三島由紀夫の十代の詩を読み解く29:イカロス感覚7:蟹
Nathanの三島由紀夫の評伝『ある評伝 三島由紀夫』(新潮社)を読んでゐて、次の箇所を発見しました。
それは、かねて或る友人より質問されてゐて、私が答へられずにゐた問ひに対する、三島由紀夫自身による回答が書いてあるのを見つけたのです。
その問ひとは、何故あの三島邸の前庭にある星座12座に、三島由紀夫の大嫌いな蟹の絵があるのか、それなのに何故わざわざ其処に嫌ひな蟹が描かれてゐることがわかってゐるものを置いたのかといふ問ひです。
三島由紀夫のよる言葉は、ページは和訳で、133ページ上段です。
「庭園の中央には十二支を象つたタイルの日時計と、大理石の彫像があった。ディオニュソスのではなく、アポロのである。(かつて三島は外国人記者に、英語で「これは私が合理的なものを唾棄することの象徴だ(This is my despicable symbol of the rational.)」と説明した。)」
この一文の解釈も次のやうにありませう。
1。三島由紀夫が、この一行の中のmy despicable symbolを肯定して口にした場合。
2。三島由紀夫が、この一行の中のmy despicable symbolを否定して口にした場合。
1であれば、my despicable symbolによつて、合理的なものを否定してゐることになり、
2であれば、my despicable symbolによつて、合理的なものを肯定してゐることに
なります。
ここに、いつも既に十代の詩にある、三島由紀夫の論理が、世の常の人の、世間の親や学校が教へこまう信じさせようとする論理とは全く異質な、肯定と否定の論理の、自己を主体として言葉を発する場合にはいつも、自己の肯定・否定を含み、そしてその対象の肯定・否定の相反転する自己・両極端の二つの概念の、従ひ3つのものの組み合わせられた、三島由紀夫固有の言語論理による交換関係の創造があります。
三島由紀夫の両極端に関する肯定と否定は、上の文を解析してみると判かりますが、その論理は文のすべての構成要素に及び、從ひ、「これ」「私」「合理的なもの」「唾棄すること」「象徴」のすべてに掛かるのです。さうして、その可能性の組み合わせの中から、三島由紀夫の機智が一つの又は複数の組み合わせを選択する。さうして、次の文が生成する。
そして、一文を生成するその機智は、論理と感情が分かち難い。即ち、隠喩(metaphor)の一文を生成した後に、論理が從(つ)ひて来る。
これが、三島由紀夫の文体です。
三島由紀夫の豊かな修辞は、ここから生まれるのです。この論理を「十二支日時計の論理」と呼ぶことにしませう。しかし、これは世間の人間たちから見ると背理ですので、更に「十二支日時計の背理」と呼ぶことにしませう。
この背理を、三島由紀夫は時差の中に求めました。
すなはち、幼年期の平岡公威といふ幼児が、祖母と一緒に暮らしてゐて、その後の詩の中でくりかへし歌はれ、最後のエッセイ『太陽と鉄』にも登場するお納戸の部屋の[註1]、即ちジェット戦闘機の後ろの座席の機密室の、さうして、そのお納戸に必ずある窓から外界を眺め、外は明るく、内は暗く、外国人記者に語つた上の一行の文の示す通りに、主体と客体を交換して、外は明るく、内は暗く、またジェット戦闘機のお納戸は高みにあり高く、従ひ、お納戸の窓も高窓でありといふ、そのやうな今度は、垂直方向を考慮に入れて、(納戸の高みから見て)地上といふ水平面の世界とは大きな落差のある、一層の天の高みを仰ぎ巨大な蛇に囲巻かれた地球を見下ろす、このやうな関係が時間の中で互ひに交換され続ける複合体として生まれる論理が、三島由紀夫の終生の修辞を生み出す論理の源泉なのです。
[註1]
『太陽と含羞(はぢらひ)』に、お納戸は太陽と鉄の形象を見る、その窓のある部屋として出てきます(決定版第37版、500ページ及び501ページ)。『三島由紀夫の十代の詩を読み解く13:イカロス感覚4:塔と窗(まど)』から再度引用してお伝へします(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post_5.html)。
「(4)黄色い色をしてゐることの形象と意味
黄色い色を歌つた次の15歳の『太陽の含羞(はぢらひ)』といふ詩があります(決定版第37巻、500ページ)。この詩を見ますと、十代の三島由紀夫が、この色に何を思つたかがよくわかります。
「太陽の含羞(はぢらひ)
太陽はお納戸と鉄の青だ
ああ輪廓は静寂そして若さ激しさ
長くみつめると太陽は
黄色フィルタァを我が目に据ゑる
雲のさなかに黄色い丸
青空にきいろい丸
日の含羞(はぢらひ)のしるしでせうか
太陽の色は
お納戸と鉄の青だ
(十五・四・十五)」」
これを、私も一行で、言葉の概念を使つて関数の式で表はせば、三島由紀夫の世界は、一生を通じて、次のやうになります。
三島由紀夫[塔(詩人の高み)、(部屋(お納戸)、窗(高窓))、反照、自己証認(identity)]
この語と語の関係の中に、この関係式の肯定と否定、更には初夏秋冬、太陽と月、夜と昼、垂直と水平、上昇と下降、その他の様々な夥しい形象が、十代の詩の中に登場し、十代の詩を土壌とすれば、後年の小説群、戯曲群、エッセイ群が、花咲くのです。
三島由紀夫の此の論理式は、勿論その感情の源泉でもあります。
ご参考までに、三島由紀夫と一年年長であるだけの、さうして内地の日本ではなく外地の満洲国奉天といふ圧倒的に幾何学的な町で2歳から16歳まで育つた安部公房といふ詩人の言葉の世界の概念の方程式をお伝へします。如何に二人は相似たるもの同士であつたか。これは、安部公房も、三島由紀夫同様に、既に一桁の学齢の時の、安部公房の世界です。
安部公房[塔(詩人の高み)、(部屋、窓)、反照、自己証認(identity)]
安部公房は、奉天の窓から、厚いカーテンに隠れて、終日窓から奉天の郊外に果てしなく広がる広大な何もない曠野の空間を飽かず眺めてゐる子供でした。大人たちが、安部公房がゐなくなつたと大騒ぎをしてゐるのも知らずに。
実は、三島由紀夫の概念方程式で、「反照、自己証認(identity)」としたところは、安部公房の十代の言葉を借りたのです。この「反照、自己証認(identity)」といふ部分は、「鏡、自己証認(identity)」としても良いのです。勿論、安部公房の世界も鏡の、従ひ、再帰的な世界です。この安部公房の「反照、自己証認(identity)」を、三島由紀夫の世界像は、その一番外側、即ち縁(へり)には鏡があつて、世界は鏡に包まれてゐるのですから[註1]、「鏡、自己証認(identity)」としても構ひません。さうであれば、三島由紀夫の世界の此の箇所の二つの言葉の関係は、次のやうになります。
三島由紀夫[塔(詩人の高み)、(部屋(お納戸)、窗(高窓))、鏡、自己証認(identity)]
[註1]
『三島由紀夫の世界像』をご覧ください。この世界は、鏡に包まれてをります。まづ『三島由紀夫の世界像1』(簡略な版)を示し、以下『三島由紀夫の十代の詩を読み解く25:二人の理髪師』の[註8]より引用してお伝へします。
「[註8]
三島由紀夫の持つ鏡と再帰性について、『 三島由紀夫の十代の詩を読み解く21:詩論としての『絹と明察』(4):ヘルダーリンの『帰郷』』から引用して以下にお話しします(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post_24.html)。:
「三島由紀夫の十代の15歳の詩に、踊り子の出てくる『孤独(『夕暮は……』ある戯曲の一節)』と題した詩があります(決定版第37巻、552ページ)。この踊り子も、美しいのでありませうが、しかし、『道成寺』の踊り子と同様に貧しい踊り子です。傍線筆者。
「「夕暮は煙草のやうな匂ひがしますね
……どつか、とほい、……あのピアノの音は
ドとファがぬけてゐます
古いピアノのある、……褪せたカァテンの……古い家、
大きなおほきな木彫の卓子(テーブル)がおいてあるのぢゃありませんか?
