2012年2月25日土曜日

第10週: Widerspiele(敵対遊び)by Walter Hoellerer (1922-2003)



第10週: Widerspiele(敵対遊び)by Walter Hoellerer (1922-2003)

【原文】
Der Lattich blueht am Zaun.
Der weite Platz ist griebenbraun.
Es schwelt den Winter aus.

Der Lattich war mein Haus,
Das Latticheck.
Wir spielten dort zu zweit Versteck

im Maerz. Die Sonne schien
Gelbglaenzend, aber faul.
Der Fuhrmann schlug den Karrengaul.

Der zog den Muell, den Schutt.
Nach Staub rochs und Palmin,
Und ihre Puppe warf ich ihr kaputt.


【散文訳】

敵対遊び

レタスが、柵のところに咲いている。
広い場所は、明るい茶色をしている。
その場所は、冬をからからに乾かしている。

レタスは、わたしの家であった
レタスのある、その角っこは。
わたしたちは、そこで、ふたりづつに分かれて隠れんぼをして遊んだ。

それは、3月だった。太陽は輝き
黄色に輝いていたが、しかし腐っていた。
御者は、荷馬車の馬に鞭を当てた。

馬は、塵芥(じんかい)を運び、塵(ごみ)を運んだ。
埃(ほこり)臭く、椰子油(パーミン)の臭いがし、
そして、わたしは、それらの臭いの人形をぶん投げて壊してしまった。

【解釈と鑑賞】

この詩人のWikipediaです。

http://de.wikipedia.org/wiki/Walter_Höllerer

最後の「それらの臭いの人形」とは、比喩(metaphor)ととることもできるし、また実際にゴミで作った人形というようにもとることができます。

この詩の題名が、反対、反対する行動をとるということなので、この詩はなにを歌っているのかというと、小さな子供の、何かこう苛立つような、周囲に対する反発を歌っているのではないかと思います。

子供の不機嫌。

不機嫌から発する敵対的な遊戯、遊び。

その月が3月であること、早春の馬車馬。

日本人の早春と違って、きっとこの早春の荷馬車の馬は、何か鬱陶しいものなのでしょう。

そうして塵(ごみ)が、子供という存在と密接に関係しているように読むことができます。

大人になると忘れてしまうのですけれども。

わたしは、安部公房という詩人を思い出しました。


2012年2月19日日曜日

第9週: Februar(2月)by Miloslav Bohatec (1913-1967)


第9週: Februar(2月)by Miloslav Bohatec (1913-1967)

【原文】

Der greise Feber waermt sich
am Feuer die steifen Glieder.
Die Februa waren das Suehnfest der Buerger von Rom
den Toten brachte man Opfer dar
nackt liefen die Priester des Faun
durch die Strassen der Stadt
und schlugen die Frauen mit Riemen
auf dass fruchtbar sei deren Leib.
Die Sonne tritt ins Zeichen der Fische.
Im Hause des Jupiter empfangen
wird das Kind gleichmuetig sein
und eiskalten Herzens.
Der Mann von wilden Geluesten erfuellt
und niemals befriedigter Sehnsucht
ist im Wahne befangen
dass jeder Unbekannten Schoss
das hoechste Glueck auf Erden birgt.
Die Frau dieses Zeichens ist klug und belesen
reizvoll reizbar und stark
mit einem Feuermal auf dem Hintern
behaftet geht sie zugrunde
an der Einsamkeit in der Umarmung
ob naerrischen Einfalls
in verlassenem Haus.


