2015年11月3日火曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く28:『剣』論(2)


『剣』論(2)

この作品は、やはり38歳といふ、39歳で始まる三島由紀夫のハイムケール(帰郷)の時代の前年度の作品であり、しかも剣道のことを舞台として書いてゐる作品であることからも、やはりハイムケールの時代の重要な幾つもの主題を宿してをります。

今『剣』論(1)で論じ尽くすことなく遺した主題について、再度この論の一部として、今までの複数の論考の中から該当する箇所を再掲して、鳩、太陽と鉄、それから枇杷について、お伝へゐたします。

1。鳩

「その一」に次の箇所がある。

「次郎の面紐の紫が、あでやかに舞ひ上がる。彼の力が伸びる。躍動と掛け声とが、放鳩のやうに、押しこめられてゐた籠から、突然羽撃いて立つ。」

この地上にある太陽の剣道場にあつて、主人公の剣先は「放鳩のやうに」「突然羽撃いて立つ」とあるのを見ると、既に、この鳩を裏山の詩の高みで殺すといふ結構上の仕立てはできてゐたに違ひない。

しかも、羽搏くといふ文字を使はずに、敢へて「羽く」と撃の文字を使つたことに、鳩が裏山といふ高みの詩の世界で死ぬといふ、三島由紀夫の細心な文字の選択があると思はれる。


2。太陽と鉄

「その二」に次の箇所がある。ここでは、既に43歳の『太陽と鉄』に書かれてゐることが書かれてゐる。確かに三島由紀夫の十代の詩には、太陽が数々歌はれてゐる。三島由紀夫は太陽と夏が大好きであつた。

「少年のころ、一度、太陽と睨めつこをしようとしたことがある。見るか見ぬかの一瞬のうちの変化だが、はじめそれは灼熱した赤い玉だつた。それが渦巻きはじめた。ぴたりと静まつた。するとそれは蒼黒い、平べつたい、冷たい鉄の円盤になつた。彼は太陽の本質を見たと思つた。……しばらくはいたるところに、太陽の白い残影を見た。叢にも。木立のかげにも。目を移す青空のどの一隅にも。」

太陽と鉄といふ組み合わせについては、『三島由紀夫の十代の詩を読み解く9:イカロス感覚1:ダリの十字架(1):三島由紀夫の3つの出発』で既に以下の通り論じたところを再掲しますので、お読みください。(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post_23.html):

「三島由紀夫は、15歳の少年平岡公威として、既に詩として最晩年の『太陽と鉄』を歌つてをります(決定版第37巻、500ページ)。

「太陽の含羞(はぢらひ)

太陽はお納戸と鉄の青だ
  ああ輪廓は静寂そして若さ激しさ


長くみつめると太陽は
  黄色フィルタァを我が目に据ゑる


雲のさなかに黄色い丸
  青空にきいろい丸
  日の含羞(はぢらひ)のしるしでせうか


太陽の色は


お納戸と鉄の青だ

(十五・四・十五)」


この詩で歌はれてゐますのは、F104に搭乗して大空に上昇して行き到達する、其の「小部屋」といふ「お納戸」に存在する「静寂」の空間であり、そしてまた同時に其処に至らしめることを可能にした、後年の三島由紀夫の上述の筋肉からなる肉体が三島由紀夫に授ける「若さ激しさ」でありませう。

さて、この15歳の詩で歌つた「黄色い丸」は、死を間近にした最晩年に於いては、「それは死よりも大きな環、かつて気密室で私がほのかに匂ひをかいだ死よりももつと芳香に充ちた蛇、それこそはかがやく天空の彼方にあつて、われわれを瞰下してゐる統一原理としての蛇だつた」其のやうな黄色い蛇に変じるのです。いや、黄色い蛇が、それであつたといふべきでありませう。三島由紀夫一生の、これは、探究であります。[註4]

[註4]
もつと、この蛇のことを続けますと、次のやうに44歳の三島由紀夫は、15歳の「黄色い丸」を、F104搭乗記の最初の一行で「私には地球を取り巻く巨きな巨きな蛇の環が見えはじめた。すべての対極性を、われとわが尾を噛みつづけることによつて鎮める蛇」と散文で書いてをります。