(樅がなゝめになつて……梢に夕陽のもえのこりをとまらせて……)
明取(あかりと)りのうへの空は」
ひらたい……ひらたい……なんて扁たいんでせう
みどろの一種のやうに、もつれたまゝ動かないのでせう……
ああ あなた こゝにゐらして下さい、
どこへいらつしやるんです
(おのがれになれないのですよ)
孤独はこゝろのなかにはゐません、
あなたをとりまくみえない帷(とばり)です
かはいさうに……さびしいので……こゝろははしやぎまは
るでせう
みすぼらしい踊り子のやうに
でもそれにつれて、孤独は厚くなるばつかりです、
シイツの皺にも
夜が訪れてきたのですね、」
そのとき鏡の内部(なか)には滔々と水が流れてくる、部屋はひた
され始める」
煙草の匂ひを嗅いで過去を追想するところから、この詩は始まります。煙草がそのやうな作用をもたらすことを、15歳の少年は知つてゐたことになります。
追想でありますから、「……」といふ点線による過去の追憶が始まり、この詩が過去の時間のなかで歌はれることになります。[註3]
[註3]
「……」といふ点線の詳しい意味については、『三島由紀夫の十代の詩を読み解く11: イカロス感覚2:記号と意識(1):「………」(点線)』(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post.html)を参照下さい。
それも、「ドとファが抜けた」といふ、その抜けた空虚の音が響く時差の存在する古い家の中の空間が舞台です。時刻は夕暮れである。
さて、その追想の過去の時間のなかで、この詩の話者が自分の姿を現して、作中の「あなた」に、このピアノの空虚の時差の響く空間へと誘ふように呼びかけます。この「あなた」は、「踊り子のやうに」と直喩で言はれてゐますので、顔も体も若い美しい女性なのでありませう。これを今「踊り子」と呼ぶことにして論を進めます。
また、最後の二行を読みますと、どうもこの部屋は鏡の部屋、即ち壁面四面が鏡であるか、天井も床も鏡の張つてあるか、いや、それらをひつくるめても、部屋は「鏡の内部」を持つ空間であると想像されます。
この鏡の内部を備へた空間に入ると、そこには孤独がなくなるのか、または孤独になるのか、二つに一つでありませう。
「孤独はこゝろのなかにはゐません」といふ一行を考へれば、孤独は、あたなの心の中にではなく、この部屋に「あなたをとりまくみえない帷(とばり)」としてあると読むことができます。この部屋は、「鏡の内部」ですから、この部屋の「鏡の内部」にやつて来ると、踊り子は孤独になり、踊り子は「孤独は」自分の「こゝろのなかにはゐ」ないことを知るのでせう。
「シイツの皺にも/夜が訪れてきたのですね」といふ言葉には、何か非常に性愛の気配が濃厚にあります。それ故の踊り子でもあるのでせう。
この踊り子を美しい踊り子だと仮定すると、この「鏡の内部」にゐることは、実は「孤独は」自分の「こゝろのなかにはゐ」ないことを知ることであると知れば、夜が訪れるのですから、暗闇になりますので、鏡には自分の(不変の)美しい顔や肢体も映ることはなく、自己への再帰性をみることができなくなりますから、『道成寺』の踊り子のやうに鏡の部屋の外部に出て(自分の美を時間の再帰性の繰り返しの中において)積極的に自然と和解し、美としての自己を傷つけることなく男と性愛を交わすことを決心するわけではありませんが、しかし、「鏡の内部」にゐたまま消極的に、「夜が訪れてき」てみえないベッドの「シイツの皺」の上で、男と性愛を交わす準備はできてゐるといふことになります。
何故ならば、夜が訪れると、「そのとき鏡の内部(なか)には滔々と水が流れてくる、部屋はひたされ始める」からです。即ち、このとき、この踊り子の美は、夜の水の流れ、といふことは夜の河の流れと言ひ換へてもよく、更に言ひ換へれば、夜の時間の河の流れに浸されて、その時間の再帰性(繰り返し)に身を委ねて、自分の顔の美を毀損することなく、男との性愛を交わすことができる。
これが、15歳の三島由紀夫の早熟の論理であつたのではないでせうか。
この夜の論理をひつくり返すと、『道成寺』の昼間の衣装箪笥の「鏡の内部」での、踊り子の心変わりの説明になります。何故ならば、衣装箪笥の「鏡の内部」には、夜の時間の浸潤はないからです。
清子といふ踊り子は、昼間に「鏡の内部」から外に出て、そこが夜である思つてゐる若い女であるといふことになりませう。春の季節の時間の循環、その季節のたびに咲き誇る桜もまた、これらは皆夜の季節であり、夜の桜なのです。清子の叫ぶ「春はかうしてゐても容赦なく押しよてくるんだはね。こんなにおびただしい桜、こんなにおびただしい囀(略)」といふ科白に、15歳の詩の「そのとき鏡の内部(なか)には滔々と水が流れてくる、部屋はひたされ始める」といふ言葉と同じ調子を、同じ時間といふ河の水の浸潤をみることができます。
それ故に、この劇は最後に清子が「でももう何が起らうと、決して私の顔を変へることはできません。」とふ一言で、この芝居は幕になるのです。
確かに、『孤独(『夕暮は……』ある戯曲の一節)』と此の詩の副題にあるやうに、三島由紀夫は、ハイムケールの時代の初年に当たつて、この詩の主題を戯曲に仕立てたのです。
さうして、この「孤独はこゝろのなかにはゐません、/あなたをとりまくみえない帷(とばり)です」と歌はれる鏡は、14歳の次の詩にも、やはり同じ鏡として歌はれてをります。これが、おそらくは終生変わらぬ、三島由紀夫の鏡の形象であり、鏡の概念であつたのでありませう。
その詩は、『或る朝』といふ詩です(決定版第37巻、424ページ)。
「まつ白な裾長い闊衣で
彼女は芝生を駆けて行つた。
なにかすらつとした鳥たちは
透明な肉体のまゝ、
朝霧を切つて行く。
あらゆる鬱金色の花のおもて、
すべての森や湖や、
噴水や糸杉(サイプラス)を包んで、
目に見えぬ鏡があつた。」
『道成寺』も『孤独(『夕暮は……』ある戯曲の一節)』も部屋の中の鏡ですが、この詩を読みますと、これは世界が鏡であるといつてをります。
世界は目に見えない鏡に包まれてゐる。さうして、その中にゐるものは、白い色であつたり、すらつとしてゐたり、透明であつたりしてをり、また、さうして自然を包んでゐる。
自然が鏡を包むのではなく、鏡が自然を包んでゐるそのやうな鏡、そのやうに「あなたをとりまくみえない帷(とばり)」である鏡はいつも女性と性愛と孤独と時間の再帰性(自己への、また自己の繰り返し)と、そして夜と、連鎖してゐる。
これが、鏡との関係では、14歳の三島由紀夫の世界認識でありました。
このやうに考へて参りますと、三島由紀夫にとつての自然との和解とは、鏡の世界との和解といふことになります。
即ち、自己との、自分自身との和解です。一体三島由紀夫は自己の何を赦し難いと思つたのでありませうか。
さうしてみますと、わたしの思ひ描いた『三島由紀夫の世界像』は、見えない帷としての鏡に包まれてゐるといふ世界像になります。」
