再帰的人間像と三島由紀夫
目次
1。再帰的な人間とは何か
2。『Vision Prosa-Skizze』「幻想 散文による素描または散文自体を素描したもの」の素描
3。『Vision Prosa-Skizze』(『幻想 散文による素描または散文自体を素描したもの』)
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ここに、私が再帰的な人間と呼ぶ人間の一人であるドイツの文豪トーマス・マンの18歳の作品『Vision Prosa-Skizze』(英語ならば『Vision Prose-Sketch』)について、この作品が何なのか、何を語つてゐるのかを簡潔に述べることにします。
第2章で述べる此のマンの小品、どころか極小品といふべき作品についての解説は、このまま、同じ再帰的な人間である三島由紀夫にそのまま通じてゐます。
まづ、再帰的な人間とは何かについて、既に安部公房の世界で、『安部公房の変形能力17:まとめ ~安部公房の人生の見取り図と再帰的人間像~』(もぐら通信第17号)と題して論じてをりますので、これより引用して、三島由紀夫の読者のあなたに、お伝へ致します。
以下は、安部公房に拠つて再帰的な人間像をお話ししたものですが、しかし、これが像である以上、そのまま三島由紀夫にも通用してゐることに、三島由紀夫の読者は、読みながら気づくのではないでせうか。
安部公房といふ名前を三島由紀夫に置き換へて、またその他の言葉を、安部公房の世界の言葉ではなく、三島由紀夫の世界の言葉に置き換へて読み直してみると、三島由紀夫が一体どういふ人間であるのか、即ち再帰的な人間がどういふ人間であるのかが、よくお解りになる筈です。
二人はこの普遍的な人間像を介して、安部公房の言葉を借りれば、あらゆる接点を共有し、さうしてそれが全てが反対に裏返つてゐるのです。
三島由紀夫と安部公房は、それほどにお互ひ相補的な(complementary)な関係にあるのです。合わせ鏡の世界に棲む住人として。
1。再帰的な人間とは何か
「III 再帰的人間像
安部公房は、再帰的な人間です。A recursive man。
再帰的な人間とは、どのような人間かをお話します。
しかし、言語、言葉で説明をする前に、一体再帰的人間とはどのような姿をしているのか、それをGoogleの画像検索で見てもらった方がいいのではないかと思いましたので、その画像、いや、図像をお目にかけてから、説明に入ります。Recursive manで検索をしました。(日本語で再帰的な人間と検索しても、ほとんど何もヒットしません。これは、一般的に言って、この用語と概念に関する意識が、日本人には極めて薄いことを証明しているのではないかと思います。)
これらの図像に共通していることは、自己が自己から分岐して行くこと、そうして再び自己に回帰して行く事、即ち、合わせ鏡の世界であるということ、即ち自分の部分が自分の全体をいつも含んでいるということです。
再帰的な人間は、合わせ鏡の世界、合わせ鏡のネスト構造(入籠構造)の世界に棲んでいるのです。ロシアの人形のマトリョーシカを思い出して下さい。
従い、この人間は、他者を参照し、引用をすることをしません。いつも自己を参照し、言葉もまた自己のテキストから引用を繰返すのです。普通の人間は、自分以外の人間の真似をして生きておりますが、再帰的な人間は、他人の真似を一切しません。つまり、自分自身を真似るのです。その限りにおいて、普通の人間から見れば、この人間は、孤独であるということになり、奇妙な人間だということになるでしょう。
また、合わせ鏡ということから、この人間は、物事の対称性ということを大切に致します。
わたしの人生において、わたしは、何人かの再帰的な人間を知っております。わたしの知っている再帰的な人間の名前を挙げるとすると、次のような人間たちがおります。
アイヒェンドルフ、ショーペンハウアー、トーマス•マン、ジャック・デリダ。それから、最後に小さな文字で書けば、今ここでこのようにこのような文字を書いているこの私自身(私自身という言葉が既に再帰的です)も、その人間の一人です。
確かに、上の図像の人間達は、父親や母親に似ているのではなく、人が似るようなその人の好きなひとに似ているのではなく、異様であり、異形であり、普通ではありません。それはいつも自分自身に回帰して、自己を参照するからです。言語の視点で言えば、再帰的な人間とは、自己の内部以外からは、一切言葉を引用しない人間なのです。
ショーペンハウアーというドイツの哲学者は、その主著『意志と表象としての世界』では、ひとつの原理、即ち世界は意志であるという原理から、宇宙にある森羅万象を説明しました。その宇宙は、宇宙の根底にある意志が、自分自身を観る為に、その意志の最高の段階の生物として人間を生み、人間が宇宙を観じるとは、意志が自分自身を観じることであるという、そのような合わせ鏡の宇宙なのです。意志を純粋に認識するそのよな主体(subject)を、ショーペンハウアーは、鏡と呼んでいます。そうして、ひとつの原理に絶えず戻り、その原理を何度も何度も反復しながら、森羅万象を説明します。これは、実に面白い本です。哲学は、人類最高の娯楽であると、わたしは思います。
ジャック・デリダというフランスの哲学者は、その英文のテキストを読むとよく解りますが、文字として、用語として、文がいつも再帰的です。再帰的とは、いつも同じ発想、同じ言葉が繰返されて語られるということを意味しています。同じことを語りながら段々と話が遷移し、言葉の概念に対する理解と認識が深まって行くのです。(安部公房の小説の世界によく似ています。)上の図像の持つ意味のひとつが、繰り返しです。ジャック・デリダのテキストも実に面白いテキストです。哲学は、人類最高の娯楽であると、ここでも、わたしは思います。
トーマス•マンの小説も、同じ文、同じ章句が繰り返し、その小説中で繰返され、話の筋の中、時間の中で、その変わらぬ言葉が繰返されて行く度に、その意味が変容し、全く別の意味を持つように、その小説が作られて、その変容に読者は胸を打たれるのです。そればかりか、後年に書かれた小説は、前に書かれたの小説の一句、一文を、小説を跨いで引用するのです。また、トーマス•マンは、その20代に、自分自身のグロテスクな、奇怪な戯画として、そのような自分自身の姿を傴僂(せむし)の、成長の止まった小男として描き(安部公房ならば実存といったことでしょう)、『小男フリーデマン氏』という傑作を書いております。
安部公房自身よる、作品を跨いでの同じ語句の引用の例を挙げましょう。これは、意識的な引用というよりも、無意識の引用だと思いますけれど。いつも同じ語彙、同じ形象(イメージ)で以て、その世界を構成するということです。
『燃えつきた地図』:
「車の流れに、妙なよどみがあり、見ると轢きつぶされて紙のように薄くなった猫の死骸を、大型トラックまでがよけて通ろうとしているのだ。」(全集第21巻、311ページ)
『密会』:
「女秘書は腹立たしげに、地面から拾った小枝の先でその布(筆者註:布団になった溶骨症の少女の母親)のかたまりを引きずり出すと、力まかせに振りまわした。車に轢きつぶされた緋色の猫の死骸のように見えた。」(全集痔26巻、123ページ)
また、『箱男』の最後の救急車のサイレンと、『密会』の最初の救急車のサイレンを挙げてもよいと思います。他にもこの種のことはあちこちに散見されることと思います。
さて、アイヒェンドルフの詩もいつも同じものが歌われています。森、狩り、狩人、狩りの笛の音、城、河、天(大空)、雲雀、春等々、いつも詩の要素は変わりません。この芸術家の書く小説も実はそうなのですし、その詩の中には実にシュールレアリスティックな詩が何篇もあります。その詩を18世紀から19世紀にかけて、この時期に書いたということは、わたしは素晴らしいと思っております。時間という一次元の中に芸術を編成する文学史の愚かさをこそ、ひとびとは知るべきであると思います。この詩人も、時間を空間化した芸術家のひとりです。こういう芸術家に、時間を適用して、時間の一次元の流れに従えというあなたの命令は、通用しないのです。何しろ、その世界には時間が存在しないのですから。