さうして、次のやうに続けます。傍線筆者。

「すべての相反性に対する嘲笑をひびかせてゐる最終の巨大な蛇。私にはその姿が見えはじめた。
 相反するものはその極致にをいて似通い、お互ひにもつとも遠く隔たつたものは、ますます遠ざかることによつて相近づく。蛇の環はこの秘儀を説いてゐた。肉体と精神、感覚的なものと知的なもの、外側と内側とは、どこかで、この地球からやや離れ、白い雲の蛇の環が地球をめぐつてつながる、それよりもさらに高方にをいてつながるだらう。
 私は肉体の縁(へり)と精神の縁、肉体の辺境と精神の辺境だけに、いつも興味を寄せてきた人間だ。深淵には興味がなかつた。深淵は他人に委せよう。なぜなら深淵は浅薄だからだ。深淵は凡庸だからだ。
 縁の縁、そこには何があるのか。虚無へ向つて垂れた縁飾りがあるだけなのか。」

この散文を書いた三島由紀夫は44歳であり、1970年に亡くなる1年前の文章です。この同じことを、20歳の三島由紀夫は、次のやうに、『もはやイロニイはやめよ』と題した詩で歌つてをります。最後の7行に注目下さい。傍線筆者。

「もはやイロニイはやめよ
 イロニイはうるさい
 巷には罹災者のむれ
 大学は休講つゞき
 大学生はやたらに煙草を吹かす
 湊の霧のなかで数しれぬ帆柱にまたたく
 檣灯のやうに
 来ぬ教授を待ちながら
 大学生は煙草を吹かす
 もはやイロニイはやめよ
 もはやイロニイは要らぬ 
 急げ今こそ汝の形成を
 汝の深部に於いてより
 汝の浅部に於いて
 ああ汝の末端に
 急げ汝の形成を
(決定版第37巻、749~750ページ)

先の戦争の終わつたのが、1945年、昭和20年の8月15日とすると、この詩は、6月と日付があるので、その2ヶ月前に書かれたことになります。

大学の授業に出席しても、授業が成り立たなかつたのでありませう。何か少し捨て鉢な、やけな気分のある詩です。

しかし、いづれにせよ、何があつたにせよ、三島由紀夫はが決心したことは、若いくせに大人の真似をして煙草を吸ふやうな、世間に楯突いて嫌ふやうな態度、即ちイロニイはやめて、何故ならそんなことは、煙草の煙で自分の周りに煙幕を張つて人を遠ざけて「湊の霧のなかで数しれぬ帆柱にまたたく/檣灯のやうに/来ぬ教授を待」つやうなものであるから、さうやつて煙幕をはつて、待てど来ぬやうな知識をあてどなく待つのではなく、もっと現実に触れて、現実を見て、即ち「急げ今こそ汝の形成を/汝の深部に於いてより/汝の浅部に於いて/ああ汝の末端に/急げ汝の形成を」と、20歳の三島由紀夫は決心したのです。

この20歳の決心は、F104搭乗記の冒頭を読む限り、このときまで、全く変はることがなかつたことを意味してゐます。即ち、『三島由紀夫の人生の見取り図』による下記の25年の間、この二十歳(はたち)の決心は、変わることがなかつたのです。この間、三島由紀夫は散文家であつたといふことになります。

2. 2 1946年~1949年:21歳~24歳:詩人から散文家(ザインからゾルレンの言語藝術家)へと変身する時代:4年
この時期に安部公房に初めて会ふ。
(1)1947年:22歳:エッセイ『重症者の凶器』
(2)1948年:23歳:小説『盗賊』
(3)1949年:24歳:小説『仮面の告白』、最初の戯曲『火宅』

3. 1950年~1963年:古典主義の時代(ゾルレンの時代:太陽と鉄の時代):25歳~38歳:14年間

4. 1964年~1970年:晩年の時代(ダーザインの時代:ハイムケール(帰郷)の時代:10代の抒情詩の世界へと回帰する時代):39歳~45歳:7年間


この縁と縁の探究者であるといふ三島由紀夫の考えと実践は、その方向が正反対であつたとはいへ、全く安部公房と共有する接点でありました。何故ならば、これは、安部公房の思考論理でもあるからです。それ故に、後者は「彼との接点は、全部うらがえしになっている。」(「『対談』[対談者]大江健三郎、安部公房」安部公房全集第29巻、73ページ下段)と回想してゐるのです。どのやうに「全部うらがえしになっている」かは、三島由紀夫の十代の詩を論ずる中で、自づと出て参りませう。」



三島由紀夫が太陽といふ言葉を、陽であれ朝陽であれ夕陽であれ、お日さまであれ、使つた詩は、下記の通りです。

(1)『夏の文げい』:『初等科詩篇』:8歳:決定版第37巻、25ページ
(2)『冬休のある日の家の附近の景色』:『初等科詩篇』:9:決定版第37巻、45ページ
(3)『悲しき賤女(はしため)の唄』:『HEKIGA』:12歳:決定版第37巻、115ページ
(4)『翼あるもの』「三 みそさざい」:『HEKIGA』:12歳:決定版第37巻、84ページ
(5)『聖室からの詠唱』:『聖室からの詠唱』:13歳:決定版第37巻、270ページ
(6)『森たち』:『聖室からの詠唱』:13歳:決定版第37巻、277ページ
(7)『誕生日の朝』:『公威詩集 I』:12歳:決定版第37巻、328ページ
(8)『告夏賦』:『公威詩集 I』:14歳:決定版第37巻、340ページ
(9)『牧歌』:『Bad Poems』:14歳:決定版第37巻、371ページ
(10)『見知らぬ部屋での自殺者』:『Bad Poems』:14歳:決定版第37巻、384ページ
(11)『鎔鉱炉(「溶鉱炉」改題)』:『Bad Poems』:14歳:決定版第37巻、396ページ
(12)『霧 六甲にのぼる』:『Bad Poems』:14歳:決定版第37巻、416ページ
(13)『星 (「夜のあひだ……」)』:『公威詩集 II』:15歳:決定版第37巻、461ページ
(14)『太陽の含羞(はぢら日)』:『公威詩集 II』:15歳:決定版第37巻、500ページ
(15)『五月の憂鬱)』:『公威詩集 III』:15歳:決定版第37巻、625ページ
(16)『詩人の旅』第1章(序章):『拾遺詩篇』:19歳:決定版第37巻、731ページ
(17)『理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係』:『拾遺詩篇』:32歳:決定版第37巻、768ページ
(18)『微笑 ジェイムス・メリル(訳詩)』:『拾遺詩篇』:39歳:決定版第37巻、782ページ
(19)『イカロス』:『拾遺詩篇』:42歳:決定版第37巻、789ページ
(20)俳句:炬燵には陽光落ちたり雪の朝:13歳:決定版第37巻、804ページ
(21)『青城俳句聚』:百日紅夕陽散り来る空家哉:14歳:決定版第37巻、804ページ
(22)『青城俳句聚』:秋風や病める子夕陽指して:14歳:決定版第37巻、804ページ
(23)『青城俳句聚』:書庫のすみ埃(ほこり)うづもれ陽の吐息:14歳:決定版第37巻、805ページ
(24)『句』:敗荷(やれはす)に秋の陽粉のごとくなり:15歳:決定版第37巻、807ページ
(25)『句』:敗荷(やれはす)に秋の陽粉のごとくなり:15歳:決定版第37巻、807ページ


三島由紀夫が鉄または鐡といふ言葉、またこれらの文字を含む言葉を使つた詩は、下記の通り。

(1)『明るくなる町』《全篇》:『こだま』:12歳:決定版第37巻、150ページ
(2)『聖(ひじり)なる女 クリスマス記念』:『こだま』:11歳:決定版第37巻、163ページ
(3)『山びと豆(ぬすびとはぎ)《LYRIC》』:『木葉角鴟』:11歳:決定版第37巻、223ページ
(4)『L氏のステッキ “MR.L’S STICK”The modern verse』「機械群像」:『聖室からの詠唱』:13歳:決定版第37巻、274ページ
(5)『L氏のステッキ “MR.L’S STICK”The modern verse』「機械群像」:『聖室からの詠唱』:13歳:決定版第37巻、275ページ
(6)『森たち』「三 戦慄する森」:『聖室からの詠唱』:13歳:決定版第37巻、280ページ
(7)『街のうしろに……』:『聖室からの詠唱』:15歳:決定版第37巻、497ページ
(8)『古園しやうやう』:『公威詩集 II』:15歳:決定版第37巻、499ページ
(9)『太陽の含羞(はぢら日)』:『公威詩集 II』:15歳:決定版第37巻、500ページ
(10)『夏の重病室』:『公威詩集 II』:15歳:決定版第37巻、504ページ
(11)『生まれた家 長いながい昔話』:『無題ノート』:15歳:決定版第37巻、554ページ
(12)『夏の重病室』:『公威詩集 II』:15歳:決定版第37巻、504ページ
(13)『研究』:『無題ノート』:15歳:決定版第37巻、564ページ
(14)『建築存在』:『公威詩集 III』:15歳:決定版第37巻、618ページ
(15)『イカロス』:『拾遺詩篇』:42歳:決定版第37巻、791ページ

[註]
(3)『山びと豆(ぬすびとはぎ)《LYRIC》』と(8)『古園しやうやう』の題名については、かたかなの文字がPC上で再生できなかつた事をご了解下さい。ページ数から原典に当たられたい。


3。枇杷:不可視の林檎論

「その二」に次の箇所がある。

「その枇杷の皮と種子!今死んでゆく人間の食慾!さういふものから次郎はできるだけ遠ざからうとした。彼は既に剣道をはじめてゐた。」

この『剣』の不可視の枇杷論は、それまでの20歳までの抒情詩人としての自分のあり方を反省し、「何となく自分が甘えてきた感覚的才能にも愛想をつかし、感覚からは絶対的に決別しようと決心し」て、自分のこのやうな「論理的欠陥」を克服するために24歳の時に存在と認識の関係を考へて、「認識こそ詩の実体だ考へるにいたつた」考へ(『私の遍歴時代』)から、更に其の考へを展開させて、30歳の三島由紀夫が不可視の林檎論として、そのワットオの絵画論の中で論じたものであり、更に一層に43歳のエッセイ『太陽と鉄』の中では、認識と存在とは背反すると考へて、さう結論づけ、そのまま何故自分が切腹をするのかを詩と美の問題として説き、自分は詩そのものになるのだと言つて、さうして古式に則らずに深く腹部を差し込んだ其の理由を明解に述べてゐる、このやうな三島由紀夫の哲学的思考の連綿たる繋がりの中にある此の引用の言葉は、30歳と43歳の中間にあつて、30歳から8年、38歳から7年といふまさに中間地点で書いた不可視の枇杷論なのです。

何故林檎ではなく、枇杷であるのかといへば、それは枇杷は双葉竜胆と同じやうに楕円形であるといふ以外にはないでありませう。それ故に選んだ、結構上の果実なのです。

さてさうして、

「その枇杷の皮と種子!今死んでゆく人間の食慾!さういふものから次郎はできるだけ遠ざからうとした。彼は既に剣道をはじめてゐた。」

といふ、主人公の言葉を読んでみれば、確かに食慾とは無縁の、即ち何故ならば、三島由紀夫の不可視の林檎論は、その果実の芯が自分であり、その芯を外皮と果実を裂き割つて、芯を外部に曝さうといふ林檎論でありますから、存在よりも認識を優先させるといふ論でありますから、既に此の時、三島由紀夫は切腹を覚悟してゐたといふことになります。三島由紀夫の一行は、命を懸けた一行です。安部公房の一行のやうに。

