
しかし、文藝は、誤解と引用から生まれるものです。
わたしだって、ソクラテスを誤解しているかも知れない。
それでも、そのひとの人生、わが人生を豊かにしてくれているのであれば、それは素晴らしいことではないでせうか。
こうして荘子を読んできて、先ほど、老子の第1章を読み返してみますと、誠に誠に、これで老子の思想は、やはり、尽きているのであります。
荘子も、そうではないかと思います。
荘子の、哲学も論理学も言語学も。
追伸:
混沌が、媒介者であることを、今回読んで認識しました。
媒介者、即ち関数、functionであります。
それはとらえどころが無いので、混沌と呼んだのでしょう。
宇宙創造の最初の関数、隠れた関数です。
(わたしなら、概念というでせう。)
それを恩恵を蒙ったふたつの生き物が、7つの穴を穿ったら、混沌は死んでしまったというのです。
全く、わたしは、この歳になって、古典の真理を知るということだ。
生きていてよかったなあと思い、歳をとってよかったなあと思う。
2011年2月19日土曜日
Nachmittag eines Dichters(ある詩人の午後):第9週
Nachmittag eines Dichters(ある詩人の午後):第9週
by Robert Gernhardt
【原文】
Horch! Es klopft an deine Tuer:
“Mach auf und lass mich rein!”
“Wer da?” “Die Einfallslosigkeit!”
“Das faellt mir gar nicht ein.”
Schon steht sie neben deinem Tisch:
“Was wird das? Ein Gedicht?”
“Ein Lob der Kreativitaet.”
“Das, Freundschen, wird es nicht.”
Da faehrst du auf und sagst bestimmt:
“Das wird es wohl, Madame!”
“Dann leg mal los!” “Ahemm, ahemm …”
“Und weiter?” “Aeh … Ahamm …”
Da kuesst sie strahlend deinen Kopf:
“Ciao, ich muss weiter, Kleiner.
Doch hab ich einen Trost fuer dich:
So schoen besang mich keiner!”
【散文訳】
おや、だれかがドアを叩いているぞ。
「開けて頂戴、中に入れてよ」
「誰だい?」「わたし、思いつき無し(の女)よ。」
「そいつぁ、全然思いもつかなかったよ。」
既に彼女は、お前の机の傍に立っている。
「何やってるの?詩?」
「創造性の賛歌を書いているのさ。」
「それゃ、坊や、でき無いわよ。」
それを聞いて、お前は頭に来る、そして決然としてこう言うのだ。
「それが、できるんだよ、マダム!」
「じゃあ、やってごらんよ!」「あーへむむ、あーへむむ。。。」
「それから?」「えー。。。あーはむむ」
それを聞いて、彼女は喜んでお前の頭(おつむ)にキスをするのさ。
「チャオ、次へ行かなきゃならないのよ、坊や。
でも、あんたに慰めのことばがあるのよ。
こんなに美しくわたしのことを歌ってくれたひとは誰もいないわ!」
【解釈】
詩人のドアを叩いて、前触れなく入ってくるのは、ドイツ語では女性名詞で、詩の中でも、女性ということになっているdie Einfallslosigkeit、アインファルスロージッヒカイト、着想なしということ、思いつかないということ、という名前の女性なのです。
この名前そのものが、既に詩人を茶化している。
でも、こうして思うのは、ある概念に名前をつけて、それを擬人化することが容易にできる、ヨーロッパの言語の、ドイツ語という言語の、中世以来の伝統です。中世では、擬人化などではなく、確かに概念が生きていた。それを、Hartmann von Aueの購読を通じて、学生のころ、知りました。これは、これで、言語の問題としては、実に深い主題です。Frau Minne (Mrs. Love)とは、Frau Welt (Mrs. World)という言葉が実際に生きているのです。
さて、この女性としてあらわれた、無着想のおばさん(おばさんなのだろうか?)は、詩人をどうも、子供扱いしているようです。
あーはむむ、えーはむむ、などというのは、詩人が呻吟して、言葉の出ないときの言葉、着想の浮かばないときの、思いつき無しのときの言葉でしょうが、それが題して、創造性の賛歌というのですから、笑うべし。詩人の方も結構な詩人です。
この詩人は、1937年生まれ。2006年に亡くなっています。
詩作をしていて、気晴らしのために書いた詩なのかも知れません。そんな詩も、詩にしてしまうのですから、これは詩人というべきひとでしょうね。
by Robert Gernhardt
【原文】
Horch! Es klopft an deine Tuer:
“Mach auf und lass mich rein!”