これらの特徴を一言で言えば、再帰的人間は、mannerismの人間だといってもいいのです。水戸黄門や遠山の金さんというお話のような、いつも同じひと、同じ設定、同じ話の筋が語られる、マンネリズムです。
安部公房もマンネリズム、或いはマニエリスムの作家なのです。安部公房は前衛的な、アヴァンギャルドの作家だったのではないでしょうか。しかし、安部公房が再帰的人間である限りにおいて、わたしは、その通りだと、そう思います。そうしてみれば、確かに、安部公房の話は、いつも同じではないでしょうか。このように言う事は、安部公房の諸作品の冒瀆でしょうか。
ショーペンハウアーは、再帰的人間として、何かに成るということは実に恐ろしい事だと正直に、その主著の中で、言っております。つまり、自分自身を参照する人間が、他人の真似をしないということの意味が、ここにあります。普通は、自分以外の人間の真似をし、他の物に容易になったりすること(典型的には役者のように)、それが普通であり、平然と行われ、罪の意識もないというのに対して、この人間は、自分が誰かに似ていたり、誰かになったり、何か自分と別のものになること、誰かの、何かの役割(機能)を演じることには、恐怖と罪の意識を覚える人間だと言い換えてもいいでしょう。他者への通路を見つけることが実に難しいと、普通の人以上に感じ、考える人間なのです。そういう人間である筈の安部公房が、演劇の世界を切り拓いたというそのこころの根底には、時間の空間化があり、即ち時間の変化に対する恐怖があるのであり、時間の中で演ずる人間同士の役割を受け容れることに対する恐怖心があるのです。この理由によって、安部公房の演劇は、再帰的な人間ではない人間の書く演劇とは、全く異質なのです。
こうして、段々と安部公房に近づいて来たでしょうか。もう少し、安部公房のマンネリズムについて語ります。いつも安部公房の小説で同じ要素を挙げることにします。
(1)主人公は旅をする。空間から空間へ。壁からカンガルー・ノートまで。主人公は旅人であるので、その空間にあっては異邦人である。主人公の意識は、どんな細部にあっても旅をしている。儀式化された形式から抜け出して、その意識が連続している。これがこのまま、安部公房の小説の細部の描写につながる。これが安部文学の魅力の源泉。こう書いてくると、細部が安部公房の作品の多様性を保証しているということがわかります。
(2)細部を描きながら、登場人物の関係の変化を描いてゆく。時間は経過しない。登場人物の関係が変化するだけです。これが、安部公房の言う時間の空間化ということです。
(3)登場人物達が、お互いに役割(機能)を交換することができる。
(4)役割の交換、即ち変装、変身ということから、いつもどこかで、カーニバル、祭典、祭りが意識されて、この意識が作品の底流に流れている。
(5)そして、この祭典の意識は、いつもこれを裏側から眺める、陰画の祭典である。
(6)従い、主人公はいつも、アンチヒーロであり、話のクライマックスは、いつもアンチ•クライマックスである。
(7)主人公は、いつも帰って来る。最初の場所に帰って来る。これは安部公房の位相幾何学の思考と感覚としても、そうである。
(8)主人公は、いつも自己の投影、反照を向こう側に、相手側に見る。これは、「もぐら感覚18:部屋」で論じた通り、反照として窓(鏡)の向こうに自己の投影を見るということです。そう意味では、安部公房には、最初から、又は最初には、他者はいないのです。いつも自己と、鏡に映っている自己の姿です。その仮象、夢、しかし実在の夢、非現実の現実の自分自身を自己と思う以外にはありません。
(9)その他のいつも同じ諸要素には、思いつくままに挙げると、以下のものがあるでしょう。
夜又は闇
無名の主人公
緑の色
笛、口笛、草笛
夜
方舟
ほうき隊の老人
便所や便器
成熟した女
その脚と、特に膝小僧
偏奇な少女
贋の父親、贋の魚、その他の贋の人物と物事
切符
部屋
窓
反照
自己承認の問題
閉鎖空間
閉鎖空間からの脱出というプロット
外部と内部の交換(次元転換)
まだまだ、あることでしょう。
(10)安部公房の作品は、水戸黄門や遠山の金さんのお話と同じです。これ
らの主人公は、通俗的なわたしたちの心理が求めるところに従って、最後には正義が勝ち、悪を懲らしめるわけですが、しかし、普段は別人に変装し、世に隠れて生きているところが全く同じです。安部公房の登場人物たちは、同様にみな同じ面の上に(水戸黄門や遠山の金さんならば世間という庶民の平面の世界の中で)同じ価値を持たされて並んでいて、安部公房の世界の登場人物たちは、インターネット時代の用語を使えば、みなsuperflatな世界に住んでいます。(これが普通の社会人の垂直構造になれている感覚からみると、その作品がシュールレアリスティックに見える理由です。)その世界には絶対的な正義はないので、お裁きがないのです。従い、その代わり、告発者が被告になったり、被告が告発者になったり、登場人物たちは、お互いの役割を交換し、そうすることによって、互いの関係を変化させることができます。医者が患者になったり、患者が医者になったり。船長が船員になったり、船員が船長になったり。
このような役割の交換を、人類学の用語で、communitasと呼びます。これは、人類学者の観察によれば、社会が流動化して、大きな変化を経験しているときに生まれる儀礼である(これも儀礼になりえる)と説明されています。Hatena Keywordから引用します(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%E0%A5%CB%A5%BF%A5%B9):
「【communitas】スコットランドの文化人類学者ターナー(Victor Turner, 1920-83)が提唱した概念。
通過儀礼(イニシエーション)の中での人間関係のあり方を意味する。
身分、地位、財産、男女の性別や階級組織の次元など、構造ないし社会構造の次元を超えた、あるいは棄てた反構造の次元における自由で平等な実存的人間の相互関係の在り方と定義されている。」
文化人類学者のこの観察が正しければ、安部公房の意識は、いつも変化の中に自分自身をおいていたということになるでしょうし、その限りにおいて、安部公房は終生前衛の、アヴァンギャルドの作家だったことになり、他方、その世界の一定した諸要素の機能化によって、その世界は構造を以って安定しており(或いは逆に、構造があるので、諸要素の機能化が成り立つというべきでしょう)、偉大なるマンネリズムの作家ということができるでしょう。この二つは、安部公房の中では、少しも矛盾しておりません。
(11)さて、このcommunitasということからも、従い、安部公房の主人公た
ちはみな、普通に固定した社会だと思っている社会の法律の外に生きている人間たちであるということになります。それは、安部公房の実存の考え、即ちその人間の未分化の状態という考えからいっても当然のことでしょう。法律の外に棲んでいるということ、このことが読者に安心感を与え、読者を魅了するとは、なんということでしょうか、読者というものは。
さて、図像ではなく、言語の世界に戻って、言葉で再帰的な人間を定義してみましょう。
Webster Onlineによれば、
Definition of RECURSIVE
そして、Oxford Online Dictionaryによれば、
recursive
Pronunciation: /rɪˈkəːsɪv/
adjective
• characterized by recurrence or repetition, in particular:
• Mathematics & Linguistics relating to or involving the repeated application of a rule, definition, or procedure to successive results: this restriction ensures that the grammar is recursive
