2015年12月6日日曜日

リルケの『形象詩集』を読む(連載第8回):『狂気』、『Der Wahnsinn』

 リルケの『形象詩集』を読む(連載第8回)

狂気Der Wahnsinn


【原文】

Sie  muß immer sinnen: Ich bin…ich bin…
Wer bist du denn, Marie?
Eine Königin, eine Königin!
In die Knie vor mir, in die Knie!

Sie muß immer weinen: Ich war…ich war…
Wer warst du denn, Marie?
    Eine Niemandsland, ganz arm und bar,
    und ich kann dir nicht sagen wie.

Und wurdest aus einem solchen Kind
eine Fürstin, vor der man kniet?
   Weil die Dinge alle anders sind,
   als man sie beim Betteln sieht.

So haben die Dinge dich groß gemacht,
und kannst du noch sagen wann?
    Eine Nacht, eine Nacht, über eine Nacht, −
    und sie sprachen mich anders an.
    Ich trat in die Gasse hinaus und sieh:
    die ist wie mit Saiten bespannt;
    da wurde Marie Melodie, Melodie…
    und tanzte von Rand zu Rand.
    Die Leute schlichen so ängstlich hin,
    wie hart and die Häuser gepflanzt, –
   denn das darf doch nur eine Königin,
   dass sie tanzt in den Gassen: tanzt!…


【散文訳】
女はいつも瞑想しなければならない:わたしは(斯(か)く)在る…わたしは(斯(か)く)在る…
お前は一体誰なのだ?、マリーよ
女王さまさ、女王さまに決まっている!
わたしの前で、膝の中へと入り込みなさい、膝の中へと入り込みなさい!

女はいつも泣いている:わたしは(斯(か)く)在つた…わたしは(斯(か)く)在つた…
お前は一体誰だったのだ?、マリーよ
  誰も住まぬ国だ、全く貧しく、そして剥(む)き出しの
  そうして、わたしはお前には、どのように全く貧しく、そして剥き出しであるのかを言うことができない。

そして、お前は、そのような一人の子供の中から(外へと出て)
君主になったのか?、その前では世間の人が跪(ひざまづ)くような
 何故ならば(何故跪くかといえば)、事物は皆、異なっているのだから
 君主が乞食になって物乞いするのを、世間が見るのとは異なっているのだから。

そして、お前は、それはいつであったかを、まだいうことができるのか?
  ある夜、ある夜、一晩中ー
  そして、事物は、わたしに、異なった風に話したのだ。
  わたしは、裏通りの中へと遠慮なく足を踏み入れて、そして見る:
  裏通りは、琴の弦が張られているように、緊張している、(何故ならば)
  そこで、マリーが、旋律になったからだ、旋律になったからだ…
  そして、縁(へり)から縁へと踊ったのだ。
  人々は、忍び足で向こうへ行った
  硬くなっているかのように、そして、家々は植え付けられてー
  というのは、それは、何と言っても、女王さまだけに許されることなのだ  
  女王さまが、裏通りで踊るということは:(女王さまが)踊るのだ!...


【解釈と鑑賞】

この詩を読むと、リルケが瞑想する(sinnen)という動詞を書くときには、その主語は何かの内部にいるのだということがわかります。瞑想は何かの内部で行う行為なのです。同じ使用例が、第4回に論じた『ハンス・トマスの60歳の誕生日に際しての二つの詩』の騎士』にありました。

「しかし、騎士の甲冑の中、その中の
 最も暗い闇の格闘の背後には
 死神が蹲(うずくま)り、そして、死神は瞑想し、瞑想しなければならない:
 何時(いつ)剣(つるぎ)は
 鉄柵を超えて飛ぶことになるのだろうか、と」

この詩にあっても、死神は騎士の甲冑の内部で瞑想を繰り返しています。そうして、それによって、何かの内部から外部へと、死神の場合であれば「鉄柵を超えて飛」び出すのですし、この詩の女王さまの場合であれば、「そのような一人の子供の中から(外へと出て)/君主になったのか?」と質問されています。

そうして、この女の瞑想する内心の声が、「ich bin…ich bin」、「わたしは(斯(か)く)在る…わたしは(斯(か)く)在る…」という言葉であれば、これはそのまま些(いさ)さか哲学風に訳すれば、「わたしは存在する…わたしは存在する」という訳にはなるでしょう。

しかし、そのような翻訳語に頼らずに、普通に此の文をドイツ語として理解すれば、「わたしは何々である…わたしは何々である」という意味になります。この何々に当たること、即ちわたしが何であれ、誰であるかということが、この女にはわからないのです。あるいは、記憶を失っていると言っても良いのですし、それほどに、わたしが何か誰かを言うことができないのです。これは、この詩を読むあなたと同じではないでしょうか。

従い、それを思い出すために、瞑想するのですし、瞑想するという意味は、自分自身を思い出すということなのです。リルケがここで言っていることは、現在に生きる其のわたしは、自分自身が何であるか誰であるかを忘れているということ、それが、ich bin(イッヒ・ビン)、即ち、わたしが存在する(と翻訳される其の)ことだと言っているのです。