実は三島由紀夫の詩では、[鏡、自己証認(identity)]のところは、隠喩(metaphor)として一瞬で出来上がり、即座に間髪を入れずに、二つが一つに隠喩(metaphor)となつてゐるのです。さうして、一行の文が生成する。さうして、そのあとで、三島由紀夫の思考論理が従ひて来る。さうして、その思考論理、即ち後述する背理の隙間、即ち其の差異から、新たな隠喩が生成され、この循環を、三島由紀夫の決定する結構の中で完結するまで連続するのです。
もし、天才と呼ばれる人間がゐるとしたら、それは、この二人の例のやうに、しかし最高には空海のやうに一語で森羅万象を言ひ表はし、更にしかし最多でも7つの言葉で、さうして二人の場合にさうであるやうに5つの言葉で、自分の宇宙を創造し、すべての宇宙の説明をすることのできる人間を云ふのです。
この少ない語彙で小説を書くことを、安部公房は、自分は自宅とスーパーマーケットを往復する間に使ふ言葉で小説を書くのだと言つてをります。
この少ない語彙で小説を書くことを、安部公房は、自分は自宅とスーパーマーケットを往復する間に使ふ言葉で小説を書くのだと言つてをります。
さて、三島由紀夫はハイムケール(帰郷)の時代の2年目、即ち40歳、1965年の『太陽と鉄』の冒頭の第一行で、「私はもはや二十歳の抒情詩人ではなく、」といひ、またハイムケール(帰郷)の時代の2年前の『私の遍歴時代』といふ、『剣』と『午後の曳航』を書いた38歳、1963年のエッセイで、この『仮面の告白』を書いた24歳の歳に「私はやつと詩の実体がわかつてきたやうな気がしてゐた。少年時代にあれほど私をうきうきさせ、そのあとではあれほど私を苦しめたきた詩は、実はニセモノの詩で、抒情の悪酔だつたこともわかつてきた。私はかくて認識こそ詩の実体だと考へるにいたつた」と、過去の詩人としての自分を振り返へつて、さう云つてをります。
ハイムケール(帰郷)の時代の前年の後者のエッセイの上の引用の直前では、「二十四歳の私の心には、二つの相反する志向がはつきりと生まれた。一つは、何としてでも、生きなければならぬ、といふ思ひであり、もう一つは、明確な、理知的な、明るい古典主義への傾斜だつた。」といふことばで明らかなやうに、既に此のエッセイを書いた38歳までの古典主義の時代、Sollen(ゾルレン)の時代、森鴎外とトーマス・マンにならつて、形式論理にしたがつて生きようとした時代の自分を否定してゐて、同じ此のエッセイの末尾で「二十六歳の私、古典主義者の私、もつとも生の近くにゐると感じた私、あれはひよつとするとニセモノだつたかもしれない。/してみると、かうして縷々書いてきた私の「遍歴時代」なるものも、いささか眉唾物めいて来るのである。」と締めくくつてゐる。
三島由紀夫のニセモノといふ言葉の使ひ方は、このやうに、その今ゐる現在から過去の時間を振り返つて、それを否定する時に、その時差にゐた自分をニセモノの抒情詩人と呼び、その時代をニセモノの時代と呼ぶのです。
さうして到頭最後のハイムケール(帰郷)の時代には、上にあるやうに、前者のエッセイの「私はもはや二十歳の抒情詩人ではなく、」といふ引用に続けて「、第一、私はかつて詩人であつたことがなかつた。」と断言し、今度は詩そのものになるので、これからいよいよ本物の詩人になるのだといふのです。さうすれば、あの世から生前を眺めて、きつと、あれはニセモノの生であつたといふに違ひありません。さう言葉にニセモノを口にした時には既に、三島由紀夫は次の生へと転生し、七生報国といふ鉢巻を締めて身罷つたやうに、七度の転生を繰り返して、日本語の文藝のために、従ひ日本の国ために、この順序で、報じてくれることでありませう。
24歳の歳に「私はやつと詩の実体がわかつてきたやうな気がしてゐた。少年時代にあれほど私をうきうきさせ、そのあとではあれほど私を苦しめたきた詩は、実はニセモノの詩で、抒情の悪酔だつたこともわかつてきた。私はかくて認識こそ詩の実体だと考へるにいたつた」といふ此の詩の実体に関する認識論は、この間30歳のエッセイ『ワットオの《シテエルへの船出》』でワットオの紅玉の林檎を論ずる不可視の林檎論となつて展開され、40歳で書き始めた『太陽と鉄』では、やはり同じ不可視の林檎論を更に一層に論じて、自分といふ林檎の芯は存在よりも認識を選ぶといつて、その近い未来の切腹の理由を述べてをります。
これから切腹といふ儀式的な死によつて詩の最たるものである美になつて、いよいよ本物の詩人になるのだといふのです。
この三島由紀夫の詩への首尾一貫した関心の表明の言葉を読みますと、大嫌いな蟹を含む「十二支日時計の背理」は、そのまま詩人としての三島由紀夫の論理であることがわかります。何故ならば、19歳の三島由紀夫は、『詩人の旅』といふ全12章よりなる次のやうな、蟹の登場する詩を一篇だけ書いてゐるからです。蟹が歌はれるのは、そのうちの第十章です。(決定版第37巻、739ページ)
この詩は、かいつまんでいふと、詩人が天地海を旅しても、どこにも栖(すみか)はなく、次の第十一章(恋歌)に歌はれる美しい女性にだけ、しかも詩人はその女性には決して触れることはできない背理に拠る女性だけにはこころ安らかに救はれる、何故ならば、背理に棲む女性は、詩人である者とは全く対極にあつて異なり、媒介者ではなく、無媒介のものであり、従ひ、「夜の星・昼の月をも映す」そのやうな鏡のやうな透明な存在であり、詩人が決して触ることのできない存在、即ち18歳の『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』で三島由紀夫の創造したあの海賊頭といふ行動家「未知へ」即ち「失はれた王国へ」即ち「ほんのりと光がさしてゐた」「産湯を使はされた盥(たらい)の縁(ふち)のところ」へ(『仮面の告白』第一章冒頭)へと求めて出帆する、即ち常に自己が生まれる此の現在から過去を見やり追想追憶して其の時差に存在する当の存在、それが美神であり、女神であるからです。
自らの言によれば、三島由紀夫とすべての接点を共有してゐながらお互ひに方向が正反対であり、対極であつた安部公房ならば、この女神を存在の女神と呼び、さうして名作『砂の女』と同じ名前の「砂の女」と呼んだことでありませう。即ち、存在の女です。
さて、このやうな「女神」を歌つた章の前の章が、蟹の出てくる第十章なのです。
この第九章で、天地海を彷徨つた詩人が、つひにとある森に入り、鵠(くぐひ)といふ名で呼ばれる白く首長く嘴長き美しい鳥に出逢つて、この鳥は詩人に向かつて「汝の清らかなる陥没、汝の縁(へり)へ。」と言ひ、「かく言ひ了りて鵠は艶かしいくよりそひにたり。/われ心惑ひ祈りつゝ之に乗れり」とあるやうに、この鳥に背中に乗つて空を飛び、恋歌と副題のある第十一章に続くのです。
次のやうな白い鳥で、やはり三島由紀夫好みの白い色をした、勿論鳥でありますから天空を飛翔する、美しい鳥であることが判ります。
從ひ、この鵠の背中にあつて飛翔して、女神に至る途上にゐる最中での、詩人の次の心中の独り言の第十章なのです。
「われ尚はげしく心惑ひて私(ひそ)かにいへらく
「われ嘗て『翼』に在りしや?
