2015年12月6日日曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く31:12歳の超越論 『窓硝子』


三島由紀夫の十代の詩を読み解く31:12歳の超越論 『窓硝子』

目次

I 十代の詩人としての三島由紀夫の急激な成長について
II 『窓硝子』と題した12歳の詩を読む


*****

I 十代の詩人としての三島由紀夫の急激な成長について

決定版三島由紀夫全集第37巻の最初に収められてゐる詩を読みますと、6歳の時に書いた『ウンドウクワイ』から、12歳になつて、詩人にならうと初めて決心して書いた詩群を収めた『HEKIGA』までの間の、三島由紀夫の詩作の成長は誠に著しいものがあります。

この間の成長とは、一言で言へば、6歳で書いた『ウンドウクワイ』といふ詩に何が隠れてゐたのか、それが表に現はれて、明瞭な輪郭を備へて高度な様式を備へた詩となつて現れたといふことです。

この様式と、この様式を実現するために選択された概念は、終生変はりませんでした。それは、一言でいへば、既に『三島由紀夫の十代の詩を読み解く29:イカロス感覚7:蟹』の冒頭と末尾で述べた次の様式と、この概念連鎖のことです。[http://shibunraku.blogspot.jp/2015/11/blog-post_7.html

三島由紀夫[塔(詩人の高み)、(部屋(お納戸)、窗(高窓))、反照、自己証認(identity)]

これが、立体的な図で示しますと、『三島由紀夫の世界像』であることは、既に此の一連の三島十代詩論でお伝へして来た通りです。この世界は、鏡に包まれてゐると想像して下さい。この世界は鏡の中にあるのです。



さうしますと、「自己証認(identity)」は一体どうやつて成し得るのかといふ事だけが残ります。

さて、その問ひに至るまでの其の前に、この構造に至るまでの、『ウンドウクワイ』からの詩作品の成長を見ますと、ゆつくりとそれがやつて来るのではなく、やはり此の12歳の『HEKIGA』で、詩人にならうと自覚した時に一気に急激な成長を遂げて、詩人三島由紀夫の「自己証認(identity)」は確立するのです。

このことは、翌年に発表した小説『酸模』に、これから論ずる詩『窓硝子』は、そのまま通じてをります。とすれば、詩と小説との関係について、三島由紀夫の次のやうな藝術家としての成長を語ることができます。

1。最初の詩と小説の一式の現れ
(1)12歳:詩『窓硝子』(決定版第37巻、119ページ)
(2)13歳:小説『酸模』

2。二つ目の詩と小説の一式の現れ
(1)16歳:詩『理髪師』(決定版第37巻、685ページ)
(2)16歳:小説『花ざかりの森』
(3)18歳:小説『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』

上記1と2の間、15歳の時に、『少年期をはる』といふ詩があります(決定版第37巻、630ページ)。

この詩は、詩の冒頭の一行にある通りに、「こころの退院」後に書かれた詩です。この病気と病院暮らしが一体何であつたかはひとまづをいてをいて、掲題の話に敢へて留まることに致します。

さうしますと、この十代の詩と小説の劇的な変化と其の前後の様子が、15歳の『少年期をはる』を境目にして、次のやうであることが判ります。併せて、これらの作品の主題を、その全てではありませんが、著しい特徴として目に付くものを挙げることにします。

1。最初の詩と小説の一式の現れ
(1)12歳:詩『窓硝子』:不在の父親と、透明な媒体としての話者。最初の超越論的詩。
(2)13歳:小説『酸模』:不在の父親との和解、蛇としての父親である(蛇として父親である)囚人(=不在の父親)の最初の形象。その不在の父親の登場と息子との親密性・親和性を否定し排除する母親としての女性たち。最初の超越論的小説。[註1]

2。「こころの退院」後に書かれた詩の現れ
(1)15歳:詩『少年期をはる』(1940年、昭和15年10月18日付作品):
詩を喪失した少年たちの論理と感情を歌つた詩。この詩で、生命との関係にをいて、言葉と表現との間の倒錯が始まる。[註2]
(2)29歳:小説『詩を書く少年』(1954年、昭和29年8月)[註3]

3。二つ目の詩と小説の一式の現れ
(1)16歳:詩『理髪師』:最初の明確な殺人者、蛇・理髪師の創造
(2)16歳:小説『花ざかりの森』:最初の海賊頭(行動家)の創造
(3)18歳:小説『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』:最初の、殺人者と海賊頭の、小説としての併存と両立

[註1]
勿論、この不在の父親は、三島由紀夫の人生の最後には、最後の戯曲『癩王のテラス』の中で、遂に不在の父親自身になることができた。何故ならこの世での現実的肉体的な死を覚悟したから。從ひ、男であるみづからが蛇なのではなく、女の性を持つた者が蛇になつて、バイヨン大寺院に夜な夜な現はれ、王と性愛を交はすことができる。そのかはり、美しき肉体を持つた王は、癩者にならねばならなかつた。なんとまあ、ここまでも、自分の死を引き換えにしてまでも尚、厳格に様式を守る三島由紀夫であることか。

しかし、この美の様式を厳格に守ることができるのは、バイヨン大寺院が、十字路の、十字架の、四辻の、交差点の、その交叉した一点に、あの6歳の学習院初等科一年生の時以来の十字綱引きの「オモシロイ」交叉に立つてゐるからである。

[註2]
詩を喪失した「ぼくらの」目には、「ぼくらがかつて、きびしい」詩の「愉楽を愛した」といふ追想・追憶も、もはや「なじまぬ思ひ出」となり、それ故に目には「純潔な悲しみしか映らずに」ゐ、從ひ「にせもの」であるといふこと、即ち詩を喪失したといふことの「悲嘆のかなたに」、しかし、「愛の林はまだうつくしく茂つてゐる」。この現実を最初の一行で「こゝろの退院にはあまりまぶしい季節だ。」と表してゐる。

この詩の最後の連は、次のやうなものであり、

「なじまぬ思ひ出にしたしみ、ぼくらの歌はすがれた。
 にせものの悲嘆のかなたに
 愛の林はまだうつくしく茂つてゐる」

これは、そのまま『花ざかりの森』の次のエピグラフを思はせ、確かに繋がつてゐる。

「かの女は森の花ざかりに死んで行つた
 かの女は余所にもつと青い森のある事を知つてゐた
               シャルル・クロス散人」

この「かの女」は、勿論男であつても何ら不思議はなく、「森の花ざかりに死んで行つた」ことは、日常の生活と時間の中で「森の花ざかりに死んで行つた」ことであることを、この作品を読めば、全く意味してゐない。

[註3]
43歳の三島由紀夫自身の新潮文庫『花ざかりの森・憂国』の、作者による自筆あとがきの言葉によれば、この29歳の時に書いた小説の主人公の詩人の少年は、次のやうなものである。

「集中、『詩を書く少年』と『海と夕焼』と『憂国』の三編は、一見単なる物語の体裁の下に、私にとつてもつとも切実な問題を秘めたものであり、(略)、この三編は私がどうしても書いてをかなければならなかつたものである。『詩を書く少年』には、少年時代の私と言葉(観念)との関係が語られてをり、私の文学の出発点の、わがままな、しかし宿命的な成立ちが語られてゐる。ここには、一人の批評家的な目を持つた冷たい性格の少年が登場するが、この少年の自信は自分でも知らないところから生まれてをり、しかもそこには自分ではまだ蓋をあけたことのない地獄がのぞいてゐるのだ。彼を襲ふ「詩」の幸福は、結局、彼が詩人ではなかつたといふ結論をもたらすだけだが、この蹉跌は少年を突然「二度と幸福の訪れない領域」へ突き出すのである。」