これが、十代の安部公房がリルケの詩を読んで理解した、次の文章なのです。1947年、満年齢でいうと、安部公房24歳。

「リルケの、”唯、私は在ると叫べば良いのだ”と云う、雄々しくも悲しい決意は一切の理念を黙らして終う。」(『〈様々な光を巡って〉』全集第1巻、204ページ)

この一行の前段で安部公房の言っているのは、対立的に考える思考論理、即ち「それは、時間と空間、個体と全体、生命と生活、有と無、……」から生まれた19世紀のあらゆる理念の根底にある此の考え方を口にすることを、リルケの此の「唯、私は在ると叫べば良いのだ」と云う一行は「黙らして終う」というのです。即ち、この『狂気』という詩の第一連にならって言えば、「唯、私は何々で在ると叫べば良いのだ」という意味なのであり、更に言えば、「唯、私は私の自己を忘却したのだと叫べば良いのだ」という意味なのであり、もっと言えば、「唯、私は無名の人間だ」と言えばいいのだという意味なのであり、要するに此らを一言で言えば、「唯、私は存在すると叫べば良いのだ」と言っているのです。

何故叫ぶのかと言えば、それはこの世の中は皆、「時間と空間、個体と全体、生命と生活、有と無、……」という二項対立の思考で成り立ってい(ながら、世の人々は、これをぼんやりと思っているだけで、普段は其の間の灰色の、縁(へり)の無い曖昧な領域に謂わば漂うように生きてい)るからです。しかし、リルケはそうは言っていない。譬喩を使って分かりやすく言えば、これらの両極端の間に身を裂かれて生きよと言っているのです。これらの間に、即ち時間と空間の間に、個体と全体の間に、生命と生活の間に、有と無の間に、即ち此らの交差する其の十字路に立つことが、存在することなのであり、従い無名の人間として未分化の実存としてあることなのであり、人々の忘却に身を任せて、また世間による忘却を意に介することなく、自分自身の固有の死を求めて、この交差点という二項対立の交差点の隙間に、その差異、即ち上位接続点に身を潜(ひそ)めて密(ひそ)やかに棲むことが、安部公房がリルケに学んだ詩人としての一生の生き方なのです。


これが、安部公房がリルケに教わった「わたしは存在する」ということの意味です。

従い、このエッセイの結論として、その末尾に、安部公房は次のように書くのです。これが、安部公房です。安部公房のすべての小説の主人公たちの姿です。

「〈問題〉……如何にして忘却すべきであるか?
 〈解決〉……それは忘却によってである。
 現代にとって此の定律の宣告は生々しい記憶である。」

そうして更にダメ押しの、人間の心理分析による、本当に最後の最後に措いた、安部公房のもう一言。

「問題が提出されたと云う事の裏には、行動によって自己が要求され得るに異いないと云う本能的独断が潜在していたに相違ない。だが而し、更にその奥には、既に迫っている自己解体の宿命を予知しつつ……。

これらの引用にある「……」が、沈黙であり、空白であり、上の次元へいつも脱出するための上位接続点であることは、既に諸処でお話しして参り、特に『奉天の窓の暗号を解読する』(もぐら通信第32号及び第33号)と『『箱男』論~奉天の窓から8枚の写真を読み解く』(もぐら通信第34号)で、この「……」という記号が如何に安部公房の小説の構造を本質的に決定するかを詳細に論じた通りです。安部公房の言葉は、いつも此処(ここ)から、この「……」という沈黙と忘却の空白から、詩も写真も小説も舞台も、生まれて来るのです。何故なら、空白とは誰も振り返らぬ(物事と物事との)隙間であり、差異だからです。差異とは、即ち透明なる接続点、上位接続点です。[註1]従い、父親は存在になれば透明になってしまい、贋の父親と呼ばれるのです。贋の幽霊、贋の人間であるウエー、贋の火星人、贋の狸、贋のカンガルー、皆本物(現実のもの)にそっくりな擬(もど)きであり、擬装の生き物たち、即ち存在からやって来た生き物たちです。話は飛びますが、存在について思念を凝らす場所である御寺で修業する御坊さんの食する精進料理という贋の料理もあれば、日常生活の中にあるガンモドキという雁の肉の擬きもありましょう。

[註1]
『カンガルー・ノート』の最後の詩から、空白の、無の、上位接続点についての形象を引用して、示します(全集第29巻、188ページ下段)。

「北向きの小窓の下で
 橋のふもとで
 峠の下で

 その後
 遅れてやってきた人さらい
 会えなかった人さらい
 わたしが愛した人さらい

  遅れてやってきた人さらい
  会えなかった人さらい
  わたしが愛した人さらい

(オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ)」

第1連で、

「北向きの小窓の下で
 橋のふもとで
 峠の下で」

と歌われる場所が、上位接続点です。これらは皆交差点であり、十字路なのです。そこに、存在を、いつも安部公房は招来する。

そうして、第2連で歌われるように、人さらいは、『箱男』の最後に登場する安部公房の詩のように「平らな時計を持っている者がいたら/それはスタートしそこなった/一周おくれの彼」たる安部公房の創造した話者について行くことができなかった。或いはまた、この「一週おくれの彼」が人さらいであれば、やはり同様に、この詩の話者、即ち呪文を唱えて祈る者に会うことができないのです(『箱男』全集第24巻、138ページ下段の詩)。何故ならば、「だからいつも世界は/一周進みすぎている」からです。
それ故に、幾らお互いに、または一方が他方を愛しても、永遠に会うことができない。更に其れ故に、安部公房の呪文を唱える第3連が歌われるのです。それも、丸括弧の中に入れられて、従いこの歌を歌う話者の内心の独白として、そうして一文字分の空白を置いて、存在を招来するために。

