03. JUNI:ヨーロッパ自転車の日の詩:Radlers Seligkeit(自転車走者の至福)by Richard Dehmel
【原文】
Wer niemals fühlte per Pedal,
dem ist die Welt ein Jammertal!
Ich radle, radle, radle.
Wie herrlich lang war die Chaussee!
Gleich kommt das achte Feld voll Klee.
Herrgott, wie groß ist die Natur!
Noch siebzehn Kilometer nur.
Ich radle, radle, radle.
Einst suchte man im Pilgerkleid
den Weg zur ewigen Seligkeit.
Ich radle, radle, radle.
So kann man einfach an den Zehn
den Fortschritt des Jahrhunderts sehn.
Ich radle, radle, radle.
Noch Joethe machte das zu Fuss,
und Schiller ritt den Pegasus.
Ich radle!
【散文訳】
ペダルを踏んでは、誰も感じたことはないだらう!
世界が、嘆きの谷だなんて!
わたしは、自転車を漕ぐ、自転車を漕ぐ、自転車を漕ぐのだ。
何とまあ素晴らしいのだ、この国道の並木道は!
直ぐに、クローバーで一杯の8番目の野原だ。
わたしは、自転車を漕ぐ、自転車を漕ぐ、自転車を漕ぐのだ。
主なる神よ、何と自然は大きいのだらう!
まだたつた17キロ走っただけだ。
わたしは、自転車を漕ぐ、自転車を漕ぐ、自転車を漕ぐのだ。
嘗(かつ)ては、巡礼服を着て
永遠の至福への道を求めたものだ。
わたしは、自転車を漕ぐ、自転車を漕ぐ、自転車を漕ぐのだ。
かうして、10といふ数字のところで簡単に
世紀の進歩を見ることができるといふ訳だ。
わたしは、自転車を漕ぐ、自転車を漕ぐ、自転車を漕ぐのだ。
まだ、ゲーテも足で歩いて、
そして、シラーはペガサスに乗つてゐた。
わたしは、自転車を漕いでゐるのだ!
【解釈と鑑賞】
ドイツの詩人です。自転車を漕ぐことの喜び(歓びといふ文字を選ぶべきかも知れません)を歌つた詩です。発明されて、広く販売されるようになつた当時、自転車がどのやうに受け止められたかの、よく伝はつて来る詩でもあります。
日本語のWikiです:
ドイツ語のWikiです:
この詩人は、リューベックといふバルト海に面したハンザ同盟の中心都市であつた町から詩の投稿をしたトーマス・マンを発見した詩人です。マンの十代の書簡集の最初の方に、マンが詩を書いた後に、どこかの雑誌に投稿した短編小説『転落』を賞賛してくれたことへの、デーメル宛のお礼の手紙が収録されてをります。1894年11月9日付の手紙です。発信地はミュンヘンのランベルク通り2番地とありますので、小説家としてのマンは、この時既に故郷を離れてゐたことがわかります。
以下に日本語のWikiを引きますが、これを読みますと、何故トーマス・マンがベルリンに出てから保険会社に勤めたのか、おそらくはリヒャルト・デーメルに紹介されたのでせう。マンがベルリンに出て保険会社の口をどうやつて見つけたのか、取り合わせに飛躍がありますので、長年不思議に思つてゐたのでした。一つの解を得たやうに思ひます。
ドイツ語のWikiを見ますと、以下のやうにあります。これを読みますと、この詩人の職を報じた団体はは、Verband der Privaten Deutschen Versicherungsgesellschaften in Berlinとありますから、ベルリンにある保険会社の協会であり、その秘書または秘書役を務めたといふ事ですから、若き20歳そこそこのマンにどこかの保険会社に口利きする事は、十分にできた事だと思ひます。この詩人の学位論文が、保険経済論だといふのが、面白い。日本語のWikiには、この辺りの記述はありません。これは、貴重な発見でした。以下ドイツ語のWikiから。下線部が以上に相当の箇所です。
