2005年12月3日土曜日

So Forth 3


So Forth 3

The khairein takes place in the name of truth: that is, in the name of knowledge of truth and, more precisely, of truth in the knowledge of the self. This is what Socrates explains (230a). But this imperative of self-knowledge is not first felt or dictated by any transparent immediacy of self-presence. It is not perceived. Only interpreted, read, deciphered. (Dissemination > Pharmakon by Jack Derrida)

自己を知るために、主語である支配者の秘密を知るために、今日も言葉の聖杯探究の旅に出よう。

さて、今日も、Joseph Brodskyの詩集SO FORTHからSo Forthの第2連を。これはベルリンの壁の崩壊した1989年の作品です。やはり、どう考えても、政治の壁は、儚いものだとぼくは思う。すべて、このような無駄なことは、お金のためになされたことなのだということが、今よくわかる。そのようなもの達に災いあれ。さあ、今日もあなたと一緒に垂直の旅に出よう。

Six Years LaterやOn LoveやA Songのように、少しづつ、1連づつ解釈してみよう。今日の解釈と翻訳を、こうして明日の種としたい。


【原文】

The point, of course, is not autumn. And not oneユs own features, which
alter like those of an animal approaching the one whoユll catch
it. But this feeling of a puny paintbrush left idle
by the painting that lacks a frame, a beginning, an end, a middle.
Not to mention a gallery, not to mention a nail.
And a train in the distance runs whistling along the rail,
though you will spot no smoke inspecting its inventory.
But in a landscapeユs view, motion is mandatory.


【訳】
狙うその点は、勿論、秋なのではない。それから、その動物を捕らえようとしているそのひとに近付いて来るその動物自身の特徴や姿は季節に合わせて、秋なら秋の色に変化するわけだが、ひとも動物と同じとはいえ、そのように変化するひとの特徴や姿が、その点なのではない。そうではなくて、この点は、後で生まれた絵筆の感覚なのであり、絵筆の運びによって何もしないままの放っておかれた、何か根拠と言うものが欠落した、後で生まれた絵筆の感覚、しかも、この絵筆は、枠や開始や終了や中間点を欠いているのだという感覚なのだ。

画廊、ギャラリーのことをいっているのではなく、爪のことをいっているのではない。つまりは、どのような種類の絵筆のことをいっているのではないのだ。
AND、且つ、遠いところを走る汽車が、軌道に沿って走りながら汽笛を鳴らす。お前が、汽車の石炭の残量を検査するための煙りを発煙してもいないのに。
BUT、しかし、景色を眺めようとすると、その景色の中では、動きというもの、動きの連鎖は、誰が命ずるのかは知らないが、どうしたって存在せずにはいられないものなのだ。


【解釈】
1. この連で、いよいよ詩人は、この点とは何かという問いに答える。これは感覚でもあり、そうだとすると、絵画に例えていえば、しかも鑑賞者としてではなく、射手として狙撃者として、すなわち絵描きとして見れば、枠も最初の筆を措く点も、最後に筆を払う点も、またその中間状態での絵筆点もない、最終的に全体のバランス、on the whole、総体としての中に存在する点、それが、a puny paintbrush、後で産まれる絵筆の一刷毛(はけ)または、そのひと刷毛を備えた一本の絵筆の感覚なのだ。

2. 何故punyという形容詞かといえば、これは、後で現れる以外にはないから。時間の中での因果関係の連鎖では、いつもそのように本質は現れる。だから、生きている間には、既にして(a priori)という以外にはない、そのような点があるのだ。それは季節に応じて変化する保護色の外観や特徴とは無縁である。

3. わたしは、画廊、ギャラリーのことをいっているのではなく、爪のことをいっているのではない。つまりは、どのような種類の絵筆のことをいっているのではないのだ。

4. ANDの前に否定辞(NOT)を持って来るか、これが第2連、そうしてANDの後に否定辞(NOT)をもってくるのが、これが第3連。

  Summer, The point, Not, And, But, That, Travel

これらの7つの元素が、この詩の命だということは昨日書いた通り。The pointは、夏が終わり、その点でもなく、秋が来る、その開始点でもない。それではそのポイント、狙撃手の絵筆のネールアートのポイントではない、そのThatのポイントは何かという問いに対して、Brodskyは、(Not, And, But)で答えるのだ。

(1) Travel (Not, And, But)
(2) And (Travel, Not, But)
(3) But (Travel, Not, And)
(4) Not (Travel, And, But)

ぼくは否定論理積というこの世の論理ではないといって来て伝えたかった論理は、上記(4)である。このNotによって産まれる世界を詩というのだとBrodskyはいっているのだとぼくは思う。いや、ぼくもそうおもうのだ。詩は無限に無数に産まれる。

この(1)は、第4連の世界。(2)と(3)は、第2連、第3連、第4連の世界。第5連は、また第1連に繋がって戻るのだ。Hart Craneならば、To Brooklyn Bridgeで、condense eternityと呼んだあらゆる価値の大転倒の大循環のポイントである。そういえば、昨日思い出したことであるが、ドイツ語で詩を創作することをdas Dichtenというのだった。英語で、condenseまたはthe condensingであろう。

5. But in the landscapeユs view, motion is mandatory.
このmotionには、trainということから、loco-motion, locomotive motionという意味が掛けられている。日本語の訳にはすぐには出てこない。Trainとmotionということから、日本語では連鎖と訳した。

6. Thatとは何か
そうして、次の第3連で、この関係の総体を、Brodskyは、Thatと呼ぶのだ。

That (The point, Not, And, But)

という関係を。

そうして、That goes for autumn; that goes for time per seと。

7. And a train in the distance runs whistling along the rail,
though you will spot no smoke inspecting its inventory.

この従属文の意味は、多分蒸気機関車の時代の鉄道会社内外の約束ごと、取り決めだったのだと思う。国鉄時代の規則書をみれば、多分このように書いてある筈。機関士助手または釜炊き係は、何時間に1回又は何回に1回、石炭の残量、在庫を確認して、汽笛を何回鳴らし又は煙りを何回発煙して、石炭を補充するために、その在庫量を最寄りの駅または指定された駅に事前に知らせなければならない。


【語釈】
今日この連でひいた言葉は次の通りです。いつもの通り、Webster Onlineに当たって下さい。ぼくは、これ以外にどのような資料も見ていない。もともと持っていない。貧しさこそぼくの命だから。

9.-1 feature
9-2 puny
9-3 idle
9-4 spot
9-4-1 spot (noun)
10. motion
11. mandatory


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