「(オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ)」



二つ目の引用の最後の「既に迫っている自己解体の宿命」とは、上でやはり私の言葉であなたに伝えようとした「譬喩を使って分かりやすく言えば、これらの両極端の間に身を裂かれて生きよ」ということを言っているのです。これが20歳の論文『詩と詩人(意識と無意識)』(全集第1巻、104ページ)で論じた詩人の姿、即ち普遍的な人間の典型なのです。この論文には、このような人間として生きるためには一体どのように物を考えたら良いのか、その方法論(methodology)と方法が、この若者が十代で考え抜いた人生の戦略が、一生涯に亘る安部公房の論理と感情の凝縮が、鮮明に書かれております。わたしが、この論文は安部公房のOS(Operating System)だという所以(ゆえん)です。安部公房は、このOSを、後年投影体と呼んだ粘土塀に、壁に、砂に、顔に、地図に、箱に、病院に、石切場に、ノートブック(帳面)にinstallし続けたのです。

この論文には、二進数の言及があり、既に此の時、安部公房は電子計算機の数学、即ち19世紀のイギリスの数学者ジョージ・ブールの創造したブール代数の原理と記号論理学と(現代のソフトウエアのエンジニアが使う)真理表を知っていたことを示しています。[註2]1959年に発表された『第四間氷期』の取材で当時の電電公社を訪ねて電子計算機(コンピューター)に関する取材をしている安部公房の写真がありますが、電電公社の技術者の説明を数学的にも正確に理解していた安部公房の、これは小説家の姿なのです。『詩と詩人(意識と無意識)』は1944年、20歳、『第四間氷期』は1959年、35歳。

[註2]
「真理は正に、あらゆる次元の裡に、多種多様な姿をとって現れて来る。最初真理は判断の肯定的様式を以て始まる。a……b……cは真理である、と言う事と、α……β……γは真であると言う事は真理である、と言う表現とは、未定係数法可能的に一致する。つまりa……b……c……は、α……β……γは真であると言う形式に依ってのみ置き代えられ、満たされるのである。云い代えれば、真理は真虚の尺度である。そして此の場合、目盛の役目をするものは、他ならざる客観性なのである。此の事が真理と客観との第一の聯関である。」(『詩と詩人(意識と無意識)』全集第1巻、108ページ下段)

ここで、「云い代えれば、真理は真虚の尺度である。」と書いた事が、上の本文で述べた「二進数の言及」という意味です。今の論理学では、真虚とは言わず、真偽と言っていますが、当時の用語の方が正しい意味を漢字として表していると、私は思います。

そして、「真理は真虚の尺度である。そして此の場合、目盛の役目をするものは、他ならざる客観性なのである。」と言っている此の客観性を備えた客観の究極のものが、第三の客観と安部公房の呼ぶ、詩人が数かぎりない次元展開の果てに夜の中で眼にする究極の反照なのです。

これが、18歳の『問題下降に拠る肯定の批判』に書いて問うた「しかし、此処に新しい問題下降---- 一体座標なくして判断はあり得ないものだろうか。」(原文傍点)という問いに対する答えです。

未定係数法については、次の引用をご覧下さい。これを読みますと、二つの異なる次元の軸を互いに合わせるために、二つのものを置換と代替によって、思考の正しさを保証し、また二つのものを統合するために、簡略化する方法だということができます。化学の分野で多用される考えかたと見えます。

「質問:化学反応式における未定係数法とはどのようなものですか。

回答:例えば、「エタノール(CH3CH2OH)と酸素(O2)を反応させて二酸化炭素(CO2)と水(H2O)を生成する」という反応の化学反応式を書いてみます。

まず反応に関わる物質を書いてみます。
CH3CH2OH + O2 → CO2 + H2O

上の式では化学式の前の係数がばらばらなのでそれぞれにとりあえずa,b,c,dの係数を付けてみます。
aCH3CH2OH + bO2 → cCO2 + dH2O(・・・①)

次に左辺と右辺の各元素の数を合わせます。
炭素(C):左辺=2a個 , 右辺=c個
水素(H):左辺=6a個 , 右辺=2d個
酸素(O):左辺=a+2b個 , 右辺=2c+d個
なので
2a=c
6a=2d
a+2b=2c+d
の3つの方程式が立ちます。

ここで未定係数法のコツなのですが、「一つの係数をとりあえず1とおく」ということをします。
今回はa=1として考えて他の係数も算出します。
a=1 ,b=3 ,c=2 ,d=3
となります。