• Computing relating to or involving a program or routine of which a part requires the application of the whole, so that its explicit interpretation requires in general many successive executions: a recursive subroutine
とありますので、日本語でrecursive manを定義すれば、
再帰的人間の定義
再帰的人間とは、連続的に起こる結果に対して、いつも繰り返し、同じ規則、定義、又は手続•手順を適用する人間、或いは、その人間の一部が、常にその人間の全体を含んでいる人間である。
ということになるでしょう。
確かに、この定義は、最初に図像で掲げた再帰的な人間達の姿を言葉で定義したものになっています。
しかし、この定義は、何故再帰的人間はそうなのかということを説明しておりません。
ここから眼を転じて、安部公房の実存の概念に眼を向けることにしましょう。そうして、この概念と再帰的な人間の関係を考えるのです。この概念を、今迄も、わたしは何度も再帰的に繰返して引用して来ました。
安部公房の実存の考えは、「実存は本質に先行するという実存主義の基本概念、本質というのは一つの規定観念であり、その規定作業の前にもっと未分化の実存が先行しているという考え方」とある、この10代で既に至った「未分化の実存」という理解と認識にあります(『錨なき方舟の時代』という対談。全集第27巻、167ページ下段。1984年。安部公房、60歳)
ここに戻って、考えましょう。この発言は60歳のときのものですから、安部公房は10代のときからずっと、このように考えて来たのだということがわかります。
この考えが、再帰的人間を生んだのだというのが、わたしの仮説であり、説明です。いや、そのような人間だったからこそ、実存の概念をそのように捉えたのかも知れません。
実は、これ以外の理由で再帰的な人間が生まれるということがあるのかも知れませんが、どうもわたしには、これ以外には思い当たる節がありません。これは、実存というと新しいようですが、要するに、人間が未分化の状態のままでいることを選択する、それに固執するということなのです。このような人間は、どんな時代にもいると思います。上の挙げた詩人や作家や哲学者はみな一様に、そのような人間に、わたしの眼には見えます。
さて、一人の人間が未分化であるとは、どのようなことでしょうか。まづ、一義的には、人間が分化するとは、性的に男になったり、女になったりすることであり、その次には、社会的な役割(機能)を受け容れて、その役割を演ずることであるでしょう。曰く、家族ならば、父親、母親、弟、妹、兄、社会においてならば、上司、部下、管理職、社長、医者、患者、看護婦、魚屋、指物師、大工、金物屋、と、こう名前を挙げて来ると、これらはすべて社会的な身分や職業や地位の名前になります。
未分化であるということは、これらの職業や地位を我が身に引き受けないということです。ですから、未分化な人間を素描致しますと、それは、
1。隠者である。
2。世俗のものの一切合切を喪失している者である。
3。無名の者である。
4。無役の者である。
5。無知の者である。
6。無能の者である。
7。性的に未熟である。
8。素っ裸である。
9。主観と客観、subjectとobjectの分化する以前の場所にいることができる人間である。
10。このような人間は自分自身のことを語ることがほとんどない。対象を語ろうとすると、ひとりでにそれを変形させて自分のものではないものにしてから、再帰的に自分自身に関係させ、還って来る様にして語るのです。このことがなかなか説明が難しく、理解されることが少ないところです。このことを、再帰的でない人間に理解してもらうには、未分化の人間には、分化した自己がないので、自己については語り得ず、自己以外の対象について語り、それを自己のものに変形させるのだというと理解されるでしょうか。
11。このような人間にとって、最初から世界はいつも混沌として見える。迷路に見え、迷宮に見え、謎が渦まいているように見える。社会の秩序を全く信用していないのです。
12。そのような言葉にならない混沌に言葉を与え、また与えないことが能力となり、仕事となる。
13。未分化ということから、その人間は、法律の外に生きている人間である。
14。従い、無法者であり、安部公房が自分乗っていたクライスラー製のジープの名前がrenegadeであると言って喜んだように世間に対する裏切り者であり、無法者である(山口果林著『安部公房とわたし』183ページ)。
15。法律の外に生きている人間という意味では、犯罪者又は犯罪者に相当する人間である。(トーマス•マンは、安部公房の様に、繰り返しこの種の人間を描いている。)
16。未分化ということから、分化した人間(大人、社会人)が現実だと思うものを、非現実だと思い、社会的な分化した人間が非現実だと思うものを現実だと考える、社会からみると、倒錯した人間である。このことを、言語との関係で、トーマス•マンは、私の言語は、あなた達の言語ではないとはっきり言っています。
17。未分化ということから、それは、上の図像で合わせ鏡の世界だと説明をしましたように、もともと自己完結して世界であり、再帰的な人間は自己完結した人間なのです。『方舟さくら丸』のユープケッチャという虫は、自己を、カフカの『変身』の主人公ではありませんが、人間ではなく、虫けらの虫として描いた自画像なのです。安部公房自身が、リルケのような人非人として、非人間的な人間として生きよう、そうして詩人から小説家に、詩人のこころのままに変身を遂げようという覚悟は、この時期を理解するための重要性を既に指摘した『牧神の午後』に詳しく、安部公房は書いております。
18。再帰的な人間は、このように自己完結した世界に棲んでおりますので、本来的に、そもそも他者を必要と致しません。他者との意思疎通の通路を、安部公房はどの作品でも考えましたが、それは、常に二重の意味を持っております。
(1)ひとつは、本来自己完結していて、他者への通路を必要としないのにもかかわらず、それを自己否定して、他者と意志の疎通をしようとしていること、これがひとつ(誰にも知られない自己の内部の自己否定)。
(2)もうひとつは、この(1)の意識の上に立って、その上で、意志の疎通を他者と図る苦労をしているのだという、やはりこれも再帰的な人間でない人間には全く知られない苦しみ、これがひとつ(他者との関係での陰画の意思疎通)。
最初に生きるところの、生きるために立っている前提が、分化した社会的な人間が立っている前提、即ち他者がいて、その他者と言語を使って容易に意志疎通ができるという前提とは、全く逆であるのです。
安部公房は、この再帰的な人間の持つ二重感覚を『終りし道の標べに』の「第三のノート―知られざる神―」中で、高という登場人物の口を借りて、「二重感覚」とか、「二重の判断や意志」とか、また「二重の意識」とか、そして「あの感覚」と言わせております。この登場人物は、父親がカトリックの副牧師であったという環境に居た事から「そういった環境の中で殆ど外界との交渉なしに育てられてきた」人間であり、また故あって探し求めていた房大爺という人間が、自分と同じ「あの二重感覚」の持ち主であることに気付き、その「非人間的なものに打たれ」ます。その次に、「奴(筆者註:房大爺のこと)を一つの人間の限界であり、偉大の建設者だなぞと思い込んだのだ。だがそれと同時に、何故か奴が憎くてならなくなって来た。興味を持てば持つほど憎しみが強くなってくるんだ。」と、高をして、そのように、一種の近親憎悪の感情を言わせています。
恐らく読者は、この高のいう「あの二重感覚」といっていて、この登場人物が「あの」と指示するように既知のものとして言っていることに奇異な感じを抱き、上のように考えることがなければ、この小説を読んでも「あの二重感覚」がテキストからは、よく解らない事でしょう。
(この、再帰的人間の自己否定的な二重感覚を普通の人間は持っておりませんので、安部公房を論じると、何かいつも隔靴掻痒の言となり、何か安部公房という硬く難しい皮の表皮を引っ掻いているようなもどかしさがあり、論者のどの言を読んでも、安部公房の本質に至ったという実感が乏しく感じられがちなのは、そのためなのです。)
この二重感覚は、そのまま安部公房の贋の感覚となって形象化され、贋の父親や、贋の魚、その、贋という言葉は冠せられませんが、例えば『方舟さくら丸』に出て来る、贋の軍人たる副隊長、その他贋の船長、贋の船員、贋の船、その他諸々の安部公房の創造する贋の感覚と登場人物たちの創造の源泉になっております。
この小説の高と主人公の対話を読むと、安部公房が自己完結的な再帰的な人間としての弱点は、英雄崇拝であると考えていたことがわかります(全集第1巻、363~373ページ)。それは、自己完結した、他者を本来必要としない合わせ鏡の世界に棲んでいての、一番の弱点は、自己陶酔的な、自己愛の、通俗的な英雄の即ち自己の崇拝だからです。これを、この自己の最大の弱点を、安部公房は生涯自己否定として否定し続けたことは、作品においても、社会的事象においても、またその言語論においても、安部公房の読者ならばご存知の通りですし、また何故三島由紀夫と、安部公房曰くすべての接点において正反対のふたりであるにも拘らず(「彼との接点は、全部うらがえしになっている。」全集第29巻、73ページ下段)、その対談にあっては、肝胆相照らす、腹蔵のない親しき友であったことが(例えば、「二十世紀の文学」という対談、全集第20巻、55ページ)、お解り戴けることと思います。
こうして考えて参りますと、上で言及したように、1973年の『箱男』から、三島由紀夫の市ヶ谷での割腹自殺を契機に、安部公房はリルケの純粋空間の世界に回帰したという仮説は、十分な意義と意味を有するものだと、わたしは考えます。(リルケの最晩年の傑作『オルフェウスへのソネット』の第2部のIVやIXの詩は、時間の無い純粋空間と鏡を歌った詩となっていますが、これはまた後日の読解として、稿を改めて、お話致します。)
と、思いつくまま、連想するままに列挙すると、このようになるでしょう。さて、更に、
19。この実存のあり方は、このまま安部公房の言語論になり、哲学的な理解 と認識の源泉になっています。つまり、自分自身が未分化の状態にありますから、文法の世界で、主語と述語に入れるべき言葉が、そのものと、それ以外のものになる(分かれる)ことに対する強い抵抗と疑念があるのです。この抵抗と疑念から、安部公房の哲学的な思索能力や譬喩(ひゆ)に関する能力が生まれます。
20。そうして、このことから、いつもそこに帰って、どのようなジャンルや分野や領域の物事であろうとも、それらの領域での物事をどれも同じように理解することができ、それらについて、同じ発想で、多彩な言語表現をすることができるという能力を獲得することができています。
これが、安部公房が多ジャンルに亘って芸術活動をすることのできた根底にある能力であり、その理由です。実存。未分化の実存です。実に単純な事実です。
また、こうも言うことができます。
21。再帰的な人間から、再帰的でない人間をみると、後者は何ごともすべて忘却の中で生きていると見えるのです。忘れていることを忘れていると思っていないで、それが現実だと思い込んでいる。忘れたことを本当には思い出すことがない。再帰的人間は、世間の人たちが思い込んでいることと全く逆のことを世間に観ているのです。
22。上に名前を挙げた再帰的な人間は、みな多分一様に10代で何らかの喪失を体験しており、それと裏腹のヴィジョンを観ているということ。安部公房の場合には、このヴィジョンは、20歳のときの論文『詩と詩人(意識と無意識)』に詳述されています。Visionというものは、物理学の世界でならば、数式で表すことのできる原理のことです。アインシュタインの E = mc2というように。アインシュタインの方程式は、e, m, cの3つの要素からなっていますが、安部公房の要素は、物質の世界ではなく、人間の世界のことですので、「もぐら感覚18:部屋」で論じたように、部屋、窓、反照、自己承認の4つの要素でなっています。4つ目の自己承認が、人間的な要素です。人間は物質ではありません。安部公房の場合は、この4つの要素を、外部と内部の交換という原理によって説明したということです。外部と内部を交換することで、宇宙が生まれ、ものごとが生動し始め、詩人は次元転換(外部と内部の果てしない交換)を通じて、究極の反照(第三の客観)というvisionを観ることができるのです。
23。従い、visionを観た再帰的な人間は、この世の時間の中で、そのvisionの正しさを証明するために生きる。それに命を賭けて生きるということです。
24。このヴィジョンは、「小さいが、完璧なもの」(トーマス•マン18歳の作品『Vision』)として一度忘却された記憶の中から、現実的な夢として、即ち生きたものとして浮かんで来ます。安部公房は小さきものを大切にしました。この場合、この記憶の中から浮かんで来る小さなものは、既に過去の時間の中にあるものではなく、時間を脱した、そういう意味では空間的な存在(10代から晩年に至る迄、安部公房は存在象徴またはシンボルと呼びました)になっています。この記憶から浮かんで来る「小さいが、完璧なもの」に対して、安部公房は、性愛の感情、倒錯的なエロティックな愛情を持っていたものと思われます。つまり、執筆して、作品を創造するときに、そのような倒錯的なエロスを感じていたということです。
25。繰返しになりますが、再帰的人間は、いつも自分自身に帰ってくる。従い、この人間の時間は、社会や世間に棲む人間達の時間とは異なり、直線ではなく、循環する時間となっている。その戻って来るときには、正確には同じ場所ではなく、積算で一次元上の同じ場所に戻って来る。つまり、再帰的な人間は、いつも何かを統合しようとしているのです。
26。21のこの社会に対する倒錯性が、いつも世間の人たちには理解されることが難しい原因になっていると思われる。このことの深い意味を知らなければ、読者はいつも、言葉の表面をなぞって安部公房の作品の上っ面から内へと入ることのできないもどかしさを感じる続けることになります。勿論、安部公房作品の解釈は多様であって構わないわけですけれど。
27。23との関係で、言語に関して言えば、再帰的人間は、言語組織(作品)というヴィジョンが恰も生命を持っているかの如く、自己増殖するという考えと実感を持っています。平俗な言い方をすれば、言語組織(作品)に命を賭けているということになります。自己の個人的な人生に興味はなく、自己の創造する再帰的な世界こそが、自己の生命の宿った組織だという考えです。しかし、言語組織(作品)は、これらの再帰的な人間の思いとは無関係に、また無視するように、ひとりでに成長し、自己増殖をして行きます。
以上が、大体、再帰的人間の特徴であり、その素描です。
こうして考えて参りますと、安部公房の呼んだ「閉鎖空間」としての社会は、再帰的な人間の観る合わせ鏡の世界であり、従いその社会も対称性を備えており、そこからの脱出を図ることを、人間の社会の根底にある存在からそもそも実行しようと考えたのが、安部公房であるということになるでしょう。安部公房の書いた小説の構造は、次章でお話致します。
安部公房全集に目を通しても、どこにもこの再帰的な人間、再帰的という用語が、安部公房の筆や口からは見当たりませんので、安部公房自身も再帰的な人間であり、世界の文学や哲学の世界に同じ仲間がいるとは明瞭には意識していなかったのではないかと思います。その言語論から、かろうじて、カフカやカネッティを自分の同類と観たのです。勿論、この安部公房の見立ては、間違ってはいないのではないかと思います。ああ、それから、ルイス•キャロルという『鏡の国のアリス』を著した、安部公房の好きな数学者の名前も挙げることに致しましょう。
さて、日本の文学者で、安部公房と同じ再帰的人間を挙げると、埴谷雄高の名前を挙げることができます。
わたしがわたしであるということを言語で言うことができない、言えば同義語反復になってしまうことを嫌い、そのように人間と宇宙が出来ていること、即ち、わたしが未分化であると言語で言う事が出来ないこと、これが実に不愉快であるという考えに発して、埴谷雄高の書いた『死霊』という作品の文体、あの異様に長く、ネスト構造(入籠構造)の合わせ鏡で自分自身の姿と意識を観ている言葉の表現は、埴谷雄高が再帰的人間であることを示しています。
この作家が、安部公房を最初に認めて、安部公房が世に出たということには、やはり相応必然の理由と機縁があったと考えるべきでしょう。
さて、安部公房の最初の観念と思想の世界での喪失体験は、リルケに学び、その現実的な一家の長男としての喪失体験は、父の死であったと書きました。安部ねり著『安部公房伝』(同書51~52ページ)によれば、後者のときに書いたのが、「笑い」と題された『無名詩集』の最初に掲げられた詩です。
そうだとすれば、この詩を最初に措き、最後の詩として「感傷」と題した詩を措いて構造化した『無名詩集』に隠された安部公房の喪失のこころと体験の意義と意味を、最初と終りのふたつの地点にたって、二つの詩を読み合わせることで、わたしたちは、その喪失による物事の、安部公房にとっての抽象化の意義と意味を、従い真の意味で『無名詩集』という文字通り無名の詩集の価値を推し量ることができるでしょう。このような『無名詩集』の解読は、稿を改めたいと思います。
IV 再帰的な人間の書いた小説の構造
この図像も、recursive manでGoogleの画像検索をして得た図像です。
これは、筆を持って描いている図であるから、一層よくお解り戴けるのではないかと思いますが、安部公房は、このような意識で小説を書いたのです。
この構造を明確に意識して文字にしたのは、1973年の『箱男』からではないかと思います。勿論、小説としてのその最初の試みは、最初期の『白い蛾』という作品に見ることができます(全集第1巻、211ページ)。話の中に話をこしらえるという構造化の試みです。
『箱男』の手記の話者は、次の様なネスト構造の中の、a, b, c, d, eというそれぞれの次元に居て、話をしていたということなのです。一番最上位の次元にいつも固定して居るのが、19世紀の写実主義の、そして我が国の私小説の、安部公房の言ひ方で言へば、足し算の作家たちです。安部公房のような再帰的な作家は、a, b, c, d, eのどの階層にでも出没して、その階層で話をすることができます。
この次元は理論上又は論理上、何次元まででも深め(下降方向)、また高める(上昇方向)ことができます。20歳の論文『詩と詩人(意識と無意識)』の次元変換、次元展開を思い出して下さい。
これが、安部公房の小説の構造です。『箱男』の次に執筆した『密会』も然りです。言葉で説明するよりも、このように図像で示した方が、解り易いのではないかと思います。
この構造は、安部公房が晩年の言語論で論じている通り、そのまま人間の認識の構造ですから、これが安部公房の認識した言語構造だということになります。
しかし、何も特別な構造ではなく、知る人ぞ知る構造です。むしろ、文学の世界の人間よりも、ソフトウエアのエンジニアの人たちの方が、人工言語において、この再帰的な構造について、数学的にはよく知っています。
また、次の様な、同様にa recursive manでGoogleの画像検索をして出て来る図像を観ると、安部公房の小説の構造がどのようなものかがよく判るのではないかと思います。話法(mode)のネスト構造(入籠構造)です。
『安部公房の変形能力11:ドストエフスキー』で論じた、安部公房の小説の構造、即ち「そう。構造が全部ぬけたテントの梁みたいな小説が好きなんだ。ふつうの建物は構造と中身が対応していて、外から見ればだいたい中身が想像できるだろう。そんな小説は書く気がしない。さまざまなイメージの断片が並んでいて、一つ一つははっきりと明瞭なんだが、横に並んでいるものがいつのの間にか縦に見えてくる迷路のような小説が好きなんだ」という小説の構造は、上の図像の示す通りのものです(『文学世界にテーマはいらない[聞き手]浦田憲治』(全集第29巻、244ページ))。確かに、垂直と水平の関係が交換されるような構造になっていることがお判りでしょう。また、上で定義した再帰的人間の定義に「 その人間の一部が、常にその人間の全体を含んでいる人間である」とある定義通りの人間です。」
以上は、安部公房に拠つて再帰的な人間像をお話ししたものですが、しかし、これが像である以上、そのまま三島由紀夫にも通用してゐることに、三島由紀夫の読者は気づくのではないでせうか。
上述の安部公房といふ名前を三島由紀夫に置き換へて、またその他の名詞を、安部公房の世界の名詞ではなく、三島由紀夫の世界の名詞に置き換へて読み直してみると、三島由紀夫が一体どういふ人間であるのか、即ち再帰的な人間がどういふ人間であるのかが、よく解る筈です。
この再帰的な人間の意識と作品構造を論じたのが、森孝雄の群像新人文学賞受賞評論『『豊饒の海』あるいは夢の折り返し点』です。
この第一章の題が「『「物語の解体」という物語の解体』という物語の解体」と題されてゐて、既に此の題名が、再帰的な人間である三島由紀夫の世界の構造を論ずることになつてゐる事で、それが判ります。[註1]
[註1]
この評論で、私が素晴らしいと思ったのは、何よりも此の第一章の題です。
「『「物語の解体」という物語の解体』という物語の解体」
といふ題です。
何故ならば、これが三島由紀夫の、最後の『文化防衛論』にまで及ぶ、この詩人の再帰性(繰り返し)の、その世界の入籠構造、即ち言語構造を示してゐるからです。
即ちまた、この題は、言語の、三島由紀夫の虚構の世界の(詩も含みます)話法(mode)のことを正確に指摘してゐるからです。
本論を読みますと、森さんは、立体的にではなく、平面的に三島由紀夫の世界を解釈して、二次元で説明したのです。これはこれで、一つの素晴らしい、即ち徹底した三島論です。何故ならば、二次元とは、この私たち人間の生きるギリギリの、最低限の日常の時間の中で、この論考を書いたことを意味してをり、また三島由紀夫を其の日常の時間の中で論じようといふ試みであるからです。
それ故の、夢の「折り返し」点なのでありませう。
「折り返し」とは、第一章の題名の示す通り、三島由紀夫の小説と詩の世界の再帰性を指してゐるのです。
さて、しかし、一体誰が、何が再帰するのでしょうか?
これに答へたいと思つたのが、この論考と理解しました。
最後のところで、文武の間の、文と武の間といふことを言つてゐて、これは、何度も私が繰り返しいふやうに、時間の差異に美と叙情を求めた三島由紀夫と平岡公威の本質を突いてをります。もつとも、これは何も文と武ばかりではなく、その余にも、浜の真砂ほどにもあるのです。
最初に繰り返しといふ再帰性をいひ、最後に差異のことをいつたということでも、この評論は、三島由紀夫批評史上に残る批評です。
それから、本多繁邦を終始一貫引き合ひに出して、話法の問題を読者に意識せしめたこと。
従ひ、この評論の価値は、要約すれば、三島由紀夫の『豊饒の海』を論じて、
1。最初に、繰り返しの入籠構造、即ち言語構造を言ひ当てたこと
2。最後に、文と武といふ「肥沃な「間」」、即ち三島由紀夫の差異を言ひ当てたこと(これを時差として表立つて論じたらもつと面白かつた。しかし、この方の面白さは、この時間の言語藝術家を幾何学的に論じたことにあります。即ち時間のない空間的な形象を用ゐて論じたことに。)
3。話法(mode)の問題を論じたこと
この3つに尽きます。
この論考を読んで、まだまだこの筆者には言ひ足りないことが行間に一杯詰まつてゐるのだなといふことを感じ、思ひました。
それ故の、その後の長い25年間の沈黙なるかなとも思ひました。最近になつて『憂国者たち』といふ小説によつて再び世に現はれい出るまでの。
2。「幻想 散文による素描または散文自体を素描したもの」の素描
