2015年11月17日火曜日

言語とは何か


言語とは何か                

という問いを、まだ子供のときに問うたことがある。それ以来、生活の中で折に触れ、繰り返し言語について考えたことは、わたしの地下に、細々とした水脈となっているので、そこから幾許かの言葉を汲み出して、この一稿としたい。

縁有って、首都大学東京瀬尾育男教授の詩の授業で、ヤコブソンの講演の記録とソシュールについて教わることがあったので、そのテキストを材料にして、掲題に答えようと思う。

ひとは、常識だと思っていることは、口にしない。ましてや、文字に表すこともない。ヤコブソンの講演録「言語学の主題としての失語症」にも同じむつかしさがある。時は、1953年。第二次世界大戦が終わり、戦後の混乱が世界的にも一息つき始めた頃、この時、講演者と聴衆との間で共有していた、言語に関する知識は表立って文字で表されているわけ ではない。しかし、講義録の文意と行間を読んで、その核心を集合論のベン図で表すと、次のようなものになる。この場合、ひとつの円は、ひとつの概念を表す。




ヤコブソンが聴衆と共有している言語宇宙は、このような宇宙である。これは、概念による宇宙であるならば、どの宇宙であれ、この図によって表される、そのような宇宙を示している。この概念同士の理解に齟齬や支障を来しているのが、失語症の患者であって、これは譬喩(tropes)の一次分類の能力、即ち隠喩(metaphor)と換喩(metonymy)に関する能力の欠損として現れる。勿論ヤコブソンが言いたいことは、概念の理解力の欠損と譬喩の理解力との関係である。ヤコブソンは、AとBの関係を、共通集合Cを共有するがゆえに、内的関係とよび、相似性(similarity)と対比(contrast)がある関係だと言っている。これに対して、AとDの関係を、隣接しているがゆえに、隣接性(contifuity)と遠隔性(remoteness)を有する、概念同士の外的関係といっている。私見によれば、更にEを加えて考えるべきだと思う。これは、その宇宙内のどのような概念とも隔絶して、その宇宙では他の概念と共通集合を持たぬ概念であり、それが故に、別のもうひとつの宇宙に置かれた場合には、(AやBがこの宇宙ではそうであるように、)別の概念と共通集合を有する概念となって、新たな宇宙を創造する概念である。いづれにせよ、ヤコブソンは、EをDに含めて、Dで代表させていると考えてもよい。

さて、失語症の現象は、相似性か隣接性のいづれかに障害をきたすものとして現れる。つまり、(A、B)の隠喩か、(A、D)の換喩に関する能力に支障をきたす症状として現れる。

ヤコブソンは、失語症を言語とは何かという問いに答えるための陰画として論じているので、わたしたちは、これを陽画として、譬喩の能力の問題として考えてみることにしよう。つまり、概念の相似性とは、AはBであるという命題を構成することのできる能力であり、譬喩としては、隠喩、即ち姫は白雪だという譬喩をいうことのできる能力をいう。これに対して、概念の隣接性とは、DとはAのことだという能力であり、換喩、即ち駅でその男性を赤帽といい、童話の中でその少女を赤頭巾ちゃんという能力のことをいう。

ヤコブソンは、正常な言語行動は、譬喩のふたつの両極を行き来するものだと言っている。私達の、詩を書く能力についても同様ではないだろうか。もっと正確に言えば、詩人はCとEの言葉を求めて、これらの間を行き来する。

ベン図をみてお判りの通り、隠喩は、Cに焦点を当てて数学的にみれば、算術演算でいえば掛け算、論理演算でいう論理積の世界、換喩は、足し算、論理和の一種ということになる。前者は、AとBというふたつの概念を使って新しいコンテクスト、新しい宇宙Cを創造するが、これに対して後者は、あるコンテクストの中を充填するか、そのコンテクストの内部を細緻にしてゆくだけである。ゆくだけと書いたが、あるいは換喩にも、もっと力があるのかも知れない。しかし、明瞭に、人がその力に頼るのは、この図から言っても、隠喩と、それを成り立たせている、言語の論理の力だと思われる。主語と述語と言う形式を用い、論理積によってある概念を発見して一行を書く。これは、論理的に無時間の文となる。それは、高さだけの文を産み出す。わたしはこれを垂直の旅と呼びたい。吉田一穂という詩人は、同じ営為をポラリゼーションと呼んでいる。