この29歳の小説で、事実に基づき虚構化した物語は、間違ひなく15歳の詩『少年期をはる』で歌つてゐることに違ひありません。

29歳、即ち30歳からボディビルによつて肉体を鍛錬することを始める前の歳に、この小説を書いたことに、余人の知らぬ、やはり深い意味があるのです。同じことを、三島由紀夫は、ハイムケール(帰郷)の時代の始まる39歳の前年、即ち38歳の時に、『剣』を書いて、やはり詩と自分自身との関係を、既に「『剣』論」で論じたやうに、行つてをります(『剣』論(1):http://shibunraku.blogspot.jp/2015/11/blog-post.html)。これが、三島由紀夫といふ人間の生き方なのです。節目に来ると、つまり何か精神的な危機がやつて来ると、いつも詩とは何かといふ問ひに戻つて考へるのです。さうして、次の出発をして、それ以前の時代を贋の時代、贋の何々と呼ぶのです。これは、安部公房と全く同じ生き方であり、思考のありかたです。安部公房の場合は常に何々「以前」に戻り、即ち同様に、後述する超越論的存在論に戻り出発を繰り返へします。三島由紀夫の場合の出発は、既に『三島由紀夫の十代の詩を読み解く9:イカロス感覚1:ダリの十字架(1):三島由紀夫の3つの出発』で論じたやうに3回でありますが(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post_23.html)、他方安部公房の場合は、三島由紀夫よりも生きて68歳で亡くなりますので、その生涯に4度の出発をしてをります。後者については、詩とは何かをみづからに問ふ危機直面と超克の時は、一度目は1944年、20歳の『詩と詩人(意識と無意識)』で、二度目は1947年、23歳の『第一の手紙=第四の手紙』で、三度目は1954年、31歳の『計算機の心に猛獣の手を』で、そして四度目は、1970年の三島由紀夫の死を契機に(勿論これだけが其の理由ではありませんが)、1973年に立ち上げた安部公房スタジオの俳優たちのために書いた一連の演技論にをいてです。



II 『窓硝子』と題した12歳の詩を読む

さて、十代の上記の年代記を前提に、『窓硝子』といふ詩を読んでみませう。これによつて、一体三島由紀夫の急激な詩人としての成長は一体なんであつたのかといふことを、あなたにお伝へしたいのです。

この詩は、12歳の詩集『HEKIGA』中の『幼き日』といふ連作から成る詩の最初の詩であり、全部で7連からなる、次のやうな詩です(決定版第37巻、119ページ)。


誰が割つたのか高窓の硝子に
大きな穴があいてゐた
一寸(ちよつと)見ると仔熊のやうな
又、人間の横顔のやうな
面白い形にあらわれてゐた。

夕闇が赤い太陽を吹き消し
町々は灯(ひ)を点し
わたしは窓の下に行つて試(み)

すると
月が見えた
それをとり囲む星が見えた
巨木の梢の影が
動きもせねで揺れてゐた
硝子の割れ目の横顔が
月を眺めて泣いて居た
すると
夜の雲がとほり過ぎた。

働き疲れた汗が穹(そら)からにじみ出て
町々は雨傘に埋(うづ)まり
わたしは窓の下に行つて試(み)る。

すると
夏空が見えた
誇りかな鳥の翼が見えた
暑さに茹だつた声で
みんみん蟬(ぜみ)が啼いてゐた
雨は乾き切つたやうに消え失せ
仔熊は大きなあくびをしてゐた
すると
再び雨雲があらはれた。

橙色(だいだいいろ)の黎明(よあけ)が迫り
土は早や けだるさに喘(あへ)
わたしは窓の下に行つて試(み)た。

すると
窓硝子は
もう張られて居た
厚いすていんど・ぐらすを通しては
光だけしか這入つて来なかつた。


【解釈と鑑賞】

最初の連から見てみませう。この第一連を読むに当たり、再度上掲の『三島由紀夫の世界像』を思い描いて下さい。その上で、話を進めます。


誰が割つたのか高窓の硝子に
大きな穴があいてゐた
一寸(ちよつと)見ると仔熊のやうな
又、人間の横顔のやうな
面白い形にあらわれてゐた。


三島由紀夫にとつて、窓はいつも高窓であり、それを一文字で表すためには、この高窓を一層概念化した時から、窓ではなく、窗といふ文字を採用して詩を書いてゐることは、『三島由紀夫の十代の詩を読み解く13:イカロス感覚4:塔と窗(まど)』でお話しした通りです(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post_5.html)。再掲して、お伝へ致します。

「『イカロス感覚3:縁(ふち)と生まれた時の記憶』で示した『三島由紀夫の世界像』をご覧ください。



三島由紀夫といふ人は、安部公房とは全く正反対に、隠喩で表現した後に論理が従いて来きます。安部公房の場合には、論理の後に隠喩と形象が従いて来ます。

この図にありますやうに、詩人である三島由紀夫は、隠喩といふ時間のない積算の値の、安部公房ならば子供の頃下から見上げた奉天の窓、大人になつてからは存在と呼んだ其の垂直と水平の交差点の積算値を、最初のうちは窓と表記してをりましたが、この意識の意味が本人に明瞭になつたときに、窓の文字の使用を止め、窗(まど)といふ文字を使用し始めます。この文字が何を、三島由紀夫の詩の世界で意味するかは、後述します。

さて、この高みの窗(まど)は、当然に高いところにあることから、高いところに位置する部屋に嵌められてゐるわけです。さうして、このやうな部屋は、典型的には塔の、しかしまた塔に類似の高い建物(例えば、ホテル、や教会など)に存在し、この高みの部屋へ至るまでには、段差といふ差異のある階段が螺旋のやうに昇つてゐて、それも三島由紀夫のことですから、この段差を空間的な段差とは全く思はずに、時差として思ひ、一歩一歩の歩みの時差に快楽(けらく)愉楽を覚えながら、塔頂に至るのです。

十代の三島由紀夫は、この塔頂の窗のある部屋を、階段室と、または此の塔頂に至る階段のある、さうしてやはりその道々に窗があつて明かりのとられてゐる螺旋の上昇空間を階段室と呼んで、歌つてをります。

その詩の歌ひ方から言つて、三島由紀夫にとつては、塔頂の窗のある部屋と、窗があつて塔頂に至る螺旋階段のある上昇空間とは、ともに階段室の名のもとに、意識の上では互いに融け合つて同じものであるやうに、詩の読者には、見えます。

勿論、この窗という文字を使つて窗を歌へば、それは塔やホテルや教会やらの高い建物の頂点にある部屋の窗といはなくとも、その窗を歌ふ話者は、既に其の高みにゐるといふことを意味してゐます。仮令(たとへ)低地に、その窗があつたにしても。例へば、三島由紀夫の作品によく出てくる覗き窓といふやうな場合であつても同様です。

さうして、この窗は、見る見られるといふ関係を創造致しますから、最晩年43歳のときに書いた『文化防衛論』にある、国民文化の3つの分類、即ち再帰性、全体性、主体性の、最初の再帰性といふ言葉と其の概念にまで至つてをります。この3つの概念については、その前の章『日本文化の国民的特色』で、ひとつひとつ丁寧に述べられてをりますので、これをお読み下さい。

安部公房ならば、間違いなく、この再帰性を、窗に映る反照と言つたことでありませう。」

(略)

窗は、見る見られるといふ関係を創造するといふ話からでした。

明確に文字として此の意識を詩で歌はうとして、この窗の文字を使つた最初の詩が、昭和15年3月22日付で書いた『風の日(童謡)』と題する、次の詩です(決定版第37巻、476ページ)。三島由紀夫15歳。やはり暗合のやうに、十字架が出て参ります。いや、三島由紀夫の暗号といふべきでありませうか。:


爪でひつかきでもするやうに
硝子に枯木がさはります

あの教会の十字架は
風に黄色くさわいでゝ……

階段室の高窗の
光の下に牧師さん

(十五・三・二二)



この詩は、次のことを歌つてをります。

(1)硝子にさわる枯れ木の音
(2)木枯らしといふ風
(3)十字架
(4)十字架は、黄色い色をしてゐる
(5)階段室
(6)その高みにある窗の下に牧師といふ聖職の人間がゐるということ

以下、これらの形象と意味について論じ、三島由紀夫の詩の世界を逍遥致しませう。」


以下、第一連の形象と意味について論じ、三島由紀夫の詩の世界を逍遥致しませう。


誰が割つたのか高窓の硝子に
大きな穴があいてゐた
一寸(ちよつと)見ると仔熊のやうな
又、人間の横顔のやうな
面白い形にあらわれてゐた。


高窓が破られることは、詩人としての命の保証も保障も失ふことを意味しますので、これは詩人の危機を歌つた第一連だといふことが判ります。しかも、誰が割つたのかがわからないといふ。

その高い詩人の高みにある部屋のガラス窓には大きな穴が開いてゐる。さうして、その穴は、

(1)一寸(ちよつと)見ると仔熊のやうな
(2)人間の横顔のやうな

顔である。

この二つの顔が面白いと、歌つてゐます。

この面白いといふ言葉が選択されると、必ず十文字、十字形が現れ、その交差点、交点が現れるのでした。それは、6歳の詩『ウンドウクワイ』の十字綱引きの形象以来、明らかです。『三島由紀夫の十代の詩を読み解く10:イカロス感覚1:ダリの十字架(2):6歳の詩『ウンドウクヮイ』』から引用して以下に再掲します(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post_26.html)。

「この7つのことで、三島由紀夫が述べてゐることを、たつた一言でいふならば、それは、対比的な様式と其の緊張感いふことです。

もつと言へば、対比的な様式と其の緊張感の存在する只今、この時、この一点といふ意味です。或ひはまた、

対比的な様式と其の緊張感の均衡によつて生まれ、存在する此の只今の交点、交差点といふ、時差の交差点といふ意味です。

この交差点を、即ちザイン(存在、Sein)と呼んでもよいでせう。

この交点、交差点の生まれたときに、三島由紀夫は「比類がない」といふのです。この同じ「比類がない」といふことを、既に、学習院初等科に入学した6歳の平岡公威は、「面白い」といふ言葉を使つて、このダリの絵と同じ「比類がない」「対比の見事さと、構図の緊張感」の交差点を、初めて経験した小学校の運動会のこととして、次のやうに歌つてをります。


「ウンドウクヮイ

(一)
 一バンアトカラ二バンメノ十ジツナヒキ
 オモシロイカツトフウセンフハリフハリフハリ

(二)
 一バンアトカラ二バンメノ十ジツナヒキ
 オモシロイムカデノヤウニゴロゴロゴロ」


この詩を片仮名からひらがなに直して、もう少し文字として視覚的に分かりやすく変形させてみてから、考察に入ります。


「運動会

(一)
 一番後から二番目の十字綱引き
 面白い勝つと風船ふはりふはりふはり

(二)
 一番後から二番目の十字綱引き
 面白い百足のやうにゴロゴロゴロ」


この十字綱引きは、今でも運動会で行はれてゐます。その写真を掲げます。





ここで、上のダリの十字架と同じ評言にある、詩の構成要素をあげてみると、次のやうになるでせう。

(1)繰り返しによる様式の対比による対称性と対照性の効果を既に知っており、そのことに美と抒情と快感を覚えていること。この場合、
(2)様式との対比による対称性と対照性とは、風船と百足の対比によつて、次の対称性と対照性を表現してをります。

   1天と地(地面)
   2上昇と下降
   3軽さと重さ
   4勝ちと負け
   5始めと終わり((一)と(二)といふ配列によって意識される)

(3)交差点のある十字形に興味と関心を持っていること。
(4)現実の出来事に対して、面白いと(いふ言葉を使って)思ひ、表現していること。ダリの十字架に対する「比類がない」ことに相当する賛嘆の言葉であること。
(5)独特の数の数え方、即ち、最後から数えて、その最後の数を勘定に入れて、下る(降順の)数を数えること。即ち、数を勘定するときに、一番最後から引き算をして勘定するといふこと。[註1]更に、このことから即ち、
(6)最初に最後を考えた事

(略)

かうしてみますと、叙景の対象は運動会であり、小学生の子供の公の世界の催事(何故ならば昔は家族総出で重箱なども持参して見物にも来た事でありませうから)であつて、それがいかにも経験的には狭く幼い感じがするやうに此の詩を読む大人である読者の目には見えませうが、しかし、そのやうに、この詩はもはや既にして相当に高度な詩なのです。

高度なといふ意味は、様式化されてゐて、一つの言葉に幾つもの関係が掛けられてゐて、従い連想が連想につながつていて高度であり、詩になつてゐるという意味です。

一つの言葉に幾つもの関係が掛けられてゐとは、つまり、通り一遍の叙景ではなく、実に立体的な叙景になっているといふこと。のみならず、6歳の少年平岡公威の対比•対照的な両極端の論理も盛つてゐて、さうなつてゐるといふ、そのやうな高度な詩になつてゐるのです。

たつたの4行で、これだけの論理と感情を盛つた平岡公威といふ子供の言語能力は、当時傍にいた大人達にも知られることはなかつたのではないでせうか。あるいは、大人たちは、冒頭に引いた三島由紀夫のダリの十字架への評言の本質が、この詩に既にあるとは、勿論、少しも気がつかなかつた。

この詩の持つ以上のような素晴らしさ、即ち論理的な骨格(構造)と感情の移入は、いや此の二つによる感情の発露、即ち三島由紀夫にとつての現実感ある現実は、その後の一生を貫いて、作品の中に現れてゐるのです。

全く同じことが安部公房についても言ふことができます。」


このやうに考へて参りますと、


誰が割つたのか高窓の硝子に
大きな穴があいてゐた
一寸(ちよつと)見ると仔熊のやうな[註4]
又、人間の横顔のやうな
面白い形にあらわれてゐた。


といふ出だしの最初の連は、自分の命を救ふために書いた5行だといふ事が判ります。

「一寸(ちよつと)見ると仔熊のやうな/又、人間の横顔のやうな/面白い形にあらわれてゐ」る何かが登場すれば、詩人の命は救はれるのです。

[註4]
三島由紀夫は15歳の時に『仔熊の話』といふ短い話を書いてをります。この『窓硝子』は12歳の時の詩ですから、3年後にも、この形象を再度小説に仕立てて、散文として書いたことになります。

この『仔熊の話』といふ小説には何が書いてあるかといひますと、冒頭から「お父さんが大阪へ転任したので」といふ言葉で始まることから明らかなやうに、これは父親の不在、或いは不在の父親のことから話が始まる小説です。