この作品は、トーマス・マンが1893年、18歳の時に、友人と出してゐた同人誌「Der Frühlingssturm」(「春の嵐」)に筆名Paul Thomasの名義で、その生まれ故郷、ハンザ同盟の盟主であつたLübeck(リューベク)にゐる時に書いた最初期の作品です。
この極小品の文字の量は、凡そ3600文字。わたしの手元にあるS・フィッシャー書店(マンの生涯の専属の出版社。以下「フィッシャー」といひます)が1972年に出版した短編全集の最初にをいてある、たつた1ページ半の分量の作品です。これは短編全集ですので、フィッシャーは、これを小説だと解したことになります。しかし、第3章でお読みになればお解りのやうに、この作品は、非常に、文字通り微妙な、詩文と散文のいづれの範疇とも呼び難い文章(text)、原初(primitive)のテキスト、名付けられない総体としてある文字の集合となつてをります。
即ち、これを詩だと言へば詩であり、散文だといへば散文であり、詩的散文だと言へばさうであり、散文詩であるといへば、その通りなのです。
即ち、範疇(ジャンル)を超えて総てであり、且つそのやうな総てでも全くないテキストなのです。
即ち、言語藝術家が、言語と言葉を使つて、また言葉と言語に使役されて、文字を無地の紙の上に書く時と場合には、一体そこで何が起きてゐるのかを如実に示してゐる貴重なテキストなのです。
即ち、この極小品は、生々しいテキストなのです。
安部公房であれば18歳の成城高校時代の処女作『(霊媒の話より)題未定』と同様に、また三島由紀夫であれば16歳の『花ざかりの森』同様に、生々しいテキストなのです。
即ち、これを読んだら、読者は、その人間の一生の文学を直観的に見透して判ることになり、また理屈を立て、秩序立てても同様に解り、如何様にでも、安部公房や三島由紀夫の作品群を、範疇(ジャンル)を超えて、論ずることのできるテキストなのです。
トーマス・マンの全ての作品は、この小さなたつた1ページ半の短い文章の上に、それがどのやうな長編小説であれ短編小説であれ、これから述べる極小品の3600文字の上に成り立つてゐるのです。
それは、このやうな話です。いや、話ではありますが、いはゆる時間的な流れの筋書きはない。
さて、主人公の周囲は闇である。夜。ある部屋にいて、主人公は椅子に座り机に向かつてゐる。ランプが点いてゐて、そのランプからの光が円錐形をなしてゐる。主人公は闇の中にゐて、闇の中からその明るい円錐形の中を覗き見てゐる。そこを舞台にして、ふたつのものが過去の記憶の中から姿を現す。ひとつは、聖杯であり、もうひとつは女性の白い手と腕、青い血管が息づいてゐるエロティックな女性の腕です。それが聖杯のそばにある。
従ひまた、この男は男性としては性的には無能力者だといふことになります。実際マンの同性愛の傾向は抜きがたい。(同じ典型的な芸術家をわたしはHart Craneといふアメリカの詩人にみますが、こちらはもつと現実的に、つまり肉体として男色者でした。)
この円錐形の光の世界でおこることは、闇の中にいる男は制御することができません。ただbegierig(熱心に)見てゐることができるだけです。この熱心にといふドイツ語に、わたしはマンの性欲、倒錯した性を感じます。単に熱心といふだけではない、もっとエロティックな欲情ともいふべき熱情なのです。しかし、その対象、そのエロスを、外にゐる男は所有することができないのです。作品、すなわち言語組織体は、そこで自己の意志を以つて自己増殖する。マンが繰り返し述べてゐるところです。どの作品もそうやつて生まれる。
わたしは、この作品のいはんとしているところ、あらわしてゐるところは、芸術家の、およそ言語にかかわる芸術家、散文家であらうと詩文家、詩人であらうと、そのやうなひとの姿を真率にあらわしてゐると思つてをります。
この作品は、どのやうに出来てゐるかを以下に列挙して述べます。さうして、そのあとで、第三章でテキストをお読みください。
1。両極端の対比、対位、対立、対照の語彙から作品の構造(骨組み)が成り立つてゐる。
2。この両極端は、交換可能の関係にある。從ひ、
3。現実と非現実が、全くそのまま非連続の連続、連続の非連続といふ接続法によつて上位接続されてゐる。この場合、上位接続されて現出する世界が、詩であり、小説であり、戯曲である諸作品です。安部公房の場合には、エッセイですら散文詩となつてゐる。
3。「……」といふ記号を頻度高く使用して、これに、沈黙と余白、即ち言語にならない或るものを表はし、それによって、過去の時間の想起と追想と追憶、時間の余白、無時間または時間の停止、自己の記憶喪失、従ひ自己喪失、即ち豊饒の無といふ意味を持たせてゐる。(第三章の訳文では、この沈黙を日本語の文字と読点に変換して表しましたので、ご了解下さい。)三島由紀夫のこの記号については既に『三島由紀夫の十代の詩を読み解く11: イカロス感覚2:記号と意識(1):「………」(点線)』で論じましたので、ご覧ください。:hhttp://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post.html。さうして、
4。現在の時点から過去を追想、追憶して、その時差に現れる「幻想」を現実のものとして視ること
5。その現実は「幻想」であることから、そのまま非現実の現実になつてゐること。更に、
6。その「幻想」はvisionであることから、それは単なる幻の想ひといふよりも、絶対的な物事の存在の姿、即ち宇宙の原理を体現するものとして其の姿を露はに示して、書記であるマンの前に現前するものであること。
7。マンは夜の中に、闇の中にゐて、光の領域に其の宇宙の原理を視ること。
8。その視る世界に現れるvisionは、一つの組織、一つの有機体であつて、その意志によつて自己増殖をすること、從ひ、視るものは、それを制禦したり、支配したりすることは一切できないこと。そして、
9。それは、「忘却の淵より忽然とあらはれいで」る「色彩鮮やかな、才能豊かな女」であること。「忘却の淵より忽然とあらはれいで、前とそつくりにつくりなされて、形式が与えられ、想像力の思ひ描いたもの。想像力とは、かくも、色彩鮮やかな、才能豊かな女、女の藝術家といふべきもの。」
10。それは全体ではなく、部分であること。從ひ、
11。小さいものであるが、しかし、嘗てのやうに、それには全体が宿つてゐて完璧なものであり、一つの宇宙であり、全有であり、一つの世界であること。
12。その小さなvisionは、暗闇の中で視てゐて、無際限に揺蕩(たゆた)ふ塑像であり、彫刻であり、8にあるやうに制禦したり支配したりできない9の女であること。
13。当然のことながら、そのvisionたる宇宙原理の姿は、美しいものであること。「忘却の淵より忽然とあらはれいで、前とそつくりにつくりなされて、形式が与えられ、想像力の思ひ描いたもの。想像力とは、かくも、色彩鮮やかな、才能豊かな女、女の藝術家といふべきもの。」
14。この、闇に包まれてゐて其の中から、しかし他方光ある、その領域を視る者は、その息づいてゐる有機体、有機組織を、視るだけであつて、直に触れることが決してできないこと。
15。この二つの関係は、從ひ、世間の分化した人間たちの目から見れば、倒錯であること。從ひ、
16。闇の中から明るい光り射す領域にある美の姿たる宇宙原理を視る者は、いつまでも其れに触れることのできないこと、言い換へれば、絶対的な接触不可能性、絶対的な交接と性交の不可能性の自覚のあることから、異様異常に性慾が亢進するが、しかし、その性慾は満たされることが決してないこと。
17。そのことを、視る者は、自己喪失と記憶喪失の想起(失はれた過去を思ひ出すこと)と引き換へにして現前する現実といふ夢、夢といふ現実を目の当たりにして、さういふ状態にゐて、16のことを自覚してゐること。 從ひ、
18。それは、世間の分化した人間たちの目から見れば、性的な倒錯であること。
19。それも、視る者は、十分過ぎる位に自覚してゐること。
20。16のことから、その視る者は、性的な不能者であること。
