2009年7月19日日曜日

リルケの空間論(個別論):悲歌2番第3連


リルケの空間論(個別論:悲歌2番第3連)

悲歌2番第3連だけが、リルケの空間論の特徴を示しているわけではなく、それは悲歌10篇に及ぶことなのですが、しかし、とりわけこの悲歌2番第3連は、その前の第2連が天使について、それがどのような存在かを実に明確に歌い上げていることから(「天使論」(200974日)参照)、その後に来る第3連で歌われている「わたしたち」については、第2連の天使との対比で、悲歌1番とは別の面からも「わたしたち」のことが一層よく解り、またリルケの空間論の具体的な例としてもおもしろく読むことができますので、この第3連を読解することにいたしましょう。
前の第2連の最後の3行では、天使たちが、この世で、無数にある、鏡の空間に変身してわたしたちの日常に存在しているのでした。悲歌1番第1連にあったように、天使は、das Schoenste、ダス・シェ-ンステ、最も美しきものでありました。それゆえまた、天使は、地上において、自分自身から流れ出た本来の美、美しさを、再び創造して、そのかんばせに汲み戻すということを絶えず行っているのです。

それから、わたしは、「天使論」(200974日)で次のように述べました。
「しかし、このようにploetzlich、プレッツリッヒ、突然、不意に、何の脈絡もなくという副詞を使うということは、リルケは、一つの空間に少なくとも一つの時間が存在していると考えていたことになります。これをどのような空間的な表象に転化するか、これがリルケの詩をむつかしく見えさせている原因だと思います。」

リルケは、時間的な現象を、一体どのように空間的な表象に転化しているか、このことに着目して下さい。

さあ、これらのことを念頭においた上で、第3連を読みましょう。最初に原文を示し、その後にわたしの散文訳をつけることにします。

Denn wir, wo wir fühlen, verflüchtigen; ach wir
atmen uns aus und dahin; von Holzglut zu Holzglut
geben wir schwächern Geruch. Da sagt uns wohl einer:
ja, du gehst mir ins Blut, dieