第13週: Maerz (3月) by Ezra Pound (1885 - 1972)
【原文】
In einer Station der Metro
Das Erscheinen dieser Gesichter in der Menge:
Blütenblätter auf einem nassen, schwarzen Ast.
【散文訳】
地下鉄の、とある駅の中で
有象無象の人間どもの中にある、これらの顔という顔が現れるということ、即ち
ひとつの、濡れた、黒い枝の上の、花弁という花弁たち。
【解釈と鑑賞】
英語の原文は、次の通りです。
英語の原文:
In a Station of the Metro
THE apparition of these faces in the crowd;
Petals on a wet, black bough.
英語からの散文訳:
群衆の中にある、これらの顔が、恰もそうだと見えるということが、即ち
湿った、黒い枝の上の花びらが。
この英語を見て思うのは、まづ駅が大文字で始まっているということです。
これは、不定冠詞が駅の前についているので、とある駅という意味ですが、しかし、このとある駅が只の駅ではなく、何か屹立する、際立った、駅と言えば即座にその意味が伝わるような駅であるということです。
もし日本人が東京駅という駅を大文字で書いたら、それは駅の中の駅という意味になるでしょう。
そのような駅の中の話です。
こうしてみると、地下鉄もMetroのMは大文字です。
地下鉄の中の地下鉄という意味です。
ドイツ語では、逆にこのような意味を読み取ることができない。
何故ならば、ドイツ語の正書法では、名詞の最初の文字は常に大文字で書くことになっているからです。英語では、そうではない。
そうして英語の原文の詩は、apparitionの前にある定冠詞が3つのアルファベットの文字, T, H, Eが、みな大文字になっている。
これにも詩人は意味を持たせたのです。
そのように恰も見えるということに定冠詞を付けたことに意義(sense)があるのだと思います。
これもドイツ語では上に述べたのと同じ理由で、なんということのない、当たり前の理由で、普通の語のように思われます。
ですから、この詩の言いたい事は、このTHE apparition、apparitionであるということが、この詩の言いたいことなのです。
そもそも、物事はそうなっているという意味です。恰もそうであるかの如くに、そうなっている。
こういう意味から、Ezra Poundも詩人として、言語は機能だということを、ここで告白したも同然の、語の選択をしていると解釈し、理解することができます。
さて、そうして更に、on, aufという前置詞と、bough, Astという枝という意味の名詞の間に、wet, nassとblack, schwarzという二つの形容詞がどうしても最低限、最小限必要だったのだと思います。
もしこの二つの形容詞を取り除いたら、これは、詩にはならないでしょう。
それは散文になる。あるいは、散文句になる。
ですから、この詩の詩としての生命は、詩人の形容詞は、従属的な位置、二義的な、二次的な位置にある、これらふたつの形容詞にあるのです。
これこそ、言語の芸術家、即ち詩人の表現として、相応しいものだと思います。
即ち、言葉は、二義的な位置から生まれるということです。
即ち、言葉が機能であること。
そのことを十分意識した詩作品だと思います。
話が飛ぶようですが、Hart Craneも同じ考え、同じ感性から、素晴らしく緊密で、多層的な詩、多義的な詩を書いたことを思います。
これは、日本語の詩人にも求められることだと思います。
大震災、大津波で、声高に叫び、政治に利用されるような言葉は、詩の言葉ではありません。
何故一行でも、それが詩(二義的な言葉、即ち多義的な言葉)であれば、こんなに、Ezra Poundの詩のように、力を持つのだろう。
今、そのことにこそ、思いを致すべきではないでしょうか。
今日は、順序がいつもとは逆になりましたが、この詩人のWikipediaです。
日本語のWikipediea:
http://ja.wikipedia.org/wiki/エズラ・パウンド
英語のWikipedia:
http://en.wikipedia.org/wiki/Ezra_Pound
0 件のコメント:
コメントを投稿