以上の事をおもへば、32歳の時、肉体を鍛へて文武両道で行かうといふ考へから16歳の詩『理髪師』を改作し改題した『理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係』といふ此の詩の題名の「フットボールの食慾」といふ言葉は誠に意味深長であつて、この詩もまた、やはり、三島由紀夫の詩と剣道の関係を論ずる時には欠かすことのできない詩であることになります。これは稿を新たにして論じます。

上に列挙した詩のうち、太陽といふ言葉が出て来る詩に「(18)『理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係』:『拾遺詩篇』:32歳:決定版第37巻、768ページ」のあることが、その事を物語つてをります。

『理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係』といふ詩については、既に詳細に論じましたので、『三島由紀夫の十代の詩を読み解く25:二人の理髪師』をご覧ください。:http://shibunraku.blogspot.jp/2015/10/blog-post_4.html

さて、話を不可視の林檎論に戻します。

この不可視の林檎論に就ては、既に『三島由紀夫の十代の詩を読み解く9:イカロス感覚1:ダリの十字架(1):三島由紀夫の3つの出発』で論じたので再掲します(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post_23.html):

『ワットオの《シテエルへの船出》』といふエッセイの「第4章の最後に、やはり三島由紀夫は、この画家を詩心ある人間として、従いほとんど自分自身のこととして、次のやうに語つてをります。

「衣裳の下から、重い鬘(かつら)の下から、この画家の手によつて消し去られた情念のあとの空白を、総括する画家の詩心は、そのあらゆる空白に詩を漲らす。それは画中の画、詩のなかの詩ともいふべきもので、ワットオは決して抒情的に詩情を詠つたりしたのではなくて、画家の目を以つて、まさに詩----、光のやうな透明な藝術作品----、を描いたのである。十九世紀末の象徴派詩人がワットオに共感を寄せたのは、理由のあることである。」(引用中「----」は原文は実線)

そうして、更に最後の第5章を次の言葉で始めます。

「(略)重要なのは、彼が詩のやうな画を描いたことではなくて、詩そのものを描いたことにあると云つたはうがいい。
 セザンヌの描いた林檎は、普遍的な林檎になり、林檎のイデエに達する。ところがワットオの描いたロココの風俗は、林檎のやうな確乎たる物象ではなかつた。彼はそのあいまいな対象のなかから、彼の林檎を創り出さなければならぬ。ワットオの林檎は、不可視の林檎だつた。」

やはり、ここでも此言葉を、最晩年の43歳のときのエッセイ『太陽と鉄』にある林檎論と引き比べてみませう。さうすると、Sollen(ゾルレン)の時代の三島由紀夫の林檎とDasein(ダーザイン)の時代の三島由紀がどのやうに違ふかといふことが解ります。Dasein(ダーザイン)の時代の『太陽と鉄』で、三島由紀夫は次のやうに言つてゐます。

「(略)、厳密に言つて、「見ること」と「存在すること」は背反する。
 自意識と存在との間の微妙な背理が私を悩まし始めた。
 (略)
 だが、世には、ひたすら存在の形にかかわる自意識といふものもあるのだ。この種の自意識にとつて、見ることと存在することとの背反は決定的になる。」

この背理を解決する考え方として、三島由紀夫は、「ひたすら存在の形にかかわる自意識」が、「そのやうな紅いつややかな林檎を外側から見る目が、いかにしてそのまま林檎の中へもぐり込んで、その芯となり得るかといふ問題である」と考へ、「林檎の内側は全く見えない筈だ。そこで林檎の中心で、果肉に閉ぢ込められた芯は、蒼白な闇に盲い、身を慄はせて焦燥し、自分がまつとうな林檎であることを何とかわが目で確かめたいと望んでゐる。林檎はたしかに存在してゐる筈であるが、芯にとつては、まだその存在は不十分に思はれ、言葉がそれを保証しないならば、目が保証する他はないと思つてゐる。事実、芯にとつて確実な存在様態とは、存在し、且、見ることなのだ。しかしこの矛盾を解決する方法は一つしかない。外からナイフが深く入れられて、林檎が割かれ、芯が光りの中に、すなはち半分に切られてころがつた林檎の赤い表皮と同等に享ける光りの中に、さらされることなのだ。そのとき、果たして、林檎は一個の林檎として存在しつづけることができるだらうか。すでに切られた林檎の存在は断片に堕し、林檎の芯は、見るために存在を犠牲に供したのである[註2]
 一瞬後に瓦解するあのやうな完璧な存在感が、言葉を以てではなく、筋肉を以てしか保障されないことを私が知つたとき、わたしはもはや林檎の運命を身に負ふてゐた。」(傍線筆者)

