「詩を読んでいる間はともかく、かりにもこれを「散文」へ訳そうとする時に、たちまち感じさせられるのは、私のような流儀の者でも、作家というものはつねに時間の前後関係に沿って文章を組み立てているということだ。読んでいる分には不都合とも気がつかないのに、訳するとなると詩文の時制(テンス)の自在さに躓く。つまり事の、人事の、経緯のほうへおのずと関心が向くということだ。たとえば触れ合った男女の、その重ね合わせた箇所に感じられる純粋な持続、とあれば抱擁か、それ以上の進展を思う。ところがその後から、接近の初めの頃の、奇異な、存在と行為の分離が同じ時制の平面において指摘される。しかし原詩の「時」は、さわらぬほうがよい。」
小説と詩の相違は、時間の処理の相違だ。処理とは、英語でいうprocessを、わたしは思って書いている。processという概念は、a x b = c、という意味である。論理学でいうと、aとbは、種概念、cはその結果の類概念を発見すること。算数、算術演算では、掛け算のこと。論理演算では、論理積。この論理積の結果を発見すること、創造することは、詩人がそのこころの底で、無意識にでも、一番願っていることだ。このプロセスには時間がない。そのようにこころと意識を育て、形づくりながら、言葉を紡ぎだす。だから、詩は時系列ではかかれない。このcにいたるには、プロセスという処理、この演算には、時間が排除されていて、含まれていない。吉田一穂という詩人は、このことを、polarization、フランス語読みで、ポラリザシオンと言っている。わたしは、垂直の旅と呼んでいる。
リルケの詩は、このように、時間という時間をできるならばすべて排除しようという強い意志によって製作されている。そういう意味では、すべてを空間的に書いているといってもよい。なにしろ、wenn、英語でいうwhenという従属接続詞を普通なら使うところを、wo, whereという従属接続詞を使ってまでいるのだから。悲歌の中では、時間が経過するということがない。詩の中では永遠が存在するか。無限とは何かとリルケは考えたのだ。それに対する答えも見つけた。そのような思考の凝縮が、この晩年の長詩なのだと思う。
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