従って①の化学反応式は
CH3CH2OH + 3O2 → 2CO2 + 3H2O
となります。

このように化学反応式の係数を決める方法を未定係数法といいます。
またabcdが分数で出てきることがありますが、この場合は全てが整数になるように同じ数をかけてやればうまくいきます。

参考になればよいのですが、どうでしょうか。」(「ヤフー!Japan 知恵袋」:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1041855520



「女はいつも瞑想しなければならない:わたしは(斯(か)く)在る…わたしは(斯(か)く)在る…」

さて、この一行を次の第2連の最初の一行の「わたしは(斯(か)く)在つた…わたしは(斯(か)く)在つた…」と比較をして差異を見ると、わたしという此の一人称の話者である女は、内部にいると瞑想し、瞑想して、「わたしは(斯(か)く)在る…わたしは(斯(か)く)在る…」この現在の時間にいる時には、外部に出たいと願っている人間だということがわかります。

ところが、外部に出ると、今度は、「わたしは(斯(か)く)在つた…わたしは(斯(か)く)在つた…」と、過去の時間の中のわたしになるのです。

今という時間の中で瞑想して念願すると外部へ出て、外部へ出ると今度は過去の時間に生きた自分になってしまっている。これは逆説でもなく背理でもなく矛盾でもない。この外部と内部の交換される当の場所が、リルケの生きる両極端の隙間であり、安部公房の生きている次の次元への上位接続点なのです。

この場所は、女王は一人いても「誰も住まぬ国」なのであり、その女王は「全く貧しく、そして剥(む)き出しの」ままにいるのです。 何故ならば、それは、「わたしは(斯(か)く)在る…わたしは(斯(か)く)在る…」という世界なのであり、わたしは医者であるとか、わたしは弁護士であるとか、わたしは消防士であるとか、わたしは何々であるというのではなく、只々「わたしは……ある」「わたしは……存在する」というだけの世界、即ち衣裳を剥ぎ取り剥ぎ取られて在る故に「全く貧しく、そして剥(む)き出しの」女王であるのです。裸の王様というアンデルセンの有名な童話を思い出せば、これを裸の女王さまと言っても良いでしょう。あなたも普段は、衣裳を着て現在の時間の中に生きている。

何故あなたはアンデルセンの『裸の王様』を容易に理解するのでしょうか。それは、あなたが普段は衣裳を身にまとうことによって何かを忘却しているが、実は裸であったということを思い出し、そうしてリルケ流に言えば、存在であるあなた自身を思い出すからです。即ち、未分化の実存に、あなたはなっていることを思い出すのです、即ち知るのです。

それが嫌で外部に脱出すると、今度は過去の時間の中に生きなければならない。それでは、外部にいて外部から見ると、内部にいて現在の時間の中にいて生きていた(「既にして」超越論的に現在に存在している過去の時間!)あなたは一体誰であり何であるのか?

このように考えて来ると、外部と内部という空間的な(捨て身の)交換によって、時間が消滅すること、時間が無化されることがお判りでしょう。これを、安部公房はリルケから学んだのです。日本人ならば、平安時代の昔から(川の淵に)「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というところです。古代の格言の宿す智慧は、現代の存在論にあっても、正しいのです。

世界の果てに主人公が到達すると、その主人公の死と引き換えに現れる「明日の新聞」も死亡広告や失踪宣言書も、無名の人間として主人公が遂に選択する自己犠牲と自己忘却と自己喪失によって生まれる外部と内部の交換による時間の消滅した上位接続点の積算の記(しるし)であり章(しるし)であり標(しる)べなのであり、安部公房の読者承知の「終りし道の標べに」なのです。

この詩の第1連と第2連をこのように読むと、外部と内部の交換という一見空間的な関係の交換が、実は時間の無化を生み出していることがわかるのです。そうして、ここに存在が招来される。[註3]

[註3]
安部公房は、この隙間に存在を招来することを『阿波環状線の夢』というエッセイの中で、その例として、次のようにいっております(全集第25巻、134ページ上段)。

「すべてのバナナは果物だが、すべての果物がバナナとは限らないのである。」(傍線筆者)

この「とは限らない」という言葉の、従い思考論理の、この変形の生まれる接続の隙間(差異)に、実際に「見た夢」(原文傍点)があり、都市の廃墟があり、塵捨て場があり、廃物が棲み、廃人が棲み、「存在しないもののシンボル」であるカメラの被写体があり、そこでは「現実のネガにな」る装置としてのカメラがあり、『箱男』の8枚の写真があり(『シャボン玉の皮』全集第24巻、416ページ)、「空飛ぶ男」が空を飛び(全集第23巻、333ページ)、「何時(いつ)も壊れかかった蓄音機のような子供だったような気」のする安部公房が棲んでいるのです(新潮社文庫『笑う月』所収『蓄音機』、63ページ)。


さて、しかし、第1連にある「膝の中へ」とは何を言っているのでしょうか。この『形象詩集』にある「膝まづく」という動詞や「膝」という名詞を探して、その使い方を見てみましょう。すると、全部で、この詩を含めて、6回の使用がなされていることがわかります。このうち3回が、この詩にあり、残りの3件の使用例は、次のようなものです。