もう少しいひますと、父親の不在又は不在の父親が機縁になつて、話者は遠い地、大阪にゐる仔熊に会ふことができる。父親の不在が、話者を遠くへと誘ひ、連れて行くのです。さうして、元の住処に戻つて来て、父親をではなく、遠くにゐる仔熊の無事を心配する。さうして、不在の父親の、彼の地での仕事上の友人であるNさん(記号化されてゐて、文字による名前を呼ばれてゐない)から、小説ならば話中話、戯曲ならばplay in playの話法(mode)を使つて、即ち手紙が此のNさんからやつて来て、それは『窓硝子』の第2連で述べるのと同じ世界が、次のやうに描かれてをります。

「窓から見える夜の山を、ケエブル・カアの小さな灯(ひ)がゆらゆらのぼつて、まうへの橙々色の一群れの灯をめざして行きます。」

さうして、最後に付言すれば、この不在の父親を冒頭に語ることによつて、話者は、話の因果の順序を逆転させることができて、時間の存在を帳消しにすることができてゐます。即ち、冒頭に現在の仔熊の、世に有名になつた様子を書き、話者は此の仔熊が無名の子供の時に会つて見ることができて、情愛を仔熊と交はすことができた、さうして最後に、この有名になつた仔熊のことを、自分から別れを告げるのではなく、話中話の、即ち手紙の、即ち虚構の語り手に、次のやうに(恐らく三島由紀夫は此を自然と呼んだでせう)、無理なく別れ、いや別れぬやうにして別れ、別れて別れぬやうにして終はり、この話全体が、読者の現実の時間の中で永遠に宙吊りになるやうにしてゐるのです。

しかし、この連続の非連続、接続の非接続を生み出すのは、やはり、この遠方にゐる、不在の父親の友人もまた、部屋の中にゐて手紙を書いてゐることにご留意下さい。当然のことながら、そこには窓があり、そこから眺める景色が倒立し、逆転して、世の人ならば倒錯といふかも知れぬことは、以下の第2連のところで述べた通りです。

「こゝの部屋では熊の声がきこえないで、こほりかけた谷川の音ばかりが、かすかにしてゐます。
 ずいぶん冷えてまゐりました。これから温泉にはひります。では皆さんによろしく。
                                    さよなら」




その救済者が第2連に現はれます。第2連は次のやうに歌はれてゐます。


夕闇が赤い太陽を吹き消し
町々は灯(ひ)を点し
わたしは窓の下に行つて試(み)


やはり救済者は、夕闇迫るこの時刻にやつて来なければならない。さうして、町々は闇の中に、昼夜逆転して、黒い色の中に明るい火を点として灯(とも)さなければならないのです。この倒立は、様々な作品中に、その作品の範疇を問はずに現れてゐる筈です。今夕闇迫る夕焼けの時刻については、『凶ごと』といふ詩を、昼夜の逆転した陰画としての昼間については、近代能楽集の『卒塔婆小町』から引用して、お伝へ致します。


凶(まが)ごと

わたくしは夕な夕な 
窓に立ち椿事を待つた、 
凶変のだう悪な砂塵が 
夜の虹のやうに町並の 
むかうからおしよせてくるのを。 

枯木かれ木の 
海綿めいた 
乾きの間には 
薔薇輝石色に 
夕空がうかんできた…… 

濃沃度丁幾(のうヨードチンキ)を混ぜたる、 
夕焼の凶ごとの色みれば 
わが胸は支那繻子の扉を閉ざし 
空には悲惨きはまる 
黒奴たちあらはれきて 
夜もすがら争ひ合ひ 
星の血を滴らしつゝ 
夜の犇(ひしめ)きで閨(ねや)にひゞいた。 

わたしは凶ごとを待つてゐる 
吉報は凶報だつた 
けふも轢死人の額(ぬか)は黒く 
わが血はどす赤く凍結した……。 


以下、『三島由紀夫の十代の詩を読み解く1』から引用して再掲します(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/04/blog-post.html)。

「『近代能楽集』の『卒塔婆小町』を見ますと、やはり登場する此の詩人の言葉として、作者は其の詩のよって来る由来を卒塔婆小町に向かって次のように語っております。

「このベンチ、ね、このベンチはいわば、天まで登る梯子なんだ。世界一高い火の見櫓なんだ。展望台なんだ。恋人と二人でこれに腰かけると、地球の半分のあらゆる町の燈(あかり)が見えるんだ。例えば僕が(ト、ベンチの上に立上がり)僕がこうして一人で立ってたって、何も見えやしない。……やあ、むこうのほうにもベンチが沢山見える。懐中電気をふりまわしている奴が見える。ありゃあお巡りだな。それから焚火が見える。乞食が火に当たっている。……自動車のヘッドライトが見える。……やあ、すれちがった。むこうのテニスコートのほうへ行っちまった。ちらっと見えたぞ、花をいっぱいに積んでいる自動車だよ。……音楽会のかえりかな。それともお葬式の。(ベンチより下りて腰かける)......僕に見えるのは、せいぜいこれだけさ。」という、やはり戦後の東京を眺めて景色の中のものの名前を列挙する其の科白、そうして其れは実は現実の景色ではないという此の科白は、そのまま『天人五衰』のあの冒頭から延々と続く高い灯台から眺めた海の景色、即ち学習院初等科の二階の教室から眺めた外界の景色と其の列挙の仕方に同じものであることが、よく判ります。

また、同じ詩人としての高みを、感情の問題として、その高みという垂直方向の差異から生まれる源泉の感情を、悲劇の定義との関係では、崇高さとして、次のように言っています(『太陽と鉄』)。

「 私の悲劇の定義においては、その悲劇的パトスは、もっとも平均的な感受性が或る瞬間に人を寄せつけぬ特権的な崇高さを身につけるところに生まれるものであり、決して特異な感受性がその特権を誇示するところには生まれない。したがって言葉に携わる者は、悲劇を制作することはできるが、参加することはできない。しかもその特権的な崇高さは、厳密に一種の肉体的勇気に基づいている必要があった。」(傍線筆者)

この箇所は、詩人としての特権的な高みである崇高さと「一定の肉体的な力を具えた平均的感性」の関係を述べた重要なところです。この特権的な崇高という詩人の高みは、「厳密に一種の肉体的勇気に基づいている必要」があったのであれば、ここで三島由紀夫は詩人である自己とボディビルや剣道に向かう自己との関係の均衡について語っているのです。

他方そうして、やはり、この高みという垂直方向の(地上との)差異は、高さでありますので、その均衡点には、時間は存在しないのです。高さ(隠喩)に時間はない。学習院初等科の二階の教室にいて外界を眺めて景色を叙する詩人三島由紀夫にとって、教室の内部には時間は存在しなかったことを意味しています。人と公の空間においては、三島由紀夫が詩人である限りは、自らが現実と非現実を宰領する関数となって無時間を生きる小学生三島由紀夫の姿です。

この註で上に引用した『卒塔婆小町』の箇所に続いて、もう少し先へ行きますと、次のような会話が、詩人と卒塔婆小町の間で交わされております。

「詩人 いや、今僕の頭に何かひらめいた。待って下さい。(目をつぶる、又ひらく)ここと同じだ。こことまるきりおんなじところで、もう一度あなたにめぐり逢う。
 老婆 ひろいお庭、ガス燈、ベンチ、恋人同士……
 詩人 何もかもこことおんなじなんだ。そのとき僕もあなたも、どんな風に変わっているか、それはわからん。
 老婆 あたくしは年をとりますまい。
 詩人 年をとらないのは、僕のほうかもしれないよ。
 老婆 八十年さき……さぞやひらけているでしょうね。
 詩人 しかし変わるのは人間ばっかりだろう。八十年たっても菊の花は、やっぱり菊の花だろう。
 老婆 そのころこんな静かなお庭が、東京のどこかに残っているか知らん。
 詩人 どの庭も荒れ果てた庭になるでしょう。
 老婆 そうすれば鳥がよろこんで棲みますわ。
 詩人 月の光はふんだんにあるし……
  老婆 木のぼりをして見わたすと、町じゅうの燈(あか)りがよく見えて、まるで世界中の町のあかりが見えるような気がす
    るでしょう。
 詩人 百年後にめぐり会うと、どんな挨拶をするだろうな。
 老婆 「御無沙汰ばかり」というでしょうよ。
    (二人、中央のベンチに腰かける)
 詩人 約束にまちがいはないでしょうね。
 老婆 約束って?
 詩人 百日目の約束です。」(傍線筆者)