“Wer da?” “Die Einfallslosigkeit!”
“Das faellt mir gar nicht ein.”
Schon steht sie neben deinem Tisch:
“Was wird das? Ein Gedicht?”
“Ein Lob der Kreativitaet.”
“Das, Freundschen, wird es nicht.”
Da faehrst du auf und sagst bestimmt:
“Das wird es wohl, Madame!”
“Dann leg mal los!” “Ahemm, ahemm …”
“Und weiter?” “Aeh … Ahamm …”
Da kuesst sie strahlend deinen Kopf:
“Ciao, ich muss weiter, Kleiner.
Doch hab ich einen Trost fuer dich:
So schoen besang mich keiner!”
【散文訳】
おや、だれかがドアを叩いているぞ。
「開けて頂戴、中に入れてよ」
「誰だい?」「わたし、思いつき無し(の女)よ。」
「そいつぁ、全然思いもつかなかったよ。」
既に彼女は、お前の机の傍に立っている。
「何やってるの?詩?」
「創造性の賛歌を書いているのさ。」
「それゃ、坊や、でき無いわよ。」
それを聞いて、お前は頭に来る、そして決然としてこう言うのだ。
「それが、できるんだよ、マダム!」
「じゃあ、やってごらんよ!」「あーへむむ、あーへむむ。。。」
「それから?」「えー。。。あーはむむ」
それを聞いて、彼女は喜んでお前の頭(おつむ)にキスをするのさ。
「チャオ、次へ行かなきゃならないのよ、坊や。
でも、あんたに慰めのことばがあるのよ。
こんなに美しくわたしのことを歌ってくれたひとは誰もいないわ!」
【解釈】
詩人のドアを叩いて、前触れなく入ってくるのは、ドイツ語では女性名詞で、詩の中でも、女性ということになっているdie Einfallslosigkeit、アインファルスロージッヒカイト、着想なしということ、思いつかないということ、という名前の女性なのです。
この名前そのものが、既に詩人を茶化している。
でも、こうして思うのは、ある概念に名前をつけて、それを擬人化することが容易にできる、ヨーロッパの言語の、ドイツ語という言語の、中世以来の伝統です。中世では、擬人化などではなく、確かに概念が生きていた。それを、Hartmann von Aueの購読を通じて、学生のころ、知りました。これは、これで、言語の問題としては、実に深い主題です。Frau Minne (Mrs. Love)とは、Frau Welt (Mrs. World)という言葉が実際に生きているのです。
さて、この女性としてあらわれた、無着想のおばさん(おばさんなのだろうか?)は、詩人をどうも、子供扱いしているようです。
あーはむむ、えーはむむ、などというのは、詩人が呻吟して、言葉の出ないときの言葉、着想の浮かばないときの、思いつき無しのときの言葉でしょうが、それが題して、創造性の賛歌というのですから、笑うべし。詩人の方も結構な詩人です。
この詩人は、1937年生まれ。2006年に亡くなっています。
詩作をしていて、気晴らしのために書いた詩なのかも知れません。そんな詩も、詩にしてしまうのですから、これは詩人というべきひとでしょうね。
2011年2月11日金曜日
Fruehling(春):第8週
Fruehling(春):第8週
by Wolfgang Hilbig
【原文】
Endlich gehen meine Fuesse
Wieder durch den Schlamm
Der aufgetauten Erde.
Die ersten Voegel senden ihre Gruesse.