われ介在に苛まれしが、
そこに我がうべなひはやさしく内面より遍満す。
かゝる日に蝶ら花に群れ来ぬとも
花なんぞ拒むべき。介在の苦悩を知るれば。
超えまた拒む。なべて女人(によにん)の
堕胎の罪に似たりけり。我は避く。
われはおそろし。
われ怯惰(けふだ)なること月かげにおびえて痩する蒼き小蟹の如
し。」」
この章は、重層的な話法の構成をとつてをります。
話者である詩人のわれが語ることを、直接話法であることを示すために「尚はげしく心惑ひて私かに」といふやうに「 」といふ一重鉤括弧の中に示してゐます。
さうして、その中に更に「翼」といふ文字を『翼』といふやうに二重鍵括弧に入れてをります。この二重鍵括弧の意味は、既に『三島由紀夫の十代の詩を読み解く17:イカロス感覚2:記号と意識(7):「『 』」(二重鍵括弧)』で論じたた通りです。(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post_86.html)その箇所を今引用します。
「以下、纏めますと、
1。会話であること。
2。親しい者との会話の中の言葉であること。そして、それは、
3。一種夢のやうな、儚い、一瞬の美に関する夢想であること。
4。それは、さう言葉で呼び、言ひ表す以外にはない、それ以上でも其れ以下でもない命であること。
5。その命の一瞬の美は、「いつまで/見てゐても」、名前の変はることなく不変であるといふこと。
6。人のこころの中で知られてゐる、普段は意識しないが、何かがあればふと当たり前の、自明のことのやうに、人々の共通の記憶として意識に浮かび、思はれる、そのやうな場合の事実の言葉であること
7。やはり何か静かな思ひが歌はれてゐる
8。その主人公が、過去の真実を再度追体験し、同じ筋道を、誰かの追想と追憶の中で、辿るといふこと
このやうな8つの場合に、三島由紀夫は『 』を使ふといふことになります。」
その直接話法の中で、この『翼』は、そのやうな翼なのです。確かに自己との会話であり、最も親しい者でで筈の自己との対話、即ち独白であります。以下の3から8もその通りでありませう。
さてさうだとして、この話者は、「われ嘗て『翼』に在りしや?」とあるやうに、嘗てはこのやうな『翼』にはゐなかつた、それ故の天地海の旅であつた、何故ならば、この詩人の苦しみは介在する苦しみであり、介在者としてある苦しみであるからです。
それ故に「われ介在に苛まれし」とある。しかし、この苦しみに堪えることが「我がうべなひ」(我が肯定)であり、「やさしく内面より遍満す」る肯定だといふのです。この苦しみの肯定は、「内面より遍満」しなければならない。
しかし、さうして、やはり、この鵠の背に今あるやうに、そのやうな苦難の旅にあつても、これまでも詩人は鵠の背に乗つてゐたのだと思ひ出すのです。それ故に、
「かゝる日に蝶ら花に群れ来ぬとも
花なんぞ拒むべき。介在の苦悩を知るれば。」
自分は、蝶々が蜜を求めて幾ら群れきても拒まぬ、そのやうな花であるといふ。何故、それらの群れを拒まないか、それは自分が「介在の苦悩を知るれば」なるが故に、です。この話者は媒介者なのです。
さて、いよいよ蟹の解釈です。
「超えまた拒む。なべて女人(によにん)の
堕胎の罪に似たりけり。我は避く。
われはおそろし。
われ怯惰(けふだ)なること月かげにおびえて痩する蒼き小蟹の如
し。」
ここで三島由紀夫のいつてゐることは、何かを超えて、その寄せ来る群れを拒むことは、「なべて女人(によにん)の/堕胎の罪に似」てゐるといふ事です。
即ち、生命あつて、これから世に出る赤子を、その前に殺してしまふ罪に等しいといふのです。本来女性であればその生命の性のあるがままに産み落とすべき子供を事前に殺してしまふ。その勇気のない我ことを「われ怯惰(けふだ)なること」といひ、その怯惰を「月かげにおびえて痩する蒼き小蟹」だといふのです。詩人は男でありませうが、しかし、それを女性の懐胎に喩えるといふのもまた三島由紀夫らしい「十二支日時計の背理」です。
これに対して、次の第十一章の美しい女神は、「かの人」と呼ばれて、
「かの人はとこしなへ混沌
かの人は絶えず生む者たるべし。
かの人は摘まれずして落つる果実
かの人は触れずしてひらく蕾(つぼみ)
かの人は呼ばれずして在る也。」
と歌はれてをります。
この章を読みますと、このやうな女性は、無媒介であつて、それ故に裸身を晒してゐる。これに対して、男性である詩人は、衣裳を着てゐる媒介者である。前者は、混沌、産む者、熟して摘まれぬ果実、触れられずに開く蕾、呼ばれずして存在する者である。
これに対して、しかれば、後者は、明晰、殺す者(殺人者)、未熟であるにも拘らず摘まれる青い果実、触れられて(蝶々の群れ来て触られて)閉ぢる花、呼ばれなければ存在しない者といふことになります。
詩人といふ媒介者と美しい女性(女神)は、このやうな背理の関係にあつて、決して交はることができない。「汝の縁(へり)」の向かうでは、一緒にゐるにも拘らず、性的にはも交はることができないのです。
この二つの対極の間に「十二支日時計の背理」があり、詩人と美は此の背理に存在してゐるのです。
従ひ、何か群れ寄せる者たちを拒むことは、三島由紀夫の意識にあつては、非常に罪なことなのです。それは、自分は男であるにも拘らず、その罪のありやうは、「なべて女人(によにん)の/堕胎の罪に似」てゐるのです。この、男女の性の交換、生と死の交換、罪と救済の交換を、世間の人々は倒錯と呼ぶのでありませう。
といふことは、「堕胎の罪に似」ずに、そして「なべて」の女人に全く似ずにゐるためには、從ひ、「何か群れ寄せる者たちを拒」まないために、たとへ「怯惰(けふだ)」であらうとも、またそれが「月かげにおびえて痩する蒼き小蟹の如」くであらうとも、自分は媒介者として、即ち詩人といふ言葉といふ媒介を扱ひ生きる媒介者として、しかも自分も言葉もこのやうに媒介なのである以上、從ひ互いに再帰的な関係にあつて、從ひ自分の肉体自身も言葉自体も「白蟻」の「腐食作用」を受けることになつてしまふ者として(『太陽と鉄』)、明晰な者として、殺人者として、未熟であるにも拘らず摘まれる青い果実として、触れられて(蝶々の群れ来て触られて)閉ぢる花として、呼ばれなければ存在しない者として、従ひ蟹として、しかも「未熟であるにも拘らず摘まれる青い果実」である以上、大きな立派な大人の蟹ではなく、「月かげにおびえて痩する蒼き小蟹」として生きる以外にはないのです。
してみれば、一読判り難い「超えまた拒む」の「超え」るといふ言葉の意味は、乗り「超え」るといふことであり、超克するといふ事でありませう。
折角堪えて寄せ来る群れを超克し、自己を超克しても尚「かゝる日に」、即ち折角『翼』に乗つてゐる日であるにも拘らず、「蝶ら花に群れ来ぬとも」、媒介する事が苦しみであるといふ理由で拒めば、それは詩人の使命を放棄した事であり、生まれるべくして生まれるべき作品たる詩を産み出す事はできず、従い産まれる前の命を殺す事になり、それは「なべて女人(によにん)の/堕胎の罪に似たりけり」といふことになるのです。
さうであればこそ、詩人は、絶えず止むことなくどこまでも自己のこの「十二支日時計の背理」にある恐怖を乗り「超え」続け、超克し続けるといふことが、詩人の生きる以外にはない道筋であるのです。
この恐怖は、三島由紀夫といふ人間の一生に通じてゐるのではないでせうか。[註2]
[註2]
『三島由紀夫の十代の詩を読み解く11: イカロス感覚2:記号と意識(1):「………」(点線)』より引用して、三島由紀夫の此の蝟集感覚がある最初の詩を示して、この蟹の感覚をお伝へします(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post.html)。
