2009年6月10日水曜日

詩の批評について

リルケの悲歌を読みながら、結局読者であるわたしが考えをめぐらせているのは、リルケという作者、この詩人は何を考えたのか、どんな人生であったのかということである。

若年の頃、小林秀雄を読んで、作品の向こうに作者の人生を思うことが批評であるということが書いてあって、その後もそのことを疑いもしてみたが、やはり同じことをいつの間にか思っている自分がいた。

リルケの悲歌を読んでいて、作品を通じて、実証主義的な事実からではなく、即ち言語の側からだけ、その作品を通じて、その人の姿を知ること、そうして、純粋なそのひとを見、とりだすこと。作品と分かち難く。

こうしてみると、最初は大雑把に、リルケというひとは、生物も無生物も、すべてものとして観じたひとなのだなと思ってみたところから始まり、今日は、10ある悲歌を読む6回目、逆に10番から読んできて、4番に至って、段々と大きなところから下の階層に降りてきて、この4番の最初の連から、既に連をまたいである次の連との語と語の繋がり、文と文の関係が自然に見えてきた。いつも思うが、不思議なことだ。

このブログの昨日のページには、詩の定義をして、詩とは、連想の藝術であると書いたが、やはりその通りだと思う。リルケというひとの複雑精妙な連想の連鎖、思考プロセスの網の目が(文字通りに)あり、それに従って、幾つもの筋道を一緒に考え、思うことができるようになり始めた。

大切なことだと思うが、リルケは文法を外れていない。

今日も、明日のために備えよう。

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