21。従ひ、このやうな者の言葉と、さうではない、反対側に倒錯してゐる世間の人間の言葉は、全く相容れず、相容れないどころか、理解されず、行き違ひ、すれ違つて、生きた人間に行き遭ふことがないこと。同じ言葉を口にし、文字に書いても、それが日常の言葉とは、異様な程異常な程に異質であり、視る者の言葉は、理解がされないこと。他方、逆に、
22。日常の中では、そのやうな者は、日常の一次元の時間の中にゐる他者の言葉を正解しても、誤解して、意思疎通のできぬ人間だと思はれることがあり得ること。
23。15、16、17のことから、この視る者は、その性慾に満ちた視力によつて、光の領域にある美の塑像、塑像としてある美を自己の中に吸い込み、受け容れ、実際に受胎し、生命を己のうちに孕み、果てることなく、いつまでも、自己が自己に益々与へ(再帰的な人間!)続け、益々自己を増大し続け、増殖し続け、自分自身に魔法、魔術、呪術を掛け続けてゆくこと(呪術と永遠の現在!)。
24。視てゐる対象が女の塑像であるのに、視てゐる自分が男として受胎すること。反対側に倒錯してゐる世間の人間から見る倒錯。
25。性慾の強い視力で、16の不可能性を代償にして、譬喩ではなく、実際に美を食べる者であること、視線によつて、視ることによつて性交するするものであること。「あの時と同じやうに、わたしの視線は、重たく、さうして、何ともいひやうのない、厭ふべき肉慾で、喘いでゐるのだ。愛との戦い、愛の勝利が、活き活きと、脈打つてゐるその手の上で、わたしの視線が喘いでゐるのは、あの時と同じだ。あの時と同じだ。」これは、そのやうに、肉体で性交できない男が、美を受胎することによつて、絶対的に美に敗北することをいつてゐる。從ひ、
26。視慾と食慾が分かち難く結びついてゐること。從ひ、
27。視覚と味覚が分かち難く結びついてゐること。しかも、
28。これらのことが全て、視る者は、狂気の妄想であること、正気の沙汰ではないことを自覚してゐること。また、
29。16が、自己にとつてはさうではないが、反対側に倒錯してゐる世間の人間にとつては背理で有ることを自覚しないほどに自分のもの(自己の体の内部の生理的な感覚)になつてゐるものであること。それは、26と27の理由によるだらう。
30。この小さな美の塑像のある光の震へてゐる其の空間は、静寂であり、静謐であること。「しかし、それも、はや、なんといふことか、今となつては、ここにあるのは、静けさ、しじま、静寂だけだ。なんといふ倒錯だらう。静けさが存在するといふのに、すべての感覚に、狂気が、みなぎり、走り廻ってゐるのだ。熱病に罹つたやうな、神経質極まりない、常軌を逸したことだ、これは。音といふ音が、どれも、ひとつひとつ、神経に障る音を立てて、口汚く罵り、罵倒し、口論を吹き掛け、泣き、喚き。いやはや、これらすべての、静けさと騒音の倒錯に気も狂ひ果てた姿で、忘却に沈んでゐたものが、ゆつくりと、下の方から、目の前に浮かんで来るのだ。」「ここでは、全く音がしない。周囲の笑ひ声の騒がしさや喧噪も、一切この空間の中に入り込むことはない」こと。しかし、それに反して、また対して、
31。視るものである自分自身の周囲は異様異常に騒がしく、その音の一つ一つを明晰に聞き分けてゐながら、上記30の最初の引用にあるやうに「音といふ音が、どれも、ひとつひとつ、神経に障る音を立てて、口汚く罵り、罵倒し、口論を吹き掛け、泣き、喚き」すること。
32。このvisionの到来、これは必然ではなく、偶然の、「それは、像、偶然の創造した藝術作品」であること。
33。このやうな言語藝術家は、周囲の音立てて騒々しい現実に抗して、また同時に、現実とは謎であり、混沌として無秩序であると思ひ、考へてゐること。「まつたく、こいつが、この音が、わたしの周囲を包んでいる、この煙草の記す、奇ッ怪な煙文字の深い意味を解釈することに没頭して我を忘れてゐたところを、糞つたれ奴、もうすつかり迷宮の道しるべの糸を捕まへて理解しようと決心してゐたところを、この野郎、わざわざ邪魔しやがつて、何としてくれようか。」
34。33の騒々しい現実にも拘らず、その謎に満ちた「この煙草の記す、奇ッ怪な煙文字の深い意味を解釈すること」、そして「迷宮の道しるべの糸を捕まへて理解しようと決心」することが、言語藝術家の仕事であること。
35。この「この煙草の記す、奇ッ怪な煙文字」は、視る者自身から放たれた煙であり、その謎であること、常に自分自身との関係で、その謎を解き、「迷宮の道しるべの糸を捕まへて理解しようと」するの(再帰的人間!)が、この視る者である語藝術家であること。
最後に、あと八つ。
36。上記1から35の出来事は皆、この作品の冒頭の窓に深く関係して起きるといふこと。
37。上記1から35の出来事は皆、三島由紀夫の場合には、一桁の年齢から十代の詩を読むとよくわかりますが、この窓を通じて、外部が部屋の中に、幼年期の、從ひ0歳から5歳までの間の平岡公威が身を隠して様々な思ひに耽つたお納戸の窓を通じて、お納戸の中に、このやうなvisionと共に、実に明瞭明晰な関係の総体としてある本質的なものとしてある幻想が、さうして恐らくは夜に、闇の中に身を潜めている時に最大に、やつて来たといふこと。
38。Visionの中で自分の触れてゐるものは、たとへ其れが無機物であつても、有機物のやうに、生きて音を立てること。
39。このvisionの立ち現れる時の最初の感情は、自分で制禦できない不愉快な否定的な感情であり、怒りであること。「もうかうなると、わたしは、ことの次第にあらがふことなどできやうはずもなく、まつたくどうしようもなくただただ胸糞悪く、悪意と憎悪で不機嫌極まりないといふ状態」
40。最初も突然に理由もなく始まり、最後も突然に理由もなく終わること。それは、ある特定のある一語で始まり、同じ一語で終わることことによつて示されること。即ち、始まりと終わりに、何の理由も全くないこと。即ち、
41。最初と最後に同じ言葉が登場して、全体が未完結のまま完結すること、あるひはまた、完結のまま未完結となること。その話が循環構造を備へてゐること。安部公房ならば、位相幾何学(topology)のメビウスの環であり、三島由紀夫ならば、自らの尾を噛んだ蛇の形象である。しかし、後者にあつては、この蛇は同時に理髪師といふ、この最初と最後を、自らが媒介(関数)となつて宰領する殺人者であること。これが、どのやうな関数であり、すべてを受け容れる媒介であるのかは、『三島由紀夫の十代の詩を読み解く29:イカロス感覚7:蟹』で、『詩人の旅』といふ19歳の詩を取り上げて、詳細に論じた通りです(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/11/blog-post_7.html)。
42。41の最初と最後は、いつも話者の予感し期待する静寂を妨げたり、障る形で到来すること。『凶ごと』の詩の最後の連に歌はれてゐるやうに、確かに「吉報は凶報」であること(決定版第37巻、400ページ)。
43。勿論、当然のことながら、この小さな宇宙の始まりと終わりは、それを視ることになつてしまつた者には、制禦できないこと。從ひ、偶然といふ以外にはないこと。
以上のことを列挙しますと、如何に三島由紀夫がトーマス・マンを、1950年から1963年、25歳から38歳までの、自ら古典主義の時代と呼んだ其の時代に愛したかが、よくお解り戴けるのではないかと思ひます。
トーマス・マンは、28歳の時に書いた名作『トニオ・クレーゲル』の中で、友人のロシア人の女流画家、リザヴェータ・イヴァノーヴナに向かつて、主人公に、これ(literature)は呪ひだ、といはせてをります。
「それを、いつ感じるやうになつたか解りますか?、この呪ひが?恐ろしく早い時代に。人がまだ真っ当に、平安の中にゐて、そして神(Gott)と世界と共に融和して生きてゐなければならない時代に。」
3。『Vision Prosa-Skizze』(『幻想 散文による素描または散文自体を素描したもの』)
Vision
Prosa-Skizze
幻想
散文による素描または散文自体を素描したもの
