Ueber dem Igel(ハリネズミの上を):第25週
by Elisabeth Borchers (1926年生まれ)
【原文】
ueber dem igel
kreiste ein storch
bekomme ich jetzt
einen igel
fragte der igel den igel
【散文訳】
ハリネズミの上を
コウノトリが旋回していた
さてさて、ハリネズミを一匹捕まえたわい
ハリネズミがハリネズミに質問した
【解釈】
この詩は、見かけは単純ですが、中身は複雑な詩です。
この詩は一体何をいっているのか。
上の訳をもっと行間の意味を汲みとって、散文解釈的に訳すと次のようになります。
ハリネズミの上を
コウノトリが旋回していた
さてさて、ハリネズミを一匹捕まえたわい
さてさて、ハリネズミを一匹捕まえたのか?
と、ハリネズミがハリネズミに質問した
それでも、なお解らない。
最後の一行は何をいっているのだ?
最後の一行の最初のハリネズミとは、空を旋回しているコウノトリのことをいっているのではないだろうか。
(つまり、目糞鼻糞を笑うというような意味合いで。)
そうすると、二つ目のハリネズミは、地面にいるハリネズミなのだろうか。
または、最初のハリネズミは、コウノトリの上を更に飛んでいて、コウノトリを狙っている別の鳥のことをいっているのだろうか。
そうだとして、二つ目のハリネズミは、それでは、どういうことになるのだろうか。
しかし、その動物を狙っている動物が、その獲物に質問するということはないだろう。
それとも、話は逆で、最初のハリネズミは、地面にいる本物のハリネズミで、二つ目の目的語のハリネズミが、コウノトリのことを言っているのだろうか。
してみると、この詩を難しくしているのは、やはり、最後の一行だということになる。
ハリネズミがハリネズミに質問したという最後の一行があるので、そこまで読んできて、その直ぐ上にある第2行目、即ち、bekomme ich jetzt einen igel、さてさて、ハリネズミを一匹捕まえたわいという(コウノトリの独白の)平叙文が、さてさて、ハリネズミを一匹捕まえたのか?という(ハリネズミの発する)疑問文に変ずるのだ。
それとも、この最後の一行は、最初のハリネズミも二つ目のハリネズミを、本当のハリネズミであって、第2番目の文の目的語になっている一匹のハリネズミを最初のハリネズミが捕まえたのだろうかと、二つ目のハリネズミに質問している、全然それまでの文脈とは別の文脈が、この最後の文の意味するところなのであろうか。
この詩人のことは、ドイツ語でWikipdiaがあります。
http://de.wikipedia.org/wiki/Elisabeth_Borchers
Googleの画像検索でみると、このような女性です。
http://goo.gl/B6dZF
子供と大人のためのアンソロジーを数多く編纂している詩人です。
この詩も、、確かに、子供にも大人にも、誰が読んでも、ひとつの謎の詩です。
7 件のコメント:
ich はハリネズミだと思います。だから、コウノトリが頭上に旋回している。
で、地上では、上に気をとられていたハリネズミがもう一匹のハリネズミに捕まった。
もしコウノトリが捕まえていたのなら ich ではなくて er にしていたと思います。
一晩寝て考えたのですが、ハリネズミの自問自答、コウノトリに捕らえられる自分の運命に対して。
だからハリネズミは一匹。
自分を ich や du や Sie で、表現する場合がありますが、ich 場合は運命、du の場合は未来への選択、Sie の場合は突き放した自分と。
謎めいた詩ですね。ノートに書き写してみましたので、色々考えてみます。
それだけでなく、ハリネズミはコウノトリに捕まえられしまうもの、ということも知らなかったので、それにも驚きました。
杉山さん、ゆうこさん、
この詩の題名を訳していて、確かに本文との関係では、ハリネズミの上を(コウノトリが旋回している)なのですが、この題名そのものを最初に問題にした場合には、ハリネズミについて、という訳もあり得るなあと思いつきました。
ハリネズミとは、このような生き物だよ、という意味に、この詩は、なるでしょうか。
ゆうこさん、杉山さん、
最後の一行に、目的語として出てくるハリネズミが何かが鍵だと思います。
このハリネズミには定冠詞がついていて、ある特定のハリネズミなのです。
ですから、それまでの、この詩の中に出てきている既知のハリネズミか、あるいは、この詩の中に出ている何かを、そのハリネズミと呼び変えているということになります。
さて、だから、どうなんだということになりまうが。
それから、俺はハリネズミを捕まえたのだろうかというコウノトリの自問は、その次の最後の文によって、ハリネズミの自問に変異してしまう、すりかわってしまうという仕掛けになっています。
まあ、謎の多い、詩ですね。
先日『メルカー・バスタイ』の件で匿名でコメントしたものです。
文学テキストの独和翻訳には慣れていますが、詩については素人なので、takrankeさんの投稿を興味深く拝読させていただきました。
この詩は、飛んでいる鳥がドイツ語圏を含むヨーロッパで「子供を運んでくる」迷信の象徴である「コウノトリ」であることがミソだと思います。
情景としては、オスメス一対のハリネズミが地上おり、その上空をコウノトリが旋回した。
その時にメスのハリネズミがオスのハリネズミに向かって「私に子供が出来たのかしら?」(bekomme ich einen igel?)と聞いた、というのが内容です。
(動物の場合、名詞の性別を定冠詞として使うため、メスであってもオスであってもハリネズミはDer Igelとなります)
ドイツ語圏では今でも、母親が妊娠すると、幼い子供に「おかあさんはコウノトリに噛まれたんだよ」と説明するのが珍しくないので、コウノトリが来る=妊娠という連想は自然に生まれます。
では、この詩ではコウノトリがその上空を飛んだのが何故人間ではなく、ハリネズミである必要性があるのか。
心理用語の『ハリネズミのジレンマ』はご存知かと思います。ハリネズミは互いが刺を持っており、近づくと互いの刺で傷つくため、近づきたくても近づけない。「繊細な人は他者との対人距離を取るのが難しい」という意味でも使われるようですが、「ハリネズミ」とはこの詩の場合も、そういう象徴だと思います。つまり、この「ハリネズミ」たちは、互いに充分に近づくことがなかったのに、上空をコウノトリが旋回しただけで「妊娠した」と思っている…
それを愚かと言うか、想像力豊かと言うかは、読者に委ねられています。
そして、キリスト教社会がそんな伝説(無原罪の御宿り)から成り立っているということについて、どう思うかについても。
しゅにっつぇるさん、
コメント、どうもありがとうございます。
お礼を申し上げるのが、遅くなりました。
コウノトリが子供の誕生と関係があることは、わたしの浅学の知識の中にもあるので、それはそう思っているのです。
さて、そうだとして、ハリネズミとコウノトリはわかりますが、うーむ、3,4,5行目が含みの多い詩行だと、やはり、こうしてあとで眺めても、思うのです。
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