1956年、三島由紀夫31歳のときの、この会話に、既に『豊饒の海』があると、わたしが言っても、誰も反対はしないでありましょう。また、「八十年たっても菊の花は、やっぱり菊の花だろう。」という菊の花は、これも勿論、我が国の国民が外国に出かけるときに持参する旅券に日本人としての国籍と身分を保証し、実際に其の命を保障してくれている天皇家の家紋であることも、いうまでもないことでありましょう。

大切なことは、何故詩人が卒塔婆小町である老婆と、このような会話を交わすのかということなのです。」



さて、その極め付けは、やはり窓へと行かねばならないといふ事、これが一番大切な事なのです。なぜならば、昼と夜の境界域の時間がやつて来て、さうして陰画の昼となつて、「わたしは窓の下に行つて試(み)る」。「窓の下に行つて試(み)る」とありますので、これは試みに行つてみる、試しに行つてみるといふ意味になりませう。

すると、一体何が起こるのか。それが、第3連です。


すると
月が見えた
それをとり囲む星が見えた
巨木の梢の影が
動きもせねで揺れてゐた
硝子の割れ目の横顔が
月を眺めて泣いて居た
すると
夜の雲がとほり過ぎた。


前の連で、話者は「わたしは窓の下に行つて試(み)る」のだといふ。「窓の下に行つて試(み)る」と何が起つたか。「月が見えた/それをとり囲む星が見えた/巨木の梢の影が/動きもせねで揺れてゐた/硝子の割れ目の横顔が/月を眺めて泣いて居た」のです。

これは、恰も「既にして」最初から話者が其の高みにある窓辺にゐたかのやうではありませんか。さうして、その塔の高みから、或いは高窓のある高い建物の其の部屋の窓辺から外界を眺めやつて、「既にして」「月が見えた/それをとり囲む星が見えた/巨木の梢の影が/動きもせねで揺れてゐた/硝子の割れ目の横顔が/月を眺めて泣いて居た」のです。月も、星も、巨木の梢も見えた。巨木の梢は「動きもせねで揺れてゐた」、動き動かず、動かず動いてゐた。

第1連で仔熊の話をしたことを思ひ出して下さい。三島由紀夫15歳の小説の『仔熊の話』の結構の在り方を[註4]で述べたやうに、「最後に付言すれば、この不在の父親を冒頭に語ることによつて、話者は、話の因果の順序を逆転させることができて、時間の存在を帳消しにすることができてゐます。(略)(恐らく三島由紀夫は此を自然と呼んだでせう)、無理なく別れ、いや別れぬやうにして別れ、別れて別れぬやうにして終はり、この話全体が、読者の現実の時間の中で永遠に宙吊りになるやうにしてゐるのです。」

この小説の理解を此の詩に適用しますと、高い塔の下にゐる自分を見上げる高窓の硝子を割つたのは、父親だといふことになります。それも、不在の父親、傍にゐても不在である父親です。再度、『三島由紀夫の十代の詩を読み解く1』から引用してお伝へします(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/04/blog-post.html)。

三島由紀夫は、虚構の世界の此の結構の在り方を創造することによつて自分の命を救へることを一体いつ知つたのか。


「父親

母の連れ子が、インク瓶を引つくり返した。
インク瓶はころがりころがり机から落ちて、硝子の片が四方に飛び散つた。
子供は驚いた。
ペルシャ製だといふじゆうたんは、真ッ黒に汚れた。
そして、破れた硝子は、くつ附かなかつた。

母の連れ子の脳裡に恐ろしい父の顔が浮び出た。

書斎のむち、今にもつぎはぎだらけのシャツを脱がされて、むちが……
喰ひ附くやうに、

母の連れ子の、目の下に、黒いじゆうたんが、わづかな光りに、ぼやけてゐる」

この詩では、気違いのように、木枯らしに揺さぶられている対象が木ではなく、「ころがりころがり机から落ちて、硝子の片が四方に飛び散つた」インク瓶になって歌われております。

その原因をなすのが、母の連れ子ですから、この連れ子は狂気を宿した子供なのでしょう。これは、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』にそうであったように、このまま殺人者の持つ他人との距離を表しています。その距離という差異は、母の連れ子と其の子のことを語る話者、即ち普通に考えれば、11歳の三島由紀夫の持つ差異です。この距離、この差異が、三島由紀夫が作中人物と持つ距離であり、作中人物の狂気であるのです。

この詩で三島由紀夫は、話者としての立場を手に入れて、話を仮構することができています。このことは重要なことです。

これを言葉の技術の進歩と呼んでもよいし、詩の中へ、『花ざかりの森』と『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』で明瞭に自覚をした、三島由紀夫という人間の高みの位置を、初めて獲得したのが、この『父親』という詩であることになるからです。

即ち、この三島由紀夫独自の高みを肯定しようが(『花ざかりの森』)、否定しようが(『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』)、この高みのある限りにおいて、三島由紀夫のこころと意識の中では、詩はそのまま散文なのであり、散文はそのまま詩の延長であるということになるからです。

「母の連れ子」という、話者にとっては血縁ではない、三島由紀夫の源泉の感情の発露する距離(差異)を持った赤の他人であるという設定をしたことが、11歳の少年三島由紀夫のこころと意識をそのまま物語っております。

その詩の題名が『父親』であるというのも、誠に興味深い。

赤の他人の連れ子が、(木枯らしの詩での木々のように)気の狂ったように散乱するインク壺の破片を拾い集めても元には復元できず、父親の罰が待っているという此の仮構の設定は、表面上の人物関係は横においていたとしても、三島由紀夫の小説や戯曲の仮構の才能そのものを示しているのだと、わたしは思います。

これは恐らくは、父親に文学的な作品の執筆を酷く否定された経験を言葉に変換して、高みの位置を得ることを知って、人間関係を変形させて仮構して、自分のこころを救うために書いた、そのような詩であるのです。

(安部公房の夢にも同じ事情があったことを思わせる『思い出』という短い文章があります。両親から罰としてもらった鉛筆を削ると、削る端から、鉛筆がばらばらになり、折れてしまったという幼年の思い出を夢として書いています。この二人は本当によく似ています。(全集第4巻、312ページ))

さて、この11歳の詩にある話者の、この詩を歌う話者のこころは、間違いなく18歳の『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』の殺人の論理です。それ故に、

「母の連れ子の脳裡に恐ろしい父の顔が浮び出た。

書斎のむち、今にもつぎはぎだらけのシャツを脱がされて、むちが……
喰ひ附くやうに」

と書くことができるのですし、書かねばならないのです。

「ペルシャ製だといふじゆうたんは、真ッ黒に汚れた」という其の絨毯は、木々が木枯らしに吹き荒さんで揺れに揺れてばらばらにはりそうな、いやばらばらになっている其の木々に相当する「ころがりころがり机から落ちて、硝子の片が四方に飛び散つた」インク瓶がある其の絨毯は、その色から言って、木々の揺れる狂気の夜の色と同じ色なのです。