[註2]

この三島十代詩論の第1回の「1。安部公房と三島由紀夫の言語能力について」で、わたしの次のやうに書きました。下線部にご注目下さい。

「隠喩は従い、掛け算ですので、時間が存在しないのです。上のような言葉の無限、言葉の数かぎりない列挙、言葉の果てしなさを見て、その本質(関係、差異)を抽象化して、一つの名前で呼ぶこと、これが、全く異なる二つのものを接続する(積算:conjunction)ことの意義(sense)なのです。

さて、その名前を言うことによって、或いは名付けることによって、あなたは対象と自分との距離(差異)を0にすることができると思っているのです。それが、わたしの言い方で言えば、対象の名前を言えば、それは自分の延長(extension)であることを意味するという言葉の意味です。

一次元の時間の中で、即ち日常の生活の中で生きている私たちは、そのように思っているのです。

このこと、即ちこの足し算の世界の論理と感覚を、哲学の世界では外延(extensive)、即ち普通の言葉では延長と言い、掛け算の世界を内包(intensive)と言います。

内包とは、上の説明でお分かりの通り、果物という言葉、上位概念、即ち意義(sense)の発見です。この内包である意義(sense)に対して、足し算の和、外延のことを意味(meaning)と言います。(肯定する世界では、結局、掛け算か足し算しかないのです。)

言い換えれば、内包、即ち積算とは、この日常からの脱出であり、非日常と非現実の創造なのです。

わたしたちは、りんごを食している一瞬一瞬にはりんごを食べていると思っているのであって、果物を食べていると感じているのではないということです。

もしりんごを食べながら、これは果物であって、わたしが一瞬一瞬食しているのはりんごではない、果物(という何ものか)を食べているのであり、食べながら既にして食べ終わっているのだと思う少年がいたとしたら、それが三島由紀夫であり、また同時に安部公房という少年なのです。



ここに書かれてゐること、即ち見ることと見られることの関係の統合または融合は、『文化防衛論』の「国民文化の三特質」といふ章で書かれてゐる文化の「連続性と再帰性」の問題として、さうして『日本文学小史』で最後に歌物語としての、従い詩文としての源氏物語を引き合いに此の章でも主題として語り、この文脈で「文化の再帰性とは、文化がただ「見られる」ものではなく「見る」者として見返してくる、といふ認識に他ならない。」と主張する三島由紀夫の考え其のものなのです。

この林檎の譬喩(ひゆ)は譬喩以上の詩であり、詩そのものになつゐて、この見る者と見られる者と更にまた後者が見返す者といふ此の認識と人間の在り方は、何故三島由紀夫が市ヶ谷で切腹の古式に敢へて則らずに、深く腹部を刺し貫いたのかといふ疑問に対する、三島由紀夫自身による明らかな説明になつてをります。

安部公房ならば、思考論理と生理感覚の問題として、さうして人間にとつての真理の問題として、存在の外部と内部、現存在(ダーザイン)の外部と内部を交換する、ひっくり返すこととして行ひ、事物を変形させたところを、三島由紀夫は自己の肉体の外部と内部を交換して、その双方を一致させ、安部公房の言葉に拠れば、次のことを三島由紀夫は図つたといふことになります。この安部公房の言葉は既に1966年のこのとき、三島由紀夫の死を予見し予言した言葉となつてをります。それは映画『憂国』の映画評です。

