【原文】
Verlorener Eifer
Ich kann ohne Liebe nich bleiben,
Ich bin so ungern allein.
Ich kann auch nicht weniger schreiben,
Mir faellt zu vieles ein.
Die Weibs- und Leserpersonen
Danken mir nicht nach Gebuehr.
Ich sollte mich besser schoenen.
Wenn ich nur wuesste, wofuer.
【散文訳】
失われた熱情
わたしは愛が無ければじっとして居られず、
わたしはかくも、嫌々ながら独りでいるのだ。
そうなると、わたしは実際少なく書くなんて事ができなくなり、
着想が過剰に湧いてくるのだ。
女や、読者という奴は
礼儀を弁(わきま)えて、わたしになんか感謝しない。
自分をもっとよくして美しく見せるものを、
もしわたしが何のためにそうするのかさへ知っているならば
(しかし、わたしは知らないのだ。)
【解釈と鑑賞】
Verlorener Eiferを、仮に、そのまま失われた熱情と訳してみました。
英語やドイツ語で、失われたという形容詞(あるいは過去分詞)は、駄目になったとか、おじゃんになった、とか、そんな意味があります。
さて、この詩をどのように解釈するか。読んだらいいのか。
愛がないということが、上の詩のわたしの状態を起こしているということがわかります。
どれも愛がないからこその行為であり、心理の状態である。
さて、このような詩を書く年齢は何歳位だろうかと考えてみる。
読者なんて奴輩(やつばら)などという言葉が出てくるので、この詩人が世に出てしばらくしてからのことでしょう。
さて、この詩人の人生や如何に、ということで、いつもの様にWikipeidaを見ることにします。
http://de.wikipedia.org/wiki/Peter_Hacks
この記述を読むと、このひとは当時の東ドイツの詩人です。
1960年代に、既に「社会主義的な古典」と呼ばれる作品を発表して、東ドイツの文壇に地歩を占めていたとあります。
東ドイツが崩壊した後も、ドイツ連邦共和国で活躍をし、注目される存在でした。
終生共産主義者であったようです。
しかし、政治と文学は何の関係もない。
もし関係を言えば、それは倒錯的な関係にあります。
この詩人にとっての共産主義も、そのようなものだったのだろうと思います。
(この倒錯的な関係を理解しない政治家は愚かであり、同様の詩人もまた愚かです。)
そうでなければ、東ドイツが崩壊したときに、共産主義を捨てて、日本人の言葉で言えば転向していた筈だからです。
そうではなく、首尾一貫していた人生であったということは、文学と政治の倒錯的な関係に生きた劇作家、叙情詩人、物語作家、エッセイストだということになります。
そうして、政治の側の人間はこの芸術家を誤解し、文学の側の人間もこの芸術家を誤解したことは間違いありません。
それぞれ、政治を文学的に考える方向から、また文学を政治的に考える方向から。
いづれも、愚かなことだと、わたしは思います。
どうやって、この芸術家は、そのような誤解から、その身を護ったのか。
この叙情詩を読む限り、愛を思いながらも、それはこの世では実現しないことを知っており、自分を美しく飾る目的も理由も知らないことについては十分よく知っていた詩人だと思います。
若いときの顔は、やんちゃな坊やという感じですが、1976年の顔は、そのような人生の深みを感じさせるような顔、というよりは風貌をしています。
きっとユーモアもあるひとだったのだと思います。
そう思ってWikipediaを読み進めると、自分の本業、本文は劇作家だと公言していて、その作品には豊かなユーモアがあったと、やはりWikipediaの記述には、あります。
思えば、20世紀は酷(ひど)い時代だったなあ。
こうしてみると、上の詩の愛とは、男女間の愛ではないことは明白です。
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