子蟹は、月の光を浴びて、もそもそと蝟集しながら夜に蠢く生き物なのです。
「「秋(「秋が来た……」)
(一)
秋が来た
秋が来た
おにはの柿はあかい顔
木の葉もまねしてあかい顔
(二)
秋が来た
秋が来た
一人で庭に立つてると
木の葉はさらさらよつてくる
ぼくをめがけてよつてくる
(略)
それ故に、三島由紀夫は『太陽と鉄』の最初の一行に於いて「私はもはや二十歳の抒情詩人ではなく、第一、私はかつて詩人であつたことがなかつた。」と書いてゐるのです。
「第一、私はかつて詩人であつたことがなかつた。」といふこの文のこころは、これから私は詩そのものになつて、自分といふ「あかい」色をした林檎の芯である詩(die Poesie)を、本来不可視である此の「あかい」色をした林檎の本質を、たとへ私の存在を喪失してでも、見ることによつて、詩そのもの(die Poesie)になるのだ、即ち本当の詩人になるのだと言つてゐるのです。[註3]だから、「私はかつて詩人であつたことがなかつた。」と言ふのです。
これが、三島由紀夫の切腹でした。[註4]
そして、これが何故自分の腹を、古式には則らずに、深く刺したのかといふ唯一の理由です。
これほどに、先の戦後の時代は、三島由紀夫の詩の世界を全く否定する時代(時間)であつた。
[註3]
(略)
横尾忠則は、三島由紀夫の死の三日前に電話で三島由紀夫と話しをしてをります。Wikipediaによれば、それ次のやうな会話でした。
「その3日前の11月22日深夜に横尾忠則は三島に電話をしている。当時三島は必ず0時前に帰宅する習慣があり、電話をしたのはやはり午前0時前であった。その日は楯の会のメンバーと5人と、パレスホテルで自衛隊市ヶ谷駐屯地乱入のリハーサルを行っていた日であった。そうとは知らず横尾は「こんな雨の中、遅くまでごくろうさんです」といった。この電話で三島は、横尾が担当した『新輯 薔薇刑』の装幀とイラストについて話した。横尾は十字架の形に枠取りし、そこに裸の三島が身体に薔薇を刺され、ヒンズーの神々によって天上へと高く揚げられている情景を描いていた。裸体の背後には魔人たちが大挙して蝟集し蠢く構図だった。三島はこの絵について「これは俺の涅槃像だろう」と言ったが、横尾は「そんなつもりで描いたのではない」と返答するが三島は「俺の涅槃像だ」といって譲らなかった。
横尾忠則『死の向こうへ』(光文社 2008年)」
7歳の此の秋の詩を読みますと、三島由紀夫が何故横尾忠則に「これは俺の涅槃像だろう」と言つたかがおわかりでせう。魔人たちは、『秋(「秋が来た……」)』で歌はれた木の葉たちのやうに「さらさらよつてくる/ぼくをめがけてよつてくる」のです。この「十字架の形に枠取りし、そこに裸の三島が身体に薔薇を刺され」てゐる絵は、まさしく静謐の庭なのであり、また既に論じた十字架といふ形象と相俟つて、三島由紀夫の「涅槃図」なのです。
また、『私の遍歴時代』の第13章の最後のところに、次のやうな詩と詩人であることについての文章があります。
「「仮面の告白」のやうな、内心の怪物を何とか征服したやうな小説を書いたあとで、二十四歳の私の心には、二つの相反する志向がはつきりと生まれた。一つは、何としてでも、生きなければならなぬ、といふ思ひであり、もう一つは、明確な、理知的な、明るい古典主義への傾斜だつた。
私はやつと詩の実体がわかつてきたやうな気がしてゐた。少年時代にあれほど私をうきうきさせ、そのあとであれほど私を苦しめてきた詩は、実はニセモノの詩で、抒情の悪酔だつたこともわかつてきた。私はかくて、認識こそ詩の実体だと考へるにいたつた。」
「認識こそ詩の実体だと考」へた24歳の三島由紀夫の此の考へは、古典主義の時代を経て、晩年のダーザインの時代、ハイムケール(帰郷)の時代には、更にこれを徹底して、存在することよりも見ることを行ひ、認識によつて自分自身が詩そのものになる、即ち『仮面の告白』について述べてゐるやうに、「もしかすると私は詩そのものなのかもしれない。」といふ漠たる思ひを明らかな確たるものにしたひと思つたといふことになりませう。」
何故、「月かげにおびえ」るかといへば、「十二支日時計の背理」にあつて、そのやうな恐怖の心情を持つてゐれば、月もまた夜にあつて、太陽とは対極に、自己によつて光を発せず、自体発熱発光する太陽の光を浴びて媒介となり、媒介者として地球の夜を照らすものであるからです。
同じ詩の第七章に次の最後の一行があります。
「我が眼荒涼たる月の出にみひらかる。」
確かに、月の出は荒涼たるものでありませう。しかし、その荒涼たる月の出の景色を見るために、「我が眼」が嫌でも「みひらかる。」「みひらかる」とは、自分の意志で見開くのではなく、受け身で眼を開くことになるといふ、そのやうな意味でありませう。
このやうに三島由紀夫の十代の詩を読み解いて来れば、
「庭園の中央には十二支を象つたタイルの日時計と、大理石の彫像があった。ディオニュソスのではなく、アポロのである。(かつて三島は外国人記者に、英語で「これは私が合理的なものを唾棄することの象徴だ(This is my despicable symbol of the rational.)」と説明した。)」
とあるやうに、「十二支日時計の背理」の側に、大理石の彫像があつて、それが、ディオニュソスのではなく、アポロのであることには、十分な理由がありませう。
「十二支日時計」は、ディオニュソスといふ男の神であり、もしこの男神を「かの人」と呼ぶならば、詩人とは、
「かの人はとこしなへ混沌
かの人は絶えず生む者たるべし。
かの人は摘まれずして落つる果実
かの人は触れずしてひらく蕾(つぼみ)
かの人は呼ばれずして在る也。」
と歌はれることのできる、この神は女神であり、他方、アポロンとは、ディオニュソスとの関係では、「十二支日時計の背理」にあつて、
1。明晰なる者(これは表立つてならうとした三島由紀夫の姿です)
2。殺す者(殺人者)(これも表立つてならうとした三島由紀夫の姿です)
3。未熟であるにも拘らず摘まれる青い果実
4。触れられて(蝶々の群れ来て触られて)閉ぢる花
5。呼ばれなければ存在しない者
といふことに、まさしくなりませう。
それでは、この論考の結論はかうなります。
大嫌いな蟹の形象を含んだ「十二支日時計」と其の背理は、蟹を含んでゐるが故に三島由紀夫の大嫌いな混沌であつた。これに対して、アポロン像は明晰であつた。後者は世間に見せようとした自己の像であつた。前者は嫌いであるが故に、隠れた自己であり、本当は自分自身であつた。即ち、そこに存在しないものとして立つてゐるのは、透明な「かの人」であつて、それは「とこしなへに混沌」である。その感覚は三島由紀夫にとつては女性であつたが、しかし形象としては、男性の神としてのディオニュソスであつた。
さうして、「十二支日時計の背理」は、この世間の眼からは性的な倒錯に見えるがままに、眼に見えるアポロン(明晰)と眼に見えないディオニュソス(混沌)の間に置かれてゐる。
さうして、この「十二支日時計の背理」は、背理として不変のままに、諸行無常の時間の外側にあつて、しかし他方、十二支の星座の宇宙の運行の法則に従つて、日時計の1日単位の時間の中にも、その両極の、即ち存在(アポロン)と非存在(ディオニュソス)、眼に見える現実と眼に見えない透明な鏡に映る非現実を両脇に従へて、その不変の背理の隙間、即ち、差異に、さうしてそれが十二支の星座の宇宙の運行の法則に従つてゐれば、時間の差異、時差に超然としてあることになるのです。
さて、このやうに考へて参りますと、この考察の最初の引用、即ち、