わたしは、そのとき、さうとは考へることもなく、いつもの慣れた手つきで、新しい煙草を巻いてつくらうとしてゐた。煙草の葉の茶色の片々が、鼻の中の粘膜をひりひりと刺激し、それらが、私の机上に開いてある紙挟みの黄色の吸い取り紙の上に、はらはらと落ちたと思ふや、わたしは、自分が未だ目覚めてゐることが、あり得ないことに思はれた。さうして、開いた窓から湿つて生温い夜風がやつて来て私のそばを通り抜け、わたしの吐き出した煙草の煙の雲を、奇妙な、普通はあり得ないやうな形につくりなして、机上の緑色の傘の電燈の明かりの中から、生気の無いぼんやりとした黒い闇の中へと運び出してみせるや、わたしは、既にして、間違い無く今夢を見てゐると確信したのである。
さあ、もうかうなると、わたしは、ことの次第にあらがふことなどできやうはずもなく、まつたくどうしようもなくただただ胸糞悪く、悪意と憎悪で不機嫌極まりないといふ状態になつた。といふのも、夢か現か判然とはしないが、しかし、とにかく、既にして夢をみてゐるといふおもひが、いはば幻想の馬に鞭をあてたがために、その馬に勢ひがついて、あてどなく疾駆し始めたからだ。わたしの後ろで、椅子の背凭れが、さうつと密かにわたしを蔑みばかにして、何か硬いものを割つて弾けるやうな音を立てた。と、不意に、わたしの体のすべての神経に、戦慄が走るかのやうに、やむにやまれず、とめるにとめられず、気がついてみたら、既にしてさうであつたといふかのやうに、一瞬にして不安が走り、いらいらが嵩じてゐる自分を見たのである。まつたく、こいつが、この音が、わたしの周囲を包んでいる、この煙草の記す、奇ッ怪な煙文字の深い意味を解釈することに没頭して我を忘れてゐたところを、糞つたれ奴、もうすつかり迷宮の道しるべの糸を捕まへて理解しようと決心してゐたところを、この野郎、わざわざ邪魔しやがつて、何としてくれようか。
しかし、それも、はや、なんといふことか、今となつては、ここにあるのは、静けさ、しじま、静寂だけだ。なんといふ倒錯だらう。静けさが存在するといふのに、すべての感覚に、狂気が、みなぎり、走り廻ってゐるのだ。熱病に罹つたやうな、神経質極まりない、常軌を逸したことだ、これは。音といふ音が、どれも、ひとつひとつ、神経に障る音を立てて、口汚く罵り、罵倒し、口論を吹き掛け、泣き、喚き。いやはや、これらすべての、静けさと騒音の倒錯に気も狂ひ果てた姿で、忘却に沈んでゐたものが、ゆつくりと、下の方から、目の前に浮かんで来るのだ。それは、過去に一度私の視力に刻み込まれたもので、浮かんでかうして見る度にいつも新たになることが稀だといつても、ほとんど無きに等しい姿。それ程我が視力に深く刻み込まれてゐるものなのだ。この像を見る度に、当時の、わたしがこの現れいづるこの姿に感じてゐた、生々しい感情も一緒に思ひ出されるので、いつもそれが今現実にそこにあるやうにありありとあるので、何度その姿を目の当たりにしても、それに聊かの変化があるなどといふことは、全く無いといつてもいいものなのだ。
わたしの眼が、性慾に駆られるやうにして、見たい見たいといつて、暗闇の中にいつもの場所の全体をみつけるまで拡大してゆくこと、そのさまを眺めることは、まあ何と面白いことだらうか。その場所とは、明るい色の塑像が、その姿を絶えることなくいよいよ明瞭にさせながら浮かび出てくる、いつもの場所なのだ。わたしの眼が、どのやうにこの成りゆきを、みづからの中に吸ひ込み、嚥下咀嚼し、すつかり自分の血肉にしてしまふのか。それは、なるほど、お前の眼は、そもそも妄想や幻想を見てゐるとしか言ひ様のないものだ。が、その眼は、たとへ傍目には気が触れてゐるやうに見えやうとも、しかし、どこまでも神聖に、敬虔に、その塑像の生まれるところを見てゐるのだ。だからこそ、わたしの眼は、受胎をし、妊娠し、どんどん、どんどん、何度も何度も受け容れて、大きくなつてゆく。つまり、ますます、与へて与へて、大きくなつてゆく。どうしやうもなく、みづからを大きくしてゆく。どんどん、どんどん、みづからを魔法に掛けてゆく。永遠に、この先もずうつと、さうして、もつと、もつと。
さうして、さあ、さあて、それは、全く明瞭な姿で、そこに現れてゐた。あの時と同じやうに完璧に、非の打ちどころのない姿で、そこにゐた。それは、像、偶然の創造した藝術作品。忘却の淵より忽然とあらはれいで、前とそつくりにつくりなされて、形式が与えられ、想像力の思ひ描いたもの。想像力とは、かくも、色彩鮮やかな、才能豊かな女、女の藝術家といふべきもの。
大きいものではない。小さいものだ。それに、そもそも全体的に造られてゐるわけではない。が、しかし、あの時と同じやうに完成して、そこにゐるのだ。とはいへ、しかし、完成してゐるにもかかはらず、暗闇の中を無限にどこまでも、どこまでも、四囲に、たふたうやうにして溶けひろがつてゐる。それは、すべて。それは、ひとつの世界。その中では、光りが細かくふるへ、さうして、静かで深い情趣がある。
光りがあるのに、それはひとつの世界であるのに、そこでは、全く音がしない。周囲の笑ひ声の騒がしさや喧噪も、一切この空間の中に入り込むことはない。さう、いまは、確かに周囲の騒音は、この中には侵入してこない。しかし、あの時は、さうではなかった。なんといふことだ。
ダマスク織が、一番下に敷いてあつて、それは、目が眩むほどの美しさだ。ダマスカスで織られた葉と華が、織物の上を斜めにぎざぎざに走り、丸く円を描き、うねうねとした模様を描いてゐる。この織物の上に、透明にぺったりとをかれ、華奢にすらりと鶴首のやうな脚が上に伸びて立つてゐるのは、その半身がしろがねで覆はれてゐる水晶の高脚坏(たかつき)。その前に、手がひとつ、夢見るやうに伸びてゐる。五本の指は、しどけなく、その聖杯の脚を、掴むともなくつかむやうにしてゐる。その高脚坏(たかつき)の脚を、いぶし銀の環が、柔らかく包んでゐる。その上には、血の滴るやうな素晴らしい色をして、一個の紅玉が象眼されてゐる。
さて、その柔らかい手首から上の部分が、徐々に徐々にと強い段階的な調子で輪郭をともなつて腕にならうとしてゐる、丁度そのところで、既にして、その手姿は、全く闇に溶けてゐる。甘美な謎だ。夢を見てゐるやうに、さうして静止して動くことなく、乙女の手が、そこに憩ふてゐる。その手の白い色、といつても内に籠つて抑へたやうな白の上に、やはらかく、淡青色の静脈が、脈打つて息づいてゐる、そこ、そこにのみ、生命が脈打ち、情熱がゆつくりと音を立ててゐる。この表象が、わたしの視線を感じるにつれ、次第に動きが激しくなり、興奮して野放図になつていつて、とうとう、哀願するやうな痙攣に至る。ああ、もうおしまひにしよう、もう。
しかし、あの時と同じやうに、わたしの視線は、重たく、さうして、何ともいひやうのない、厭ふべき肉慾で、喘いでゐるのだ。愛との戦い、愛の勝利が、活き活きと、脈打つてゐるその手の上で、わたしの視線が喘いでゐるのは、あの時と同じだ。あの時と同じだ。
ゆるやかに、高脚坏(たかつき)の底部から、ひとつの真珠が離れ、宙に浮いて、上へと昇つてゆく。この真珠が、紅玉の光り輝く領域に入るや、血のやうな紅に色を変じて燃え上がり、さうして、紅玉の面に接して不意に消滅した。と見るや、邪魔が入つたとでもいふやうに、すべては消え失せようとした。どんなに、わたしの眼が、そのやわらかな手の輪郭を画いて、その命を奮い立たせ、命を新たにし、蘇生させようと努力したにもかかはらず、それは、烏有に帰した。
さあて、お終いだ。どこかにいつてしまつた。暗闇のなかに溶けてなくなつてしまつた。わたしは、深く、深く、溜め息をつく。なぜなら、わたしが、この表象のことを、既にして忘れてしまつてゐるといふことを、わたしは知つてゐるから。それも、あの時と同じだ。
わたしが疲れて椅子の背凭れに背なを預けると、苦しみが、痙攣するやうに、わき上がつてきた。しかし、わたしは、あの時と同じによく知つてゐるのだ。お前は、かうなつても、わたしを愛してゐるのだといふことを。さて、そうして、だからこそ、わたしは、かうしていま泣くことができるのだといふことを。あのとき、わたしは、泣くことすらできなかった。
(拙訳)