1。『幼年時代』(『Kindheit』)
2。『少年』(『Der Knabe』)
3。『詩の会』(『Ein Gedichtkreis (1899 und 1906)』の第IV章)

最初の『幼年時代』という詩は、子供の時代を歌った詩で、今回の詩と同じ節廻し、同じ語彙が出てきます。

Und durch das alles gehen im kleinen Kleid,
ganz anders als die andern gehen und gingen−
O wunderliche Zeit, o Zeitverbringen,
o Einsamkeit.
そして、これらすべてのことを通って、小さな衣裳の内部で
他の者達が行き、そして行ったのとは全く異なる風に行くのである。即ち、
おお、素晴らしい時間よ、おお、時間の蕩尽よ
おお、孤独よ。

そうして、この連の後に、子供達が、男であり女である大人達とはどれほどに違うかということを歌い、庭で球体と円環の遊具で遊び、それが庭の内部での成熟をもたらすことを歌い、夕方になると子供達は家路へと就くが、さてその次にこのような連がきます。

Und stundenlang am großen grauen Teiche
mit einem kleinen Segelschiff zu knien;
es zu vergessen, weil noch andre gleiche
und schönere Segel durch die Ringe zehn,
und denken müssen an das kleine bleiche
Gesicht, das sinkend aus dem Teich schien−
O Kindheit, o entgleitende Vergleiche.
Wohin? Wohin?
そして、何時間もの間、大きな灰色の池のほとりで
一艘の小さな帆船で遊びながら膝まづいていること
そのことをを忘れるということ、何故ならば、もっと他に同じ
そしてもっと美しい数々の帆が、数々の円環の中を通って往き
そして、これらの帆は、この小さな蒼白の顔のことを考えねばならない
沈みながら、池の内部から外部へと出てきて輝く顔のことを:
おお、幼年時代よ、おお、逃げて滑りゆく数々の直喩よ。
どこへ行くのだ?どこへ行くのだ?

次の『少年』という詩での用例は次のようなものです。私とあり、私たちとあるのは、子供と思ってお読み下さい。

Und einer steht bei mir und bläst uns Raum
mit der Trompete, welche blitzt und schreit,
und bläst uns eine schwarze Einsamkeit,
durch die wir rasen wie ein rascher Traum:
die Häuser fallen hinter uns ins Knie,
die Gassen biegen sich uns schief entgegen,
die Plätze weichen aus: wir fassen sie,
und unsre Rose rauschen wie ein Regen.
そして、ある人が、私のそばに立っていて、私たちに空間を吹いて寄越す
トランペットを使って、トランペットは煌(きら)めき、進行し、
そして、私たちに、ある黒い色をした孤独を吹いて寄越し、
その孤独に因って、私たちは、疾風迅雷の夢のように狂い暴れ廻る。即ち、
家々は、私たちの背後で、膝まづき、膝を折り入れ
裏通りという裏通りは、斜めに傾いで、お互いに体を曲げ合い、
場所という場所は、退いて行く。即ち、私たちは、これらのものを捕捉し、
そして、私たちの薔薇は、雨のようにさやさやとさやけき音を立てている。


三つめの『詩の会』は次のような詩です。この引用の前段では、宮殿や皇帝や狂気や玉座や金色の衣裳や空間やらの語彙が配置されて歌われて、次の連になります。この連で、ボヤーレンと言われている人間たちには、ロシアと其の周辺国であるブルガリア、ルーマニア、白ロシア等々での歴史があって、8世紀以来これらの国々に住み、大地主の階層を形成し、皇帝に使えた貴族層の名前です。詳細はまた此の詩を読むときに知ることにして、このことを念頭に置いて、本題に入ります。

Und weiter denken sie: Das Kaiserkleid
schläft auf den Schultern dieses Knaben ein.
obgleich im ganzen Saal die Fackeln flacken,
sind bleich die Perlen, die in sieben Reihe
wie weisse Kinder knien um seinen Nacken,
und die Rubine an den Ärmelzacken,
die einst Pokale waren, klar von Wein,
sind schwarz wie Schlacken−

Und ihr Denken schwillt.
そして、更に、ボヤーレンたちは考える。即ち、皇帝の衣裳は
この子供の両肩の上で眠り込んでいる。
たとえ、大広間全体の内部で、篝火の火が揺らめかうとも、
数々の真珠は蒼白であり、それらは、七つの列をなして、
白い色をした子供たちのように、子供の頸(うなじ)の周りに膝まづいて
そして、数々の紅玉が、葡萄酒の清澄な色をして、
鉱滓(こうさい)のように黒い色をしている-

そして、ボヤーレンたちの思考は膨張する。


これらの連を読んでわかることは、次のようなことです。

1。子供は、球体と円環という完璧な形象・形態と無心に遊ぶものであること
2。それは、空間の外部と内部の交換の場所にいること
3。その場所は、縁(へり)であること、周辺であること
4。子供が、その遊びを徹底すると、世界の中にある秩序だった諸物は、それが皇帝という地上の最高位の物から最低のものに至るまで騒ぎ立ち、膝まづくこと。しかし、
5。子供もまた、そのようにある世界にあって、その縁で無心に、忘却の中に、膝まづくこと
6。その子供の姿は、眠る人間の姿であること
7。その姿に諸物諸人は、つきしたがうこと
8。子供は「内部から外部へと出てきて輝く顔」を持っているらしいこと