「庭園の中央には十二支を象つたタイルの日時計と、大理石の彫像があった。ディオニュソスのではなく、アポロのである。(かつて三島は外国人記者に、英語で「これは私が合理的なものを唾棄することの象徴だ(This is my despicable symbol of the rational.)」と説明した。)」
この一文の解釈も次のやうにありませう。
1。三島由紀夫が、この一行の中のmy despicable symbolを肯定して口にした場合。
2。三島由紀夫が、この一行の中のmy despicable symbolを否定して口にした場合。
1であれば、my despicable symbolによつて、合理的なものを否定してゐることになり、
2であれば、my despicable symbolによつて、合理的なものを肯定してゐることに
なります。
といふことを更に考へて一歩踏み込んだ解釈は、次のやうになりませう。
確かに、三島由紀夫は、大東亜戦争の戦時下にあつて旧制高校生が日々自己の死を前にして独り思弁し他と議論をした哲学の論理、即ちドイツ語でいふentweder-oder(エントヴェーダー・オーダー)、即ちentweder A oder B(英語のeither A or B)といふ問ひの提示する選択肢のうち、Aか Bを選択するのではなく、両極端をそのまま肯定して受け容れて、両極端が時間の中にあつて存在する両極端の隙間、即ち其の時差に謂はば身を隠すやうに置いて、或ひは露はになるように置いて、即ち上の二つの肯定と否定の間(はざま)に我が身を隠顕両様に置いて、生きてゐるのです。
これが、三島由紀夫が現実と非現実(言葉による虚構の世界)の両方を宰領して生きようとしたことの現実です。1970年、45歳の時に『暁の寺』といふ『豊饒の海』の「第三巻の終結部が嵐のように襲って来」て「すなわち、『暁の寺』の完成によって、それまで浮遊していた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し、閉じられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になっ」てしまふまでは。
さて、從ひ、その45歳の其の時までは、上の二つの文を三島由紀夫は、肯定もし否定もして受け容れてゐるのです。
それが、19歳の時に『詩人の旅』といふ詩に介在者として、媒介者として歌つた「われ介在に苛まれしが」といふ自己のあり方なのであり、「そこに我がうべなひはやさしく内面より遍満」しなければならないといふことなのであり、「かゝる日に蝶ら花に群れ来ぬとも/花なんぞ拒むべき」か、否拒むべきではないといふことなのであり、それは何故かといふと、自らの其のやうな介在者としての「介在の苦悩を知るれば」なりといふことなのです。
さうして、それは、天翔る白く美しい鳥の『翼』の上で「やさしく内面より遍満」する「我がうべなひ」でなければならず、我が内面から優しく行ふ肯定でなければならなかつた。天翔る鳥の『翼』の上で、「我がうべなひ」の証として、その高みで、F104ジェット戦闘機に搭乗して、実際に『太陽と鉄』所収最後の、三島由紀夫の人生最後の『イカロス』の詩が生まれた。そして、その詩は人に向かつて発声せられるのではなく、「尚はげしく心惑ひて私(ひそ)かに」、独白の直接話法で、詩人の創造する話者の、また小説の登場人物の独白として、それらの人間たちの「やさしく内面より遍満」する声として発声せられねばならなかつた。
この「十二支日時計の背理」を受け入れずに拒否することは、從ひ「堕胎の罪に似たりけ」ることなのであり、それは生命ある未生のものを殺すといふ罪であるが故に、その罪を「我は避く」る以外にはなく、それを避けねば「われはおそろし」き思ひがし、「われはおそろし」きもの、即ち人非人に、化け物になるといふことなのであり、そのやうな罪に対して感ずる恐怖心を持つ自分の姿は「怯惰(けふだ)なること」なのであり(この「怯惰」といふ語の選択に19歳の三島由紀夫のからうじて此れに堪えようとする感情と苦しみと勇気がある)、三島由紀夫は「月かげにおびえて痩する蒼き小蟹の如」き、この世に既に出生した此の世の時間の単位で数えれば19歳の、この時、若者なのです。
最後に再度、この詩をお読みください。三島由紀夫といふ人間をより深く理解するために。
「われ尚はげしく心惑ひて私(ひそ)かにいへらく
「われ嘗て『翼』に在りしや?
われ介在に苛まれしが、
そこに我がうべなひはやさしく内面より遍満す。
かゝる日に蝶ら花に群れ来ぬとも
花なんぞ拒むべき。介在の苦悩を知るれば。
超えまた拒む。なべて女人(によにん)の
堕胎の罪に似たりけり。我は避く。
われはおそろし。
われ怯惰(けふだ)なること月かげにおびえて痩する蒼き小蟹の如
し。」」
これに対して、安部公房は、成城高校の時代に、親しく哲学談義を交はした友、中埜肇と議論をして至つた終生の自己の論理、即ちentweder-oder(エントヴェーダー・オーダー)といふ三島由紀夫と同じ此の問題に対しては、AもBも否定をして、 AでもなくBでもない第三の客観(小説『榎本武揚』では、この主人公の求めた生き方を第三の道とも呼んでをりますが)に忠実に生きて、第三の客観、即ち自分が存在になつて観る対象を、ちょうど三島由紀夫の論理の陰画の論理として考ヘた其の論理を、即ち両極端を肯定するのではなく、否定をして、しかしやはり両極端に偏し執することを排したといふ意味では誠に同じく三島由紀夫に相似たる、しかし安部公房独自の、第三の道を歩みました。
安部公房の言葉によれば、誠に、あらゆる接点を共有してゐたにも拘らず、思考の方向が全く正反対に裏返しの二人です。[註3]これは、以上の言語論理的な理由によるのです。
三島邸の前庭にある星座12座に、三島由紀夫の大嫌いな蟹の絵があるのか、それなのに何故わざわざ其処に嫌ひな蟹が描かれてゐることがわかってゐるものを置いたのかといふ問ひに対する答へは、誠に深いものがあります。
[註3]
『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)より引用して、あらゆる接点を共有してゐたにも拘らず、思考の方向が全く正反対に裏返しの二人の姿をお伝へします。
「さて、こうして、この1950年代の日本共産党員時代の安部公房の文章を読み、そして同時に、安部公房のこの世での人生の完結した今その人生を俯瞰してみると、安部公房の人生にはふたつの節目があることが判ります。
ひとつ目は、1955年2月25日に『猛獣の心に計算機の手を』を書いて、魯迅の言葉の力を借りて、マルクス主義と日本共産党という閉鎖空間から脱出に成功して、安部公房がバロック的な作家(散文家)に変貌したとき
ふたつ目は、1970年11月25日に、あれほど論理と感情をお互いに理解することのでき、そして安部公房とはあらゆる接点を共有していながら安部公房とはすべての接点で正反対の方向(「彼との接点は、全部うらがえしになっている。」全集第29巻、73ページ下段)を持っていた、そして互いにその差異をも愉快に理解し合い共有していたこころの通った親しき友三島由紀夫が、市ヶ谷で切腹して、衝撃を受けた安部公房が、10代にリルケに学んだ通りに自分自身の固有の、そして無名の死を死ぬために、自分の人生を反省して、10代の詩の世界とリルケの純粋空間への回帰を決心したとき(三島由紀夫も日本の国の中に反乱の起こることを期待して、それが起こらずに幻滅し、絶望した人間です。これは、安部公房と全く同じ接点であり、方向が正反対の二人です。[註24])
[註24]