さて。ヤコブソンが言ったことを、ソシュールはどのように説明しているかを見て見よう。材料は、「ソシュール講義録注解」(1908年)。1906年の講義。

ソシュールの言語観をひとことでいえば、言語とはfunction、機能であり、関数であるというものだ。これを言語機能論と呼ぶ事にしよう。ここにふたつのものがあって、ひとつのものが、もうひとつのものを幾つかの規則の複合的な適用によって(人称、数、態、話法、時称)、支配し、特に時間を支配することで従属的な関係におくことを、機能化するという。明治時代の文法家は、文法用語として、これを組織(化)と概念化し、そのように訳したようである。機能化とは、このように関係の主従、支配・被支配を決定することなので、関係の機能化とは贅語である。このことは、二つの文の間でも成り立つし、語のレベルでも、語の構成要素の間でも成り立つ。勿論階層を上げて、節と節、章と章、作品と作品のレベルでも成り立つ。即ち、機能とは、構造を前提にして成り立つ。機能化とは、そのように構造化するということと同義である。従い、ソシュールは、言語を時間と無関係に論じる。勿論、それは容易なことではない。何故なら、ひとつの言葉、ひとつの概念には、時間が含まれているから。即ち、その言葉の歴史が。ソシュールが言語を共時的にのみ論ずるわけにはいかないのは、そのせいである。

ソシュールは、言語の体系をなによりもまづ価値の体系だと考えている。価値は不可算名詞なので、単位化して、その価値をはかり、何かの性質または同一性(これらは普通、意味といわれるものだ)として表現するしかない。コップ一杯の水、といったように。この機微を、ソシュールは、チェス・ゲームとその駒に喩えている。駒の種類は、何かの性質または同一性として表現されている機能単位である。あるいは、機能といえば、既に単位化を前提にしているということだ。わたしならば、概念化というだろう。

ソシュールは、言語学を全くそれまでとは独自に打ち立てたいと思い、他の隣接諸学とも別っしてあるべきだと強く考えているので,哲学、論理学、文法学といった学の持つ用語を決して使おうとはしない。そうはしないで、言語を価値の体系として論じ、用心深く伝統的な隣接学問の用語の使用を回避する。ソシュールは、この思考プロセスの一部として、ついでに、記号学を産み落とす。さて、価値の体系としての言語の体系においては、価値というものは、前述の集合論の図でいくと、(A、B)の関係か、(A、D)の関係で論する以外にはない。これをソシュールは、価値の関係は互いに依存的であり、その関係とは差異だといっている。ソシュールは、Cの積算を意義(sense)、(A,B)の和算を意味(meaning)と正しく使い分けている。これらの差異の関係は、これら語のレベルに降りて来ても、既に述べたように、機能的である。ソシュールは、この機能単位を創り出すのは意義Cであるとはっきり言っている。哲学や論理学ならば、前者は内包(intensive)、後者は外延(extensive)、あるいは、類概念と種概念ということだろう。これらは、同じものの別の名称である。ソシュールならば、同じ価値の、と言うだろう。価値はどこにも還元することができないものとして、ある。また、価値の体系というとき、ソシュールは、社会的集団の存在を前提にしていて、そうは文字で書いてはいないが、このような言語の在り方の類比として、社会を機能の集合だと考えていると思われる。そうして、個人や社会の表に現われている意志から「滑り落ちる」もの、即ち人間の無意識の領域、眠っていても脳中にあるものが、言語の全体だといっている。これが、ソシュールの言語学の対象である。

さて、機能単位の問題を論じて来て、ソシュールは、「言語的実在の問題」を論ずる。この場合の「実在」は、英語でいうentityに相当するフランス語であると推測する。

ソシュールは、実在を認識するとは決して言わない。認識という哲学用語を避けているのだ。それでも、しかし、それでも、これは認識の問題であり、概念化の問題である。Entityという実在は、そのまま機能的な単位である。その実在がひとつの概念であっても、その概念は機能的な単位である。これが、ヤコブソンの集合論の図による言語論と、ソシュールの言語論の接点であり、双方のrepresentation(対応関係)の基本である。

そうして、ひとつの実在を認識するとき、ひとは既にもうひとつの実在を認識していて、双方を比較し、差異を認め、従って、それぞれを互いに単位化して、機能化する。これをソシュールは、繰り返し、人は紙きれの表を切るときには、裏も同時に切らざるを得ず、表だけを切ることはできないという喩えで説明している。

結局、ヤコブソンとソシュールの言っていることをまとめようとすると、わたしは何がいいたいのだろうか。

言語(組織)とは、機能、即ち何々するということ、何々であるということの集合であって、それは、人間が、人間と社会の地下に眠る無意識に関し、認識によって発見する実在(entity)を組み合わせ、概念化(機能単位化)することによって、ある価値の体系(システム)を創造することをいう。

ということになろうか。

何だか随分と単純で、却って難しいことを書いたような気がする。

勿論、その宇宙を何次元に設計して創造するかは、そのひとの自由である。言語的な自由とは、このことだと思う。現実的な社会は、いつも個人に一つの定義を一次元のものとして強制するにせよ。

そうして、詩的言語を問題にするときには、ヤコブソンの譬喩に関する理解に戻ることが、よいことだと思う。


December 1, 2007

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