これが、三島由紀夫が、『太陽と鉄』の冒頭に、すでに十五歳の私は次のような詩句を書いていたと言っていることに通じていることなのです。

「それでも光は照ってくる
  ひとびとは日を讃美する
  わたしは暗い坑のなか
  陽を避け 魂(たま)を投げ出(い)だす」

なんと私は仄暗い室内を、本を積み重ねた机のまわりを、私の「坑」を愛していたことだろう。何と私は内省を楽しみ、思索を装い、自分の神経叢の中のかよわい虫のすだきに聴き惚れていたことだろう。

太陽を敵視することが唯一の反時代的精神であった私の少年時代に、私はノヴァーリス風の夜と、イエーツ風のアイリッシュ・トゥワイライトとを偏愛し、中世の夜についての作品を書いたが、終戦を堺として、徐々に私は、太陽を敵に回すことが、時代におもねる時期が来つつあるのを感じた。」と、率直に語っている十代の時代の詩と真実であるのです。」


さて、すると、一体何が起こるのか。それが、第3連の最後の二行です。


すると
夜の雲がとほり過ぎた。


即ち、第3連は接続詞「すると」で始まり、「すると」で終はつてゐるのです。

この「すると」といふ接続詞が来ると、時間とは無関係に「既にして」、話者は塔の高みのあの窓べに転位してゐるのです。「すると」、いつの間にか、窓辺にゐて、外界にある天の月や星を、「巨木の梢の影が/動きもせねで揺れてゐた」のを眺めることができてゐるのです。ここに時間の前後、即ち因果の連鎖、因果の関係の連続は、全くありません。

この思考様式は、哲学の言葉で言えば、三島由紀夫の思考は典型的に超越論的(transzendental)な思考だということになります。

これは、12歳の三島由紀夫の発見し、概念化した(なんといふ抽象化の能力、思弁の能力でありませうか!)、超越論的な接続詞なのです。


かうしてみて参りますと、この超越論的な三島由紀夫の作品の接続の構造は、詩のみならず、この12歳の詩の後のすべての小説や戯曲にも、何故ならば、三島由紀夫自身の言によつて「少年時代に、詩と短編小説に専念して、そこに籠めてゐた私の哀歓は、年を経ることにつれて、前者は戯曲へ、後者は長編小説へ、流れ入つたものと思はれる。」(新潮文庫版花ざかりの森・憂国』の自筆の後書き)と書いてゐる通りでありますから、既に此の論考の上述したところで見ましたやうに、12歳の此の超越論は、13歳の短編小説『酸模』にそのまま表れてをり、従ひ43歳の三島由紀夫の言葉のままに、そのままに、詩は戯曲へ、短編小説はやはり同様に、從ひまた長短を問はず総ての小説に、顕はれ且つ隠れてゐるのです。その様式と内容に於いて。『酸模』については稿を改めます。

三島由紀夫の世界の読者のあなたに、もう少し、この超越論、ドイツ語でいふdie Transzentalphilosophie(ディー・トランツェンデンタール・フィロゾフィー)とは一体何であり、どういふ意味の言葉であるのかを、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する~安部公房の数学的能力について~』(もぐら通信第33号)より以下に引用してお伝へ致します。:

「この超越論的という言葉は、日本語の世界では以前はよく先験的と言っておりました。これも文字通りに、経験に先立ってという意味です。先立ってとは何かということが眼目なのです。超越論的にとは、調べますと、現象学という学問との関係で、同じドイツ語の言葉を日本語に翻訳するときに採用された訳語だとあります。ドイツ語では、いづれの訳であれ、カントが初めて使った言葉なのですが、transzendental(トランツェンデンタール)と同じ言葉で、そのように言います。

こういうと実に難しそうですが、しかし、そのようなことはなく、私たち日本語の日常使っている言葉では、「既に」(この言葉は未だ些か時間を感じますが)とか「既にして」(この言葉には時間の感じが相当なくなっています)とか、(何故とかどのようにとか何時とか何処でといった)「説明抜きに」とか、「最初から」とか、「そもそも」とか、また「いつの間にか」とか、「知らぬ間に」とか、「気がついたら」、或いは「いつの間にか、理屈抜きに」とか、「知らぬ間に、理屈抜きに」とか、「有無を言わさず」とか「余計な講釈抜きに」とか、「四の五の言わずに」という日常の言葉の意味に相当します。

つまり、安部公房が其の人生の危機や転機のときにいつも使って自問自答する言葉で言えば、何々「以前」の「以前」ということです。[註24]

哲学の言葉で言えば、安部公房の思考は典型的に超越論的(transzendental)な思考だということになります。」


安部公房は、「既にして」満州は奉天の千代田小学校の一桁の学齢の時に、この論理を得てゐたと、間違ひなく、その尋常ではない孤独のあり方を当時のことを知る同級生などの証言から推論しますと、思はれますが、他方、この島国の帝都に、たつた一歳違ひの歳下の年齢でゐた、学習院初等科に通学する三島由紀夫もまた期せずして、同じ論理に達してゐたのです。恐るべき少年たちです。

安部公房の場合には、支那大陸といふ圧倒的な砂漠と曠野の空間の中にある奉天といふバロック様式の幾何学的な、夥しい窓を有する高層な建築群の只中にゐて、從ひ数学的な、即ち幾何学的な空間の差異に無時間の存在を求めて、他方、三島由紀夫の場合には、この時間の流れるやうに毎日毎日陽が昇り陽が沈む島にゐて、從ひ無時間の時差を、言葉と時間の中に、いや言葉と時間の外にも、求めて、同じ超越論に至つたのです。

安部公房の超越論は、奉天の窓との関係で、その数学的な認識と論理を言葉と形象に変換できるのだといふことを、19歳の時にリルケに教はり、演劇と其の舞台も含めて今日ある文藝諸作品となつて、私たちの眼前にあるわけですが、他方、三島由紀夫の超越論は、最初から言葉の世界に、言葉自体の本質によつておのづから知られるものとして、さうしてその父親の不在としてある其の存在を求める当の無時間の時差の中、永遠の現在に、求めたのです。安部公房ならば、「三島君、君、時間だけを微分するなんて、そんなこと、無茶だよ」と、きつと言つたに違ひありません。それに対して、勿論三島由紀夫は、「いや、俺は、空間だけを積分するなんて、そんなのは嫌なんだ、君は直喩を使ふが、俺は隠喩でなけれや駄目なんだよ」と言つたことでありませう。

三島由紀夫が隙間といふ空間の差異を嫌つたこと、文字通りに嫌悪感を持つてゐたことは、15歳の時に書いた『石切場』といふ詩を読むとよく解ります。[註5]他方、安部公房は、三島由紀夫の死後、1984年、60歳の時に、『方舟さくら丸』といふ石切場であつた(といふ過去形でのさういふ意味では追憶され追想される石切場といふ)地下洞の世界を舞台にした傑作を書いてをります。安部公房のいふ通りに、接点は全て共有してゐながら、その関係は全く総てが裏返しに相似、相通ふ、運命的な二人です。

[註5]