三島由紀夫の場合には、三島が現実に対して起こることを期待していたのは、左翼の過激派が暴徒化し警察力で抑えられない場合、自衛隊が治安出動することであり、更に、治安出動した自衛隊は憲法9条の改正を撤兵条件にし、国軍の地位を獲得するというシナリオでした。楯の会は警察力が潰えて自衛隊が治安出動するまでの間隙を自らの命を張って埋めるという目的を持って訓練していたと聞きます。そして、暴徒に素手で立ち向かい殺されることを本望としていました。
これが、三島由紀夫の描いたシナリオでした。
安部公房の場合には、安部公房が現実に対して起こることを期待していたのは、1957年に日本に革命が起きるという幻想でした。当時安部公房と親しかった画家、池田龍雄は、次のように回想しています。
「「もうすぐ、革命は近いよ」と、それが起こる可能性の年まで示して囁かれたときには、さすがに眉に唾を付けたものである。しかし、どこかでその気になっていたらしく、「1957年」という数字を読み込んだ暗号めいた文言が、わたしの当時の日記に残されているのは可笑しい。」(『安部公房を語る』所収の「詩的発明家--安部公房」、144ページ。あさひかわ社刊)
安部公房にも、同様にシナリオがありました。それは、専ら言語の側から描かれた革命のシナリオでした。
しかし、わたしが思わずにはいられないことは、このような天才と呼ぶべき、当時も今でも日本を代表する言語藝術家たちが、揃いも揃って、現実を信じすぎて、藝術の世界を踏み出して、現実と生きた人間に裏切られ、その命を喪い、また喪う危機に遭うことを承知で、みづから求めて死地に向かうということです。
このような三島由紀夫を自分の同類、即ち「戯曲以前に」「俳優が言葉による存在(原文傍点)でなければならない」(『前回の最後にかかげておいた応用問題ー周辺飛行19』。全集第24巻、176ページ上段)ということを十分深く理解していた三島由紀夫に対する安部公房の言葉が、やはり『反政治的な、あまりに反政治的な』にありますので、これを引用して、紹介します(全集第25巻、374下段~375ページ)。これは、三島由紀夫の死後6年経って、やっと書くことのできた、安部公房による鎮魂の文章です。
「ふと思う。ぼくらには案外根深い共通項があったのかもしれない。文学的にも思想的にも違っていたし、日常の趣味も違っていた。ぼくがカメラ・マニヤなら、彼は時計マニヤだった。ぼくが大の蟹好きなら、彼は大の蟹嫌いだった。しかし、ある種の存在(もしくは現象)に対する嫌悪感では、完全に一致していたように思う。いつか銀座のバーで飲んでいたとき、とつぜん二人同時に立ち上がってしまったことがある。同時にトイレに駆けこもうとしたのだ。理由に気付いて、大笑いになった。某評論家が入って来たところだった。
ぼくらに共通していたのは、たぶん、文化の自己完結性に対する強い確信だったように思う。文化が文化以外の言葉で語られるのを聞くとき、彼はいつも感情的な拒絶反応を示した。しかもそうした拒絶反応が、しばしば三島擁護の口実に利用されたり、批判や攻撃の理由に使われたりしたのだから、ついには文化以外の場所でも武装せざるを得なくなったのも無理はない。それが有効な武装だったかどうかは、今は問うまい。安易な非政治的文化論の臭気に耐えるほど、鼻づまりの楽観主義者になるには、いささか純粋すぎたのだ。文化的政治論も、政治的文化論も、いずれ似たようなものである。
反政治的な、あまりに反政治的な死であった。その死の上に、時はとどまり、当分過去にはなってくれそうにない。」
安部公房は、演劇論について、三島由紀夫と交わした議論を次のように話しています(『前回の最後にかかげておいた応用問題ー周辺飛行19』。全集第24巻、176ページ上段)。
「俳優が、言葉による存在(原文傍点)でなければならないのは、戯曲以前の問題なのである。と言っても、べつに驚く者はいないだろう。大半の俳優たちが、戯曲がなくても俳優は俳優だと信じ込んでいる。たしかに、言葉によって存在する(原文傍点)という条件さえ問わなければ、彼らもまた俳優にちがいない。この楽天主義が、ぼくを絶望させてしまうのだ。
この問題を考えるたびに、しばしば三島由紀夫とかわした演劇論(というほど改まったものではないが)を思い出す。多くの面で、対立することの方が多かったが、言葉を喪った俳優に対する絶望という点では、いつも奇妙なくらい意見の一致をみたものだ。彼は、俳優の舌足らずを戯曲で補おうとして、ますますその結果に絶望し、ぼくは俳優の言語障害をパロディとして利用しようと試み、やはり絶望した。ぼくらはその絶望を酒の肴にして、大いにたのしみ、そのうち彼は演劇そのものに絶望してしまったようだが、ぼくは生きのびて、演劇のグループ結成という自己矛盾にまで足を突っ込んでしまう結果になった。彼が生きていたら、さぞかしあの高笑いを聞かせてくれたことだろう。」
これは俳優に求めた考えではありますが、しかし「言葉による存在」であること、そして「言葉によって存在する」こと、特に後者は戯曲と舞台の、前者は戯曲と舞台のみならず、そのまま小説についての、この二人の言語藝術家の共有する言葉と存在に関する考えであり、接点でありました。小説とは「言葉による存在」を創造すること、戯曲(drama、劇)と舞台は、役者が舞台の上で「言葉によって存在する」こと、そしてシナリオの執筆は、この二つの小説と戯曲について存在を媒介(函数)にして、この二つの領域を接続することだったのです。このことの、この時期の安部公房にとっての意義については、[註6]の安部公房の座談会での発言と[註17]の安部公房の書棚の写真をご覧ください。
この二つの転機がある、ということになります。」
上述の此の二人の思考論理の相違が、次の対談でよく現はれてゐて、三島由紀夫の読者ならば安部公房を、安部公房の読者ならば三島由紀夫を、深く理解するための縁(よすが)となりませう。
三島由紀夫は、1966年2月1日発行された『文藝』誌上で、次のやうな『二十世紀の文学』といふ誠に興味深い対談を、安部公房としてをります。今、この蟹といふイカロス感覚を書いて来て、かうしてみると、何故、三島由紀夫が対談の冒頭で安部公房に対して直截に真っ向空竹割ともいふべきやうに、「性の問題だね、結局、二十世紀の文学は」と話を切り出す理由が大変よくわかります。[註2]
それは、三島由紀夫は、安部公房と二人で話しをする時には、最初から安部公房と自分は詩人だといふ前提で話をしてゐるのです。それが、この冒頭の三島由紀夫の言葉の示すところです。率直な、胸襟を開いた親しい友人への言葉です。この言葉を聞くと、既にもう何度も会つて詩の話もし、1947年に安部公房が主催した「世紀の会」での最初の読書会で三島由紀夫の『夜の仕度』を含む短編集を批評の対象として取り上げた時に出会つて以来、リルケもヘルダーリンもニーチェもハイデッガーもカントも十分に語り尽して来た間柄なのだといふ事がよく判ります。
それは、三島由紀夫は、安部公房と二人で話しをする時には、最初から安部公房と自分は詩人だといふ前提で話をしてゐるのです。それが、この冒頭の三島由紀夫の言葉の示すところです。率直な、胸襟を開いた親しい友人への言葉です。この言葉を聞くと、既にもう何度も会つて詩の話もし、1947年に安部公房が主催した「世紀の会」での最初の読書会で三島由紀夫の『夜の仕度』を含む短編集を批評の対象として取り上げた時に出会つて以来、リルケもヘルダーリンもニーチェもハイデッガーもカントも十分に語り尽して来た間柄なのだといふ事がよく判ります。
[註2]
『仮面の告白』についての、三島由紀夫の次の言葉があります。