【散文訳】

老いて白髪の2月が、火で
硬直した四肢を暖めている

かつて2月は、ローマの市民の贖罪の祭りだった
死者に犠牲を捧げ
裸体で、牧羊神の僧侶達は
町の通りという通りを駆け抜け
そして、女達を革紐で鞭打った
その体よ豊穣なれと

太陽は魚座の位置に入る。
子供は、ジュピターの家の中で迎えられ
平然と、そして冷たいこころでいることだろう

男は、野生の凶暴な欲望に満たされ
決して満足することのない憧憬を抱いて
狂気に捕われていて
見知らぬどの女性の胎内も
地上で最高の幸福を隠している。

この星座の女性は、賢く、そして博学であり
魅力一杯に魅力的で、そして強く
尻に母斑があって
捕われて破滅に至る
抱擁の中なる孤独に因って
愚かな、常軌を逸した着想から
打ち捨てられ、ひとの居ない家の中で
かどうかは知らないが


【解釈と鑑賞】
チェコの詩人です。

いつものようには、Wikipediaがありませんでした。

画像の検索にもヒットしませんでした。

詩を読みこむ以外にはありません。


魚座とは、黄道十二星のひとつ。

Wikipediaです。余り詳しくありませんが。

http://ja.wikipedia.org/wiki/うお座

子供とは、イエス•キリストのことでしょうか。あるいは、そうではなく、字義通りにとってもいいかも知れません。

何か占星学の知識が背景にあるともっとよく理解できるのかも知れません。

何かこう、やはりドイツ人ではなく、スラブ人だという感じがします。

2月生まれは、魚座だということ。

魚座の男や女は、この詩のようだということ。

この詩人は魚座の生まれだったのでしょうか。

とすると、自分の人となりと、その人生を、このように詩であらわしたということになります。

2012年2月11日土曜日

第8週: Verlorener Eifer(失われた熱情)by Peter Hacks (1928-2003)



【原文】

Verlorener Eifer

Ich kann ohne Liebe nich bleiben,
Ich bin so ungern allein.
Ich kann auch nicht weniger schreiben,
Mir faellt zu vieles ein.

Die Weibs- und Leserpersonen
Danken mir nicht nach Gebuehr.
Ich sollte mich besser schoenen.
Wenn ich nur wuesste, wofuer.


【散文訳】

失われた熱情

わたしは愛が無ければじっとして居られず、
わたしはかくも、嫌々ながら独りでいるのだ。
そうなると、わたしは実際少なく書くなんて事ができなくなり、
着想が過剰に湧いてくるのだ。

女や、読者という奴は
礼儀を弁(わきま)えて、わたしになんか感謝しない。
自分をもっとよくして美しく見せるものを、
もしわたしが何のためにそうするのかさへ知っているならば
(しかし、わたしは知らないのだ。)

【解釈と鑑賞】

Verlorener Eiferを、仮に、そのまま失われた熱情と訳してみました。

英語やドイツ語で、失われたという形容詞(あるいは過去分詞)は、駄目になったとか、おじゃんになった、とか、そんな意味があります。

さて、この詩をどのように解釈するか。読んだらいいのか。

愛がないということが、上の詩のわたしの状態を起こしているということがわかります。

どれも愛がないからこその行為であり、心理の状態である。

さて、このような詩を書く年齢は何歳位だろうかと考えてみる。

読者なんて奴輩(やつばら)などという言葉が出てくるので、この詩人が世に出てしばらくしてからのことでしょう。

さて、この詩人の人生や如何に、ということで、いつもの様にWikipeidaを見ることにします。

http://de.wikipedia.org/wiki/Peter_Hacks

この記述を読むと、このひとは当時の東ドイツの詩人です。

1960年代に、既に「社会主義的な古典」と呼ばれる作品を発表して、東ドイツの文壇に地歩を占めていたとあります。

東ドイツが崩壊した後も、ドイツ連邦共和国で活躍をし、注目される存在でした。

終生共産主義者であったようです。

しかし、政治と文学は何の関係もない。

もし関係を言えば、それは倒錯的な関係にあります。

この詩人にとっての共産主義も、そのようなものだったのだろうと思います。

(この倒錯的な関係を理解しない政治家は愚かであり、同様の詩人もまた愚かです。)