『石切場』といふ詩は、次のやうな詩です(決定版第37巻、566ページ)。興味ふかいことに、この詩には、三島由紀夫の最初の超越論的小説『酸模』の主題をなす「酸模」といふ言葉が第3連に、それも否定的に、石切場といふ空間的なさいの世界との関係では、歌はれることです。安部公房の世界に酸模を置くと、「模(すかんぽ)は雲母にまみれ」てしまふのです。雲母といふ言葉と形象と其の概念については、また稿を改めて論じます。


石切場

     A
悲しい勾配を上り下りして
薊(あざみ)の紅(べに)はのけぞり
苔陰(し)はみにくいあへぎ
天の圧迫に比しやげてゐる
それらの石群(せきぐん)だ。
呆けた午後が
石塁(せきるい)の間から覗いた

     B
雨の気配はそれらの草陰に零(ふ)り積まない
冷たい女の背のやうな石の貌(かほ)

     C
断層を天は悪(にく)む
そこには絶望がある
石のぎらぎら
酸模(すかんぽ)は雲母にまみれ……。

     D
殿堂といふものを人は見たゞらうか。
生きた墓場といふものを
人は見たゞらうか。
天に向き 陽を恐れず
ぎりぎりな いやらしい生を噛み
わたしは厭悪する
わたしは避ける
わなゝいて立ち止まる
石切場 石群のその前に。


『石切場』にあるのと同じ、空間的な差異に対する嫌悪感は、『春から……(「春から」改題)』といふ、次の詩のだぢ3連にも歌はれてゐます。

「わがカレンダァは時計にゑみかけ
 わが時計はわたしを睨めつけ
 新しい定規を刻んだゆゑ、
 腹を立て、プイと散歩に出てしまつた」



この二人の超越論的な差異は、三島由紀夫の場合には、時間の中に在るものの水平方向と垂直方向の交換によつて生まれる垂直の時間の無いやはり高みに、差異が生まれ、他方、安部公房の場合には、時間の無い純粋空間の差異は、リルケに学んだ通りに、外部と内部の交換によつて空間的に垂直方向に一次元上に生まれてゐるのです。

それは、すべて交換関係によつて生まれる差異です。

二人は、この差異を繰り返しの言葉によつて生み出しました。これが全く二人に共通する、作品の冒頭に唱へられる呪文の秘儀なのです。『太陽と鉄』を読みますと、三島由紀夫は此最晩年の時期の此の論考ともいふべきエッセイに、呪文といひ、咒術といひ、秘儀といつてをりますので、三島由紀夫と安部公房は、家の中でではなく、どこか外で会つて、お互ひの手持ちの創造の秘密のカードを総て見せて、お互ひの目に晒したのに違ひありません。安部公房も言葉のシャーマン(呪術師)、三島由紀夫も言葉のシャーマン(呪術師)であると、わたしは思ひます。後者は陽画の、前者は陰画の。

何故ならば、呪文とは、安部公房の言葉であり、三島由紀夫の言葉ではないからです。対談集『源泉の感情』に収められてゐる安部公房との1941年、41歳の時の対談で、「駄目だよ、俺は無意識はないよ。」と安部公房に向かつていふ三島由紀夫からは想像のできない『太陽と鉄』にある呪文といふ言葉であり、咒
術といふ言葉であり、秘儀といふ言葉であるからです。

この交換関係による、無時間の、超越論的な差異の創造を、この連の最後の次の二行に見てみませう。


すると
夜の雲がとほり過ぎた。


と三島由紀夫が書きますと、「夜の雲がとほり過ぎた」ので、「月を眺めて泣いて居た」「硝子の割れ目の横顔が」、文字にはなつてをりませんが、泣かなくて済むやうになるのですし、さうなつたといふことを歌つてゐるのです。

その代りに、下界が悲しむ。下界は次のやうになるのです。


働き疲れた汗が穹(そら)からにじみ出て
町々は雨傘に埋(うづ)まり
わたしは窓の下に行つて試(み)る。


悲しみの景色を眺めると、わたしは再び「既にして」「説明抜きに」「最初から」「そもそも」「いつの間にか」「知らぬ間に」「気がついたら」「理屈抜きに」「有無を言わさず」「余計な講釈抜きに」「四の五の言わずに」下界にをり、高窓の下にゐて、高窓を見上げるといふ地上の位置にゐる。ここまで来ると、もうお解りででせう、


すると
夏空が見えた
誇りかな鳥の翼が見えた
暑さに茹だつた声で
みんみん蟬(ぜみ)が啼いてゐた
雨は乾き切つたやうに消え失せ
仔熊は大きなあくびをしてゐた
すると
再び雨雲があらはれた。


この第5連は、三島由紀夫の大好きな夏、それも四季の正午の時間である真夏です。三島由紀夫は、この季節の真夏の時間といふ、時間の停止して存在しない詩人の高みに「既にして」「説明抜きに」「最初から」「そもそも」「いつの間にか」「知らぬ間に」「気がついたら」「理屈抜きに」「有無を言わさず」「余計な講釈抜きに」「四の五の言わずに」ゐるのです。詩人の命は救済されたのです。「仔熊は大きなあくびをしてゐた」ほどに、また、第1連の直喩(「仔熊のやうな」)の仔熊が、この第5連にをいて到頭隠喩(「大きなあくびをしてゐた」「仔熊」である)の仔熊になることができたほどに。しかし、


すると
再び雨雲があらはれた。


この雨雲は、雨を降らせることから、涙雨の、話者に悲しみを催さしむる雨雲なのでせうし、さうなるとまた、繰り返し繰り返して、前の連と同様に、夕焼色や橙色の時間に、何か悪いことが起きるやうな予感がします。そして、やはり、さうなるのです。何故ならば、


橙色(だいだいいろ)の黎明(よあけ)が迫り
土は早や けだるさに喘(あへ)
わたしは窓の下に行つて試(み)た。


とあるやうに、詩人の高みは真夏ですから、今度は夜から黎明になる時間、しかし夕闇といふ夜の始まりの闇ではなく、黎明の前の夜の最後の闇が迫つて来て、地上といふ水平面にある世界は「早や けだるさに喘(あへ)」いでゐるからであり、從ひ悲しみの情から「わたしは窓の下に行つて試(み)た」のです、すると、


すると
窓硝子は
もう張られて居た
厚いすていんど・ぐらすを通しては
光だけしか這入つて来なかつた。


「既にして」「説明抜きに」「最初から」「そもそも」「いつの間にか」「知らぬ間に」「気がついたら」「理屈抜きに」「有無を言わさず」「余計な講釈抜きに」「四の五の言わずに」「窓硝子は/もう張られて居たのです。」

この「もう」といふ副詞が、12歳の三島由紀夫の選択した超越論の副詞、即ち「既にして」なのです。さうして、すると、「既にして」、


厚いすていんど・ぐらすを通しては
光だけしか這入つて来なかつた。


詩人の高みに三島由紀夫たる話者の命は、話者たる三島由紀夫の命は、塔の高み窓辺に「既にして」存在してゐて、「いつの間にか」詩人の命は救済されて「あつた」のです。「既にして」。

この下界の水平面の地上の地盤と海の水盤から、一気に無時間で「既にして」裏山の高みに、塔の窓辺に、登場人物がゐることは、話の最初からであれ、終はりからであれ、三島由紀夫の物語の結構(構造)にとつては、以上の如くに、誠に重要なことなのです。『花ざかりの森』の最初と最後然り、『剣』の最初(双葉竜胆の文様)と最後然り(裏山での夜の中での双葉竜胆の紋付の胴をつけたまたの死)、『天人五衰』の最初と最後然り。その他の作品もまた然りでありませう。