ということになるでしょう。

膝まづくという行為は、普通私が思うには、祈りの行為です。膝まづくということと一緒に、キリスト教徒であれば、祈りの手の形を両手で形作り、祈るのではないでしょうか。

しかし、勿論、リルケはキリスト教の唯一絶対全知全能のGodを歌っているのではなく、そのGodを包括する子供の姿を、普通の他の既に社会的にも性的にも分化した男や女の大人達とは、全く異質のものとして歌っているのです。

子供は、内部と外部の交換される境界線上で無心に遊んでいる。それが、子供が膝まづく行為である。

このように見て参りますと、第1連の最後の「わたしの前で、膝の中へと入り込みなさい、膝の中へと入り込みなさい!」という一行の意味は、マリーという女性が大人の女性か、女の子供かはわかりませんが、前者であれば、内部と外部の交換される境界線上で無心に遊ぶことを薦め、後者であれば、薦めるのではなく、祈りとして、この言葉を発したということになります。

第1連と第2連を読みますと、互いに見かけ上存在との関係では此の女性は背理の関係にありますから、即ち[(過去、現在)、(存在したこと、存在すること)]という関係が、言語の時制(時間の処理の規則)とは、擦れ違い、行き違っておりますので、やはり、これは大人の女性であるということになります。子供ならば、この行き違いは起きないのです。子供は、このような大人とは全く異質の世界にいるのです。それ故に、第3連で、次のようにリルケは歌うのです。

Und wurdest aus einem solchen Kind
eine Fürstin, vor der man kniet?
   Weil die Dinge alle anders sind,
   als man sie beim Betteln sieht.
そして、お前は、そのような一人の子供の中から(外へと出て)
君主になったのか?、その前では世間の人が跪(ひざまづ)くような
 何故ならば(何故跪くかといえば)、事物は皆、異なっているのだから
 世間の人間が、君主が乞食になって物乞いするのを見るのとは異なっているのだから。

子供が内部と外部の交換される縁にあって跪(ひざまづ)くのとは異なり、世間の人間たちは、昔は子供であり未分化の実存であった此の大人になって性も社会的地位も分化して、「私は存在する」とだけでいい切ることができず、「私は何々として存在する」という其の何々としてとか、何々のように(直喩)とか言い言われることになって、世間の大人たちにとっては女性の君主としてある其の御前に、膝まづくのです。

そのような拝跪は、君主が乞食になって物乞いするのを見て拝跪するのとは異なっている、あるいは、そのような君主の姿を見て憐れみ、膝まづいて拝跪するのとは異なっているというのです。

そのような君主の姿を思っては全くいない拝跪、この世の事物が、または物事が、そのようになさしめ、世間の物事がなさしめている偉大な君主の姿です

そうして、最後の連が来ます。

「このようにして、事物はお前を偉大にした
 そして、お前は、それはいつであったかを、まだいうことができるのか?
  ある夜、ある夜、一晩中ー
  そして、事物は、わたしに、異なった風に話したのだ。
  わたしは、裏通りの中へと遠慮なく足を踏み入れて、そして見る:

  わたしは、裏通りの中へと遠慮なく足を踏み入れて、そして見る:
  裏通りは、琴の弦が張られているように、緊張している、(何故ならば)
  そこで、マリーが、旋律になったからだ、旋律になったからだ…
  そして、縁(へり)から縁へと踊ったのだ。
  人々は、忍び足で向こうへ行った
  硬くなっているかのように、そして家々は植え付けられてー
  というのは、それは、何と言っても、女王さまだけに許されることなのだ  
  女王さまが、裏通りで踊るということは:(女王さまが)踊るのだ!...」


第1連と第2連を読みますと、互いに見かけ上存在との関係では此の女性は背理の関係にありますから、即ち[(過去、現在)、(存在したこと、存在すること)]という関係が、言語の時制(時間の処理の規則)とは、擦れ違い、行き違っておりますので、この詩の話者は「このようにして、事物はお前を偉大にした/そして、お前は、それはいつであったかを、まだいうことができるのか?」と問うことができるのです。

その何時とは、現在の時間に生きていて「私は存在する」ということを絶えず瞑想しなければならない大人の女性としての自分の生きている今なのか、それとも、「私は存在していた」のにと過去形でいうことになつて、その喪失を嘆き絶えず悲しむことになっている今なのか。即ち、

お前の今いる場所は、内部なのか外部なのか?と話者は問うているのです。

お前の存在するべき場所は、内部と外部の交換される境界線ではないのか?、豪勢な煌びやかな衣裳を脱ぎ捨てて裸になる其のNobody’s land(Niemandsland)、誰もいない国に住むことではないのか?、その「ある人が、私のそばに立っていて、私たちに空間を吹いて寄越す/トランペットを使って、/トランペットは煌(きら)めき、進行し、/そして、私たちに、ある黒い色をした孤独を吹いて寄越し」た此の「黒い色をした孤独」に一人棲むことではないのか?(『少年』)それ故に、大人となっていても、その無心の子供の孤独を思い出すのは、黒い色をした夜でなければならないのです。従い、話者の語るマリーの物語として、最後の連の段差をつけて、数文字退(ひ)かせて文字を続けた詩行が最後に来るのです。