「(略)作者が主役を演じているというようなことではなく、あの作品全体が、まさに作者自身の分身なのだ。自己の作品化をするのが、私小説作家だとすれば、三島由紀夫は逆にこの作品に、自己を転位させようとしたのかもしれない。
 むろんそんなことは不可能だ。作者と作品とは、もともとポジとネガの関係にあり、両方を完全に一致させてしまえば、相互に打ち消しあって、無がのこるだけである。そんなことを三島由紀夫が知らないわけがない。知っていながらあえてその不可能に挑戦したのだろう。なんという傲慢な、そして逆説的な挑戦であることか。ぼくに、羨望に近い共感を感じさせたのも、おそらくその不敵な野望のせいだったに違いない。
 いずれにしても、単なる作品評などでは片付けてしまえない、大きな問題をはらんでいる。作家の姿勢として、ともかくぼくは脱帽を惜しまない。」(『映画「憂国」のはらむ問題』安部公房全集第20巻、176ページ)

安部公房の世界の言葉で言へば、三島由紀夫は存在に、存在自体にならうとしたのです。現存在(ダーザイン)にゐるままで。

さて、かうして、「不可視の林檎」である詩そのものとして存在する透明なる林檎を、自己の筋肉と其れによつて構成された肉体の問題として、(それは同時に美の問題でもありませうが、)白木の柱である肉体を白蟻として硝酸のやうに腐食作用を働かせる其のやうな言葉と一線を画するために、さうして其の言葉の「羽虫の群れのやうに襲いかかつて」来て「私の個性をとらえ、私を個別性の中へ閉ぢ込めようと」する言葉の其の腐食作用(『太陽と鉄』)に侵されない肉体そのものとしてあらしめるために、またそのやうな「言葉の機能に関するわたしの病的な盲信」を「取り除」くために、肉体を鍛えた三島由紀夫は、最晩年のダーザインの時代には、上のワットオの絵画にある此方(こちら)の岸辺からシテエル島へと旅立つたのです。

『太陽と鉄』には、『エピロオグ---F104』といふ最後に配置されたエッセイに、詩人としての此の出発の感覚と感動が、F104ジェット戦闘機の搭乗記録の言葉として、すべての点検が座席にあつて終わつた後にF104が大空を急上昇してゆく其のときに、次のやうに書かれてあります。

「わたしは幸福に充たされる。日常的なもの、地上的なものに、この瞬間から完全に訣別し、何らそれらに煩わされぬ世界へ出発するといふこの喜びは、市民生活を運搬するにすぎない旅客機の出発時とは比較にならぬ。
 なんと強く私はこれを求め、何と熱烈にこの瞬間を待つてゐたことだらう。私のうしろには既知だけがあり、私の前には未知だけがある。ごく薄い剃刀の刃のやうなこの瞬間。(略)
 私は久しく出発といふ言葉を忘れてゐた。致命的な呪文を魔術師がわざと忘れるやうと努めるやうに、忘れてゐたのだ。」(傍線筆者)

この時、三島由紀夫は、間違いなくシテエル島に旅立つたのです。三島由紀夫が詩人であるためには、高みを必要としたことは、この連載の第1回で詳細に論じた通りです。」

林檎といふ名前と形象は、十代の詩に歌はれてをり、今その詩の名前を列挙すれば次の通りです。

(1)『聖室からの詠唱』:『聖室からの詠唱』:13歳:決定版第37巻、271ページ
(2)『こぶし』:『公威詩集 II』:15歳:決定版第37巻、270ページ
(3)『こぶし』:『公威詩集 II』:15歳:決定版第37巻、270ページ

これらの林檎を論ずることは、そのまま三島由紀夫と剣道の関係を精細に論ずる手立てとなりませう。

十代の詩には、枇杷は出て参りません。従ひ、枇杷は双葉竜胆と同じように楕円形であるが故の語彙の選択であるといふ上述の推論は正しいものと思はれます。

どこまでも、非現実の虚構の結構のために、言葉の布置を、読者に知られることなく行ふ、物語の語り手で、三島由紀夫はありませう。






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