Ein umgestuertzter Stamm,
Dessen Leben der Winter versehrte,
Liegt schweigend,
Wie jeder Tote,
Im Morast.
Unbeweglich zeigend,
Reckt sich in rote
Abendluft sein einziger Ast.
Da gruent das erste Distelblatt,
Die Luft ist zauberrein und frisch;
Die Atmosphaere ist wie neugeboren.
Der Winter, der weisse Spuk entwich,
Meine arme Seele hat
Nun lang genug gefororen.
【散文訳】
到頭、わたしの足が
雪も氷も解けた大地の泥濘(ぬかる)みに
再び入ったぞ。
最初の鳥たちが挨拶を送っている。
倒れた幹、
冬がその生命を傷つけたのだが、
その幹は泥の中に
どの死者もそうであるように
沈黙して横たわっている。
動かずに指し示しながら
赤い夕方の空気の中へと
手脚(てあし)を伸ばしているのは
その幹の唯一の枝だ
そこに、最初の薊(あざみ)様の葉っぱが
緑をなしていて、
空気は、魔法にかけられたように純粋で、新鮮で、
雰囲気は、新たに生命が生まれたかのようだ。
冬、あの白い幽霊は、退き、
わたしの哀れな魂は
こうしてもう十分長い間凍えていたのだ。
【解釈】
冒頭、Endlich、エントリッヒといって、遂に、到頭で始めたところに、長い間春を待ち望んでいた気持ちの爆発がある。
遂に、到頭だけでは、その気持が伝わらないと思ったので、文の最後に強意の助詞、ぞ、を付けた次第。
最初の鳥たちという言い方にも、新しい歳の始まり、季節の最初の始まりが強く思われる。鳥の飛び方も、春であればこそ、冬とは違うのだろう。
倒れた木の幹の、そこから生まれた一枝に緑が萌え染めるというところが、よい。春の兆しを表しているのでしょう。
この萌え染める緑から(あるいは青というべきか)、文は連続して、次と次の文まで、一気に流れて、続いています。
また、
冬、あの白い幽霊は、退き、
わたしの哀れな魂は
こうしてもう十分長い間凍えていたのだ。
と訳した最後の一行も、ふたつの文から敢えてなっています。
冬という白い幽霊が退くことと、わたしのかわいそうな魂が、冬に耐えて凍えていたことと、このふたつのことの関係を、読者にも感じてもらいたかったのでしょう。
この詩人は、1941年から2007年を生きたひとです。
by Wolfgang Hilbig
【原文】
Endlich gehen meine Fuesse
Wieder durch den Schlamm
Der aufgetauten Erde.
Die ersten Voegel senden ihre Gruesse.
Ein umgestuertzter Stamm,
Dessen Leben der Winter versehrte,
Liegt schweigend,
Wie jeder Tote,
Im Morast.
Unbeweglich zeigend,
Reckt sich in rote
Abendluft sein einziger Ast.
Da gruent das erste Distelblatt,
Die Luft ist zauberrein und frisch;
Die Atmosphaere ist wie neugeboren.
Der Winter, der weisse Spuk entwich,
Meine arme Seele hat
Nun lang genug gefororen.