この12歳の詩の最後が、「すると、その詩人の高みを保証し保障してくれる高窓の中の空間は、「光だけしか這入つて来なかつた」空間に、あの『豊饒の海』第4巻の『天人五衰』の最後の、やはり高みにある神聖なるお寺である月修寺の庭前の空間に在る静謐と静寂の、「光だけしか這入つて来なかつた」と過去形でいふ以外にはない静けさと射し入る光だけの世界に「既にして」「いつの間にか」なつて、終わつてをります。

何故人生の最後に三島由紀夫は癩王のテラス、即ち市ヶ谷のあのバルコニーで、生身の人間として死んだのかといふ問ひは、かうしてみると、無意味なことがお判りでありませう。何故ならば、何故といふ問ひは、時間の中での因果関係の順序を以って三島由紀夫に説明を求める問ひだからです。

しかし、三島由紀夫の死は、このやうに、この12歳の接続詞『すると』にある通りに、時間とは全く無関係ですので、その問ひにはそもそも無関係であり、その説明を最初から、することは、時間の中で生きてゐる事しか知らぬ読者には、即ち安部公房と其の総ての主人公たちのやうに「私は如何に死ぬべきか」とみづからの死を問ふて、「既にして」超越論的な次元へ歩み入ることを考へ実行することの覚悟の、日々の日常の中に、ない読者には、不可能なのです。

この世とは無時間の世界の接続の中、即ち差異から生まれた其の接続による、ものの在り方として見れば、無であり、生者から見れば死のやうに見える、死であるからです。これは、虚無でもなく、ましてや、唯一絶対全知全能のGodから離れて考へようとすると、どうしてもそのやうに考へてしまふヨーロッパ人が、それぞれの個別言語で通俗的にいふニヒリズムでは毛頭ありません。『豊饒の海』とは、そのやうな意味の世界の命名なのです。安部公房は、この海を、存在と呼びました。

このことはまた、三島由紀夫が、私の短編はこれといふ一冊はどれだといはれるならば『憂国』といふ短編小説だといつてゐますやうに(新潮文庫『花ざかりの森・憂国』自筆後書き)、この小説の中に、三島由紀夫のこの12歳の超越論はなほ生なましく美しく現れてゐます。私には、この小説の主人公の死、四谷といふ三島由紀夫の生まれ育つた土地で死ぬ此の再帰的な死は、軍人や武士の死ではなく、全く女性的な死であるやうに思はれる。ここには政治的な要素は何もない。ここにあるのは、本居宣長のいふ(超越論的な)もののあはれだと思ひます。『憂国』については、稿を改めます。

さて、かうして、最後に最初に戻り、次の、言葉による関数式を見ると、あなたにはこれが理解されるものに変じてゐるのではないでせうか。特に最後に置かれた自己証認(identity)の意味の深さが。


三島由紀夫[塔(詩人の高み)、(部屋(お納戸)、窗(高窓))、反照、自己証認(identity)]


追記:

この明瞭に超越論的な接続詞「すると」に至るまでに、同じ12歳の時に編んだ詩集『HEKIGA』に、次の二つの詩があります。やはり、十代の三島由紀夫の詩と小説の世界の転機は、この超越論的な接続詞「すると」に至つたこと、この「すると」の発見にあるでせう。

同じ類似の接続詞をその後のすべての作品に探すことは、三島由紀夫を知るためには、意味のあることかも知れません。しかし、三島由紀夫は「既にして」作品の冒頭に繰り返しとして、その言葉と形象を布置することで、この、現実と非現実の二つを宰領するための接続を、12歳の詩にあるやうに、行つてゐるのですから、それを思へば、それで十分だと言へませう。この重要な繰り返しの呪文(呪文といふ言のは言葉の繰り返しです)に基づく作品群の明解な分類は、既に『三島由紀夫の十代の詩を読み解く26:イカロス感覚6:呪文と秘儀』で詳述しましたので、この論考をご覧ください(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/10/blog-post_18.html)。

やはり、この転機である接続詞に至る以前には、『HEKIGA』といふ同じ詩集に収録されてゐる、この、「詩人にならうと決心して書いた最初の、12歳の詩群」の中にありました。この『HEKIGA』といふ詩集に、その言葉と哲学的思弁の成長の軌跡を求めることができます。

一つは『うそ』といふ詩(決定版第37巻、88ページ)、もう一つが『古城 夢想』(決定版第37巻、106ページ)といふ詩です。

『うそ』には、「さてさて」といふ、何か歌謡の合いの手のやうな、繰り返しから成る接続詞が歌はれてをります。

『古城 夢想』には、「いつか」といふ副詞が出て来ます。確かにこれは、過去をあらはす副詞でありながら、しかし、いつの間にかといふ意味も含んでゐる、超越論的な副詞でもある、そのやうな性格の品詞です。

とすれば、すでに6歳の『ウンドウクヮイ』の詩がさうであると言へませう。となれば、6歳で既に、この超越論は完成してゐたことになります。再度、繰り返しを厭はずに、この詩の構成要素を、引用して、挙げてみませう。

「詩の構成要素をあげてみると、次のやうになるでせう。

(1)繰り返しによる様式の対比による対称性と対照性の効果を既に知っており、そのことに美と抒情と快感を覚えていること。この場合、
(2)様式との対比による対称性と対照性とは、風船と百足の対比によつて、次の対称性と対照性を表現してをります。

   1天と地(地面)
   2上昇と下降
   3軽さと重さ
   4勝ちと負け
   5始めと終わり((一)と(二)といふ配列によって意識される)

(3)交差点のある十字形に興味と関心を持っていること。
(4)現実の出来事に対して、面白いと(いふ言葉を使って)思ひ、表現していること。ダリの十字架に対する「比類がない」ことに相当する賛嘆の言葉であること。
(5)独特の数の数え方、即ち、最後から数えて、その最後の数を勘定に入れて、下る(降順の)数を数えること。即ち、数を勘定するときに、一番最後から引き算をして勘定するといふこと。[註1]更に、このことから即ち、
(6)最初に最後を考えた事」

この思考論理には、時間が「既にして」存在してゐないことがお判りでせう。体系的な論理の骨組み(構造)だけがある。

從ひ、この12歳の超越論は、時間を遡って、否、三島由紀夫の時間は、普通の世人の時間とは反対方向に現実に進んでゐて、さうしてそれは例えば『鍵のかかる部屋』で主人公が「誓約の酒場」への行き来に出あふ後ろ向きにゆつくりと歩ゐて主人公と正反対方向に向かふ男、即ち主人公のドッペルゲンガーのことを思へば自明ですが、実は、6歳の超越論と呼ぶべきことなのです。即ち、奉天の窓々を眺めて解析幾何学的に此の超越論に至つた安部公房と同じ年齢の頃と、この哲学上の認識論と存在論の論理の一致の共有が、遥か大陸から離れて此の島の上で、三島由紀夫にはあつたと、いふことができるのです。

何といふ恐るべき子供たちでありませう。

しかし、一体「何故」私たちは、この大切なことを忘れてしまつたのだ?

何故ならば、何故?と問ふからです。

『海はただ海だけのことだ、さうではないか?』
(『花ざかりの森』の、紀州へ、男のふるさとの海へと向かうために、その道行きを女と共にする、女の問ひ、即ち海とは何かといふ問ひ対する、男の言葉)

自分自身の死のことを思ふ事だけが、生きるために大切なことなのではないでせうか。安部公房のやうに。三島由紀夫のやうに。二人の読者であるといふことは、それぞれに、それぞれの読者として、さうなのではないでせうか。この論考を書いて、さう思ひました





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