「この本は私が今までそこに住んでゐた死の領域へ遺さうとする遺書だ。この本を書くことは私にとつて裏返しの自殺だ。飛込自殺を映画にとつてフィルムを逆にまはすと、猛烈な速度で谷底から崖の上へ自殺者が飛び上つて生き返る。この本を書くことによつて私が試みたのは、さういふ生の回復術である。
私は無益で精巧な一個の逆説だ。この小説はその生理学的証明である。私は詩人だと自分を考へるが、もしかすると私は詩そのものなのかもしれない。詩そのものは人類の恥部(セックス)に他ならないかもしれないから。
三島由紀夫「『仮面の告白』ノート」(『仮面の告白』月報)(河出書房、1949年)」[https://ja.wikipedia.org/wiki/仮面の告白]」
「安部 きみが剣道をする。(笑)剣道をする前は、剣道の一観客だつたにすぎない。
三島 そうそう、観客だ。
安部 それがある瞬間において、行為者に飛躍するわけだ。きみは有段者だけど、プロとは言えないが……。
三島 まあ、それはいいよ。小説家にしておけよ。
安部 で、小説家になったから、それでいま、小説家の立場で話しているが、しかし依然してきみのなかには、小説家に転化する以前の読者が住んでいる。
三島 それはあるね。
安部 その読者が、きみのなかの対話者になって生きている。生き続けている。だから、よく作家は、つまり自分自身のために書くと言ったり、いや、百万の読者のために書くとか、まあ、いろいろ言うが、これは全部嘘で、やはり自分の中の読者と対話していると思うのだ。この読者というのは、抽象的な全人類だよな。だから、きみがさっき、ベストセラーにならなくてもいいと言ったが、やはり抽象的理念においてはベストセラーとか、なんとかではなくて、全人類が読むべきものだ。
三島 そうだよ。
安部 そうでしょう。その、つまりおのれのなかの読者、というものが、僕は、伝承している主体だと思うのだ。作者ではなくて。だからきみが言っているように、出来上がった結果を受け継いでいるにしても、その受け継いでいる人間はさ、作者三島ではないのだ。きみの対話者なんだな。だからその対話者がきみであって、作家三島由紀夫は他者だよ。他人だよ。きみにとっては。
三島 僕は僕自身の作品を絶対にエンジョイできないもの。
安部 それは自己を分裂させた代償だよ。
三島 ただ、きみの論理の構造というのはね、つまりきみ自身のなかにある読者、それはきみの一部分かも知れない。そういうものが読者という観念の、不特定多数人に象徴されるという考えだろう。
安部 そうだそうだ。
三島 そういう考えには、どうしてもついていけないのだ。
安部 ついていかないと言ったって、きみだって、そうでなければ、書けるわけがないと思うよ。
三島 そうかね。僕は、つまり、不特定多数人が僕に象徴されるという考えはとても好きだ。そういう自信はないけれども、そういう考えをもし持っていたら、幸せだと思う。
安部 でも、今度のきみの芝居を読んで、つくづく思ったな、ああ、これは書かされた芝居だ、書いている芝居ではない。だからいんだよ。つまりね、作品として自立できる作品って、全部そうだよ。
三島 無意識で……。
安部 ベトナムあたりに行って、ガチャガチャ書いたものは、書いた作品だよ、あれは。
三島 きみは、それは集合的無意識ということを言うの?
安部 むずかしいこと言うなよ。そういう学術的用語を抜きにしてだな(笑)
三島 僕は混沌がとてもいやなんだ。つまり、読者とかね。
安部 読者は自己の主体で、作者は客体化された自己なんだよ。
三島 とっても混沌というのは気味が悪いよ。
安部 気味は悪いさ。
三島 もちろんそれがいなければ、本が売れないのだけれども。
安部 いや、そうじゃない。買ってくれないよ、その読者は。(笑)その読者は絶対に買ってく れる読者ではないのだよ。作者三島と対話するだけの、孤独な読者だよ。あんがいそれが本物のきみで、いましゃべっているきみというのは……。
三島 芸術か、一つの。
安部 君はさっき、理屈っぽく、アクションがこうあって、これも取り除いて、選んでと、いかにも意識的に書いているように言うけれども。
三島 そういうふうに書いたんだよ。
安部 信じないね。
三島 書いているところを見せたかったな、それは。(笑)
安部 おれがにらんでいたら、きみ、一行も書けない。(笑)密室でなければ書けないよ、作家は。
三島 もちろん密室だけれどもね、密室のなかの作家はだね……。
安部 密室というのはどういうことかと言うと、対話だからだよ。そうだろう。
三島 それはそうだ。芝居はそうに決まってる。
安部 小説だって同じさ。やはり三島由紀夫というのは、二人いるのだな。
三島 おれは、だけどもう、無意識というのはなるたけ信じないようにしているのだ。
安部 信じなくても、いるのだ。
三島 そうか。無意識のなかに精神分析学者なり、精神病医なりが僕のなかに発見するものは、みんな僕が前から知っていると言いたいわけだな。だから無意識というものは、絶対におれにはないのだ……。
安部 そんなバカな。
三島 絶対にないのだ。
安部 そんなむちゃな。この前の宇宙飛行士のようなことを言う。(笑)おれは宇宙飛行士がしゃくにさわったのだよ。おれが、おまえさん夢見ないかと聞いたのだ。宇宙のなかで寝るわけだよ。どんな夢を見たのかというと、おそらくおれは、地球のなかにいる夢を見たという答えをするだろうと思って言ったのだよ。そうしたら、傲然として、夢なんか見ませんでしたと言うのだな。そんなバカなことがあるわけはないのだよ。ただ夢を忘れただけの話で。だからしゃくにさわったから、言おうかと思ったが、最新のソ連医学ではね、夢は不可欠な休息の要因であって、休睡眠と脳睡眠とあるのだってね。それでね、つまり両方とも睡眠したら死んじゃうと言うのだ。死なないために、つまり体を完全に弛緩させるために、脳だけ起きているのが夢の状態で、それでバランスをとっている。脳を休めるときには、今度は体のほうをいくらか緊張させるというように、バラン
スをとってるわけだ。だから夢がなかったら休めない。両方とも眠っちゃたら死んでしまう。
三島 そうか
安部 それをソ連の医学で発表しているのに、ソ連の宇宙飛行士がおれは夢を見なかったというのは、科学に反するではないか。おそらく党の方針に反するのではないかと思ってね。
三島 除名だ。(笑)
安部 話がこういうふうに飛んじゃっちゃあまずいが、三島くんといえどもだよ……。
三島 駄目だよ。おれは無意識はないよ。
安部 そういう変な冗談を言うなよ。(笑)どうも、結末がつかないな。おれが主導権を取っておれば、結末をつけたけれども取られちゃったから、わからなくなったよ。
三島 まあ、これでいいよ。それで、両方でケンカ別れでおしまい。
安部 そういうことにしよう。絶対に無意識のないものはない、というところで。
三島 どちらを結論にするか、そこが問題だな。(笑)」(傍線筆者)
(安部公房全集第20巻、80ページ~83ページ)
誠に、今のこの21世紀に読んでも楽しい、愉快な対談です。
この二人の書斎がどのやうな密室であつたのか、子供時代の高みの部屋であつたか(奉天の安部公房の子供部屋は二階にあつて、小学生の安部公房は二階の窓からよく出入りをしてをりました)、お納戸であつたか、その窓であつたかを、最後に再度、次の二行をご覧になつて、思ひ出して下されば、ありがたい。
安部公房 [塔(詩人の高み)、(部屋、窓)、反照、自己証認(identity)]
三島由紀夫[塔(詩人の高み)、(部屋(お納戸)、窗(高窓))、鏡、自己証認(identity)]
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