そうでなければ、東ドイツが崩壊したときに、共産主義を捨てて、日本人の言葉で言えば転向していた筈だからです。

そうではなく、首尾一貫していた人生であったということは、文学と政治の倒錯的な関係に生きた劇作家、叙情詩人、物語作家、エッセイストだということになります。

そうして、政治の側の人間はこの芸術家を誤解し、文学の側の人間もこの芸術家を誤解したことは間違いありません。

それぞれ、政治を文学的に考える方向から、また文学を政治的に考える方向から。

いづれも、愚かなことだと、わたしは思います。

どうやって、この芸術家は、そのような誤解から、その身を護ったのか。

この叙情詩を読む限り、愛を思いながらも、それはこの世では実現しないことを知っており、自分を美しく飾る目的も理由も知らないことについては十分よく知っていた詩人だと思います。

若いときの顔は、やんちゃな坊やという感じですが、1976年の顔は、そのような人生の深みを感じさせるような顔、というよりは風貌をしています。

きっとユーモアもあるひとだったのだと思います。

そう思ってWikipediaを読み進めると、自分の本業、本文は劇作家だと公言していて、その作品には豊かなユーモアがあったと、やはりWikipediaの記述には、あります。

思えば、20世紀は酷(ひど)い時代だったなあ。

こうしてみると、上の詩の愛とは、男女間の愛ではないことは明白です。





2012年2月4日土曜日

第7週:Ich staune(わたしは驚く)by Franz Werfel (1890-1945)


第7週:Ich staune(わたしは驚く)by Franz Werfel (1890-1945)

【原文】

Ich staune

Ich staune, dass die rote Farbe rot ist.
Ich staune, dass die gelbe gelb erglimmt.
Ich staune, dass was ringsum lebt nicht tot ist.
Und dass was tot ist, nicht ins Leben stimmt.

Ich staune, dass der Tag alltaeglich nachtet,
Wenn ihm das Licht verwest zur Daemmerung.
Ich staune, dass fruehmorgens ueberfrachtet
Von Sonnenglueck, ein neuer kommt in Schwung.

Ich staune, dass durch alle Lebenssprossen
Das Mann- und Weibliche geschieden bleibt.
Und diese Zwieheit niemals ausgenossen
Als Wonne unsre Herzensfluten treibt.

Mein Staunen ist kein Forschen nach dem Sinne.
Mein Staunen ist des Sinnes selbst der Sinn.
Nur durch Erstaunung werd ich meiner inne.
Ich staune, dass ich staune, dass ich bin.

【散文訳】

わたしは驚く

赤い色が赤いということに、わたしは驚く。
黄色が黄色い微光を発して燃えだすことに、わたしは驚く。
周囲に生きているものが、死んでいないということに、わたしは驚く。
そして、死んでいるものは、生命の中に調和して入ってこないということに。

一日が毎日夜になることに、わたしは驚く、
昼の光が衰えて夕暮れになると。
朝早くに太陽の幸福が過剰に積まれて、新しい日が一気に盛んになることに
わたしは驚く。

すべての生命の芽吹きを通じて
男性的なるものも、女性的なるものも、分かれて、こうしてあるということに
わたしは、驚く。
そして、このふたつながらあるということが、決して歓喜として味わい尽くされることなく、わたしたちのこころの笛を奏(かな)でるということに。

わたしの驚きは、意味の探究ではない。
わたしの驚きは、意味の意味自体である。
驚くことによってのみ、わたしはわたしを理解する。
わたしが有るということにわたしが驚くことに、わたしは驚く。


【解釈と鑑賞】

この詩人は、ドイツ文学史上に名のあるオーストリアの小説家、劇作家、そして詩人です。

この詩人の英語のWikipediaです。

http://en.wikipedia.org/wiki/Franz_Werfel

また、日本語のWikipediaです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/フランツ・ヴェルフェル

不思議とドイツ語のWikipeidaがありません。

解釈は不要の詩ではないかと思います。

そのまま味わって下さい。

而(しか)して、こうして鑑賞もまた書かずに済むことに、わたしは驚く。