「Nach dem Abitur in Danzig 1882 studierte er in Berlin Naturwissenschaften, Nationalökonomie und Philosophie und beendete sein Studium mit der Promotion in Leipzig 1887 zu einem Thema aus der Versicherungswirtschaft. Während des Studiums wurde er Mitglied der Burschenschaft Hevellia Berlin.[2] Danach arbeitete er als Sekretär im Verband der Privaten Deutschen Versicherungsgesellschaften in Berlin und verkehrte im Umkreis des Berliner Naturalismus.」
さて、日本語のWikiは短いものなので、その記述を全文引用しますと、次のような詩人です。「火災保険の職に就き」といふところが、ドイツ語版と比較をすると曖昧であるやうに思ひます。
「リヒャルト・フェードル・レオポルト・デーメル(Richard Fedor Leopold Dehmel、1863年11月18日 - 1920年2月8日)は、ドイツの詩人。
プロイセン、ブランデンブルク州ダーメ=シュプレーヴァルト郡の小村に山林監視人を父として生まれる。教師と対立してギムナジウムを放校されたのち、ベルリンとライプツィヒの大学で自然科学、経済学、文学などを学ぶ。その後火災保険の職に就き、仕事の傍らで1891年に処女詩集『救済』を刊行、これをきっかけにリーリエンクローンとの交際が始まる。1895年より文筆専業となり、1896年に代表的な詩集『女と世界』を刊行。1901年よりハンブルク郊外のブランケネーゼに永住した。1914年から16年まで自ら志願して第一次世界大戦に従軍している。終戦後の1920年に戦争時の傷の後遺症が元で死去。
その詩は自然主義的・社会的な傾向を持ちつつ、精神的・形而上学的なエロスによる救済願望に特徴付けられている。童話、劇作などもあり、晩年は第一次世界大戦の従軍記録も残した。
彼の詩には、リヒャルト・シュトラウス、マックス・レーガー、アレクサンドル・ツェムリンスキー、アルノルト・シェーンベルク、アントン・ヴェーベルン、クルト・ヴァイルなど多くの作曲家が曲を付けた。また、彼の詩を元にしたシェーンベルクの弦楽六重奏曲『浄められた夜』は特に有名。」
この日本語のWikiに相応しい写真を二葉掲載して、感想を続けます。
第一次世界大戦出征時のデーメル
デーメルのデスマスク
第1連の「嘆きの谷」は、新約聖書の「詩編」84編 「マルコによる福音書」15章15節~32節の題名「嘆きの谷を通るとき」に語られてゐる谷のことです。
第2連の「第8番目の野原」は、チェスの盤面の縁(へり)にある、双方にとつての一番奥の院、即ち王と女王のゐる第8番目の最後の一列をいひます。英語でいふならば、the eighth fieldのfield、ドイツ語のFeldを、このやうに縁にあるといふ意味を掛けて、あるいはまたドイツ語の日常会話では普通にさういふのかも知れませんが、つまり例へば私たちが得意な藝を18番といふやうに、そのやうに使つてゐるのです。
つまり、自転車は町を遠く出て、そのやうな郊外の野原を、町の領地の縁を快適に走ることができるといふのでせう。
第5連の「10といふ数字のところで」とある意味は、その次の行に世紀といふ言葉が出て参りますから、1世紀100年を区切る、10年ごとの単位だと理解をすることにします。
最後の連の最初の一行で、ゲーテ、GoetheがJoetheとなつてゐるのは、まさか誤植でなければ原文の通りで、きつとベルリン訛りの表記に違ひありません。ベルリンか、あるいは低地ドイツでは、ganz gut!をjanz jut!と発音してをりましたから。
「わたしは、自転車を漕ぐ、自転車を漕ぐ、自転車を漕ぐのだ」といふ各連最後の一行が、誠に爽快で、自転車を漕ぐことによる疾走感と自由を感じさせます。