「ある夜、ある夜、一晩中ー
  そして、事物は、わたしに、異なった風に話したのだ。
  わたしは、裏通りの中へと遠慮なく足を踏み入れて、そして見る:
  裏通りは、琴の弦が張られているように、緊張している、(何故ならば)
  そこで、マリーが、旋律になったからだ、旋律になったからだ…
  そして、縁(へり)から縁へと踊ったのだ。
  人々は、忍び足で向こうへ行った
  硬くなっているかのように、そして家々は植え付けられてー
  というのは、それは、何と言っても、女王さまだけに許されることなのだ  
  女王さまが、裏通りで踊るということは:(女王さまが)踊るのだ!...」


夜に「事物は、わたしに、異なった風に話した」とは、上の3つの詩で既に見たように、普通の世界の秩序だった物事や事物のあり方とは異なって話したという意味であることは、明瞭でありましょう。

そうして、「裏通り」とは、既に『或る四月の中から(外へ)』(もぐら通信第33号)で見たように、秩序だって整理されている表通りではなく、存在の立ち現れる裏街の通りの、内部と外部の境界線である存在の窓のある場所なのです。[註4]

[註4]

或る四月の中から(外へ)

再び、森が匂い立つ
宙に浮遊している雲雀(ひばり)たちは
自分自身と一緒に(自己を以って)、わたしたちの肩には
重かった其の天を高く持ち上げている
なるほど、人は、未(いま)だ数々の大枝を通して、一日というものが如何に空虚であったのかを見たのであるが
しかし、長い、雨の降り続いている数々の午後の後に
黄金色(こがねいろ)に太陽の光の射し渡った
より新しい、数々の時間がやってくるのであり
それらの時間から逃れて、遥かな家々の前面に在る
総ての傷ついた
窓々は、びくびくしながら(臆病なことに)、両開きの窓(の両翼)を打ちたたいているのだ。

すると、静かになるのだ。おまけに、雨が、より微(かす)かな音を立てて通って行くのだ
数々の石畳の石の、静かに大人しく(少しづつ)暗くなって行く輝きの上を。
総ての小さな物音は、全く潜(もぐ)り込むのだ
沢山の若枝の、輝いている沢山の若芽の中へと。

この詩の裏通りと其の窓について、以下の註記を施しました:

22。「わたしの鳥達は、裏通りではたはたと羽を打って飛ぶことになり、見知らぬ窓
  (複数形)に止まって傷つくのだ」という、鳥にとっては其のような窓であるこ
   と。(『Die Blinde』(『盲目の女』))鳥は、高さの中を飛翔するが故に、そ
   うして無心であることによって、存在となっている動物の一つなのであり、群れ
   をなして飛んでいるにも拘わらず、また群れがものに当たって別れることがあっ
   ても、自然にまた一つの飛翔に還ることのできる、無時間の空間を生きる生き物
   なのでした。風もまた、リルケの世界では、鳥と同じ能力を有する存在なのでし
   た。(『ドィーノの悲歌』『オルフェウスへのソネット』)

ここで、上記22に書いた「わたしの鳥達は、裏通りではたはたと羽を打って飛ぶことになり、知らぬ窓(複数形)に止まって傷つくのだ」とあるように、リルケの詩の世界では、鳥は存在になる能力を有する生き物であり、存在になった鳥であり、存在である鳥にとっては、存在の窓ではない窓は、その窓に止まると、そのような傷つけられる窓であることを考えて下さい。


ここで、「わたしは、裏通りの中へと遠慮なく足を踏み入れて、そして見る」と語ることのできる話者は、既に存在になっている話者であり、存在が語っていると言っても良いのです。

そうしてみれば、

「裏通りは、琴の弦が張られているように、緊張している、(何故ならば)
  そこで、マリーが、旋律になったからだ、旋律になったからだ…
  そして、縁(へり)から縁へと踊ったのだ。」

と歌われる意味も、あなたには自明でありましょう。

リルケは弦楽器を好んで歌います。この連載第3回の『ハンス・トマスの60歳の誕生日に際しての二つの詩』の最初の詩『月夜』(もぐら通信第34号)から、弦楽器がリルケにとって持っている意味を再掲します。

「月夜

南ドイツの夜は、成熟した月の中にあって、全く広く
そして、すべての童話の再来のように、柔らかである。
塔からは、たくさんの時間が重たく落ちて来て
海の中へと落ち入るように、時間たちの其の深淵の中へと落ち入り
と、さやけき音と、夜間歩哨の叫び声がして
暫くの間、沈黙が空虚のままに留まっている
すると、次には、ヴァイオリンが(何処から聞こえてくるのか誰が知ろう)
目覚めて、全くゆっくりとこう言うのだ:
                   或る金髪の女が...