【散文訳】
到頭、わたしの足が
雪も氷も解けた大地の泥濘(ぬかる)みに
再び入ったぞ。
最初の鳥たちが挨拶を送っている。
倒れた幹、
冬がその生命を傷つけたのだが、
その幹は泥の中に
どの死者もそうであるように
沈黙して横たわっている。
動かずに指し示しながら
赤い夕方の空気の中へと
手脚(てあし)を伸ばしているのは
その幹の唯一の枝だ
そこに、最初の薊(あざみ)様の葉っぱが
緑をなしていて、
空気は、魔法にかけられたように純粋で、新鮮で、
雰囲気は、新たに生命が生まれたかのようだ。
冬、あの白い幽霊は、退き、
わたしの哀れな魂は
こうしてもう十分長い間凍えていたのだ。
【解釈】
冒頭、Endlich、エントリッヒといって、遂に、到頭で始めたところに、長い間春を待ち望んでいた気持ちの爆発がある。
遂に、到頭だけでは、その気持が伝わらないと思ったので、文の最後に強意の助詞、ぞ、を付けた次第。
最初の鳥たちという言い方にも、新しい歳の始まり、季節の最初の始まりが強く思われる。鳥の飛び方も、春であればこそ、冬とは違うのだろう。
倒れた木の幹の、そこから生まれた一枝に緑が萌え染めるというところが、よい。春の兆しを表しているのでしょう。
この萌え染める緑から(あるいは青というべきか)、文は連続して、次と次の文まで、一気に流れて、続いています。
また、
冬、あの白い幽霊は、退き、
わたしの哀れな魂は
こうしてもう十分長い間凍えていたのだ。
と訳した最後の一行も、ふたつの文から敢えてなっています。
冬という白い幽霊が退くことと、わたしのかわいそうな魂が、冬に耐えて凍えていたことと、このふたつのことの関係を、読者にも感じてもらいたかったのでしょう。
この詩人は、1941年から2007年を生きたひとです。
2011年2月5日土曜日
Februar(2月):第7週
Februar(2月):第7週
by Adolf Endler
【原文】
Februar
1.
Die Wletraumkaelte sickert ein in meine Haut.
2.
Ich hoer dem Schnee der Erde zu. Er taut und taut.
【散文訳】
2月
1.
世界空間の寒さは、わたしの肌の中に滴(したた)り、滲(にじ)むようにして入ってくる。
2.
わたしは大地の雪に耳傾ける。雪は、解ける、解ける。
【解釈】
この詩人は、1930年から2009年を生きたひと。
2月になって、この月がどういう月かを、箇条書きで書いている。
1は、やはりある寒さ。2は、雪解け。
この相反するものがある月が2月だということなのでしょう。
世界空間の寒さという言葉は、この詩人の造語です。
もっというならば、造語通りに、世界空間寒さ、です。このひとことで、2月という月の寒さのすべてを表している。
最後の文、雪が、解ける、解ける、という繰り返しに、いかにも春を迎える喜びがあります。
ドイツ語のtauen、タウエンという言葉が、いかにも、そのような言葉としてあることがわかります。
前回の詩のなかにも、Tauwind、タウヴィント、雪や氷をとかす風という風、春風がありました。
最後の文を、雪は、解ける、解ける、としましたが、雪が、解ける、解けるとしても、よいと思います。
或いは、解ける、解けるを、解けている、解けている、としても。
日本人ならば、2月とせず、立春という題にするところでしょう。
by Adolf Endler
【原文】
Februar
1.
Die Wletraumkaelte sickert ein in meine Haut.
2.
Ich hoer dem Schnee der Erde zu. Er taut und taut.
【散文訳】
2月
1.
世界空間の寒さは、わたしの肌の中に滴(したた)り、滲(にじ)むようにして入ってくる。
2.
わたしは大地の雪に耳傾ける。雪は、解ける、解ける。
【解釈】
この詩人は、1930年から2009年を生きたひと。
2月になって、この月がどういう月かを、箇条書きで書いている。
1は、やはりある寒さ。2は、雪解け。
この相反するものがある月が2月だということなのでしょう。
世界空間の寒さという言葉は、この詩人の造語です。
もっというならば、造語通りに、世界空間寒さ、です。このひとことで、2月という月の寒さのすべてを表している。
最後の文、雪が、解ける、解ける、という繰り返しに、いかにも春を迎える喜びがあります。
ドイツ語のtauen、タウエンという言葉が、いかにも、そのような言葉としてあることがわかります。
前回の詩のなかにも、Tauwind、タウヴィント、雪や氷をとかす風という風、春風がありました。
最後の文を、雪は、解ける、解ける、としましたが、雪が、解ける、解けるとしても、よいと思います。
或いは、解ける、解けるを、解けている、解けている、としても。
日本人ならば、2月とせず、立春という題にするところでしょう。
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