このように読み進めて参りますと、このヴァイオリンの音(ね)もまた、この差異で演奏されて、その音が響きでて来るのではないでしょうか。

「何処から聞こえてくるのか誰が知ろう」と括弧に入れてある一行を、そのように訳しましたが、英語の世界も同様のことですが、神のみぞ知るという意味です。原文のドイツ語を其のまま訳せば「何処から聞こえてくるのか神だけが知っている」という意味なのです。

そうしてみれば、やはりこのヴァイオリンの音は、神聖な、神的な音色であり、楽器であるということになります。試みに、この詩集の中でヴァイオリンの登場する詩は、この詩を含めると4篇あり、今残りの3篇を挙げて示します。

1。『Der Nachbar』(『隣人』)
2。『Am Rande der Nacht』(『夜の縁(へり)で』)
3。『Der Sohn』(『息子(そして、我々は夢見られたヴァイオリンになった)』)

この三つの詩を読み、ヴァイオリンの登場する箇所と其の前後を読みますと、ヴァイオリンという楽器は、次のような意味を、リルケの世界では、備えております。

1。ヴァイオリンは、異邦人であり旅人であり、町を都会を訪れるが、それは誰も知らない異質のものである。ヴァイオリンは、夜に奏(かな)でられる。ヴァイオリンは孤独に鳴る。奏でるのは、やはり孤独な私である。ヴァイオリンは、沢山の大都会で、そのように鳴る。このヴァイオリンが無ければ、都会の孤独な人々は、川の流れに身を失うように(時間の中に流されて)自己を失ってしまう。そのような隣人が、ヴァイオリンを不安にするために奏でている。その演奏によって都会の人間たちがヴァイオリンに歌わせる歌は、人生は重い、全ての物の重さよりも重いという歌である。(『Der Nachbar』『隣人』))

2。この詩の一人称でる私は、弦であり、さやさやと音立てる幅の広い共振(共鳴)の上に張り渡されている弦である。これに対して、物はヴァイオリンの体であり、ぶつぶつ言う暗闇で満ちている。(『Am Rande der Nacht』(『夜の縁(へり)で』))
3。父親は剥落し病を得た王である。夜に息子は父親の王と小さな声でそっと話をする。この夜の中で、父と息子は、夢見られたヴァイオリンになる。ヴァイオリンは祈りを捧げる。ヴァイオリンの演奏する歌の数々の背後で(泉の背後で、風の中に在る森のように)ヴァイオリンの暗い楽器箱が、さやさやと音を立てている。(『Der Sohn』『息子(そして、我々は夢見られたヴァイオリンになった)』)

さて、そうしてみると、

すると、次には、ヴァイオリンが(何処から聞こえてくるのか誰が知ろう)
目覚めて、全くゆっくりとこう言うのだ:
                   或る金髪の女が...

という最後の3行の最初にあるヴァイオリンは、誰かに夢見られているヴァイオリンであり、誰かが夢みているヴァイオリンであり、それは夜の中のヴァイオリンであり、「暫くの間、沈黙が空虚のままに留まっている」その差異、その隙間に存在している、存在のヴァイオリンであることになります。

そうして、そのヴァイオリンが、その差異の中で目を覚ます。夜の夢見られているヴァイオリンであれば、歌を歌うわけですが、例え(安部公房の『箱男』の中の贋魚のように)夢の中でまた目を覚ますとしても、やはり目を覚ますヴァイオリンであってみれば、それは歌を歌うわけではなく、物を言うヴァイオリンであるのです。それ故に、「一人の金髪の女が」と言って、話を始めるわけなのです。」


リルケにとって、弦楽器の音色からなる旋律は、縁から縁へと、周辺から周辺へと踊るように渡る音色なのであり、旋律と化した者は、境界線から境界線へ、即ち外部と内部の交換される其の現場に旋律としているということが、存在に生きる人間の姿としてある理想の姿なのです。

しかし、このように此の詩を論じてみますと、安部公房の読者であるあなたには、既に地上の上に大きく育って枝葉をつけ、見事な花を咲かせた安部公房の作品群に、小説に、戯曲に、エッセイに、このリルケに学んだ安部公房の詩想と思想が、ここにあることにお気づきでありましょう。

『形象詩集』に踊りという言葉や、踊りに関係する縁語が現れたら、すべて例外なく、この意味でリルケは使っているのです。

これが、君主である地位にいる最高位の女侯が、人々の「忍び足で向こうへ行っ」て消え失せてしまった夜の裏街で一晩中踊り狂うという、『狂気』という題名の由来なのです。

こうしてみると、「それは、何と言っても、女王さまだけに許されることなのだ.女王さまが、裏通りで踊るということは:(女王さまが)踊るのだ!...」という『狂気』の最後の二行は、「それは、何と言っても、箱男だけに許されることなのだ.箱男が、裏通りで踊るということは:(箱男が)踊るのだ!...」と言い換えても、何も違和感のないことに、私たち読者は気づくのです。

狂気の箱男。

次回は『愛している女』(男が愛する女という意味ではなく、女が男を愛している其のような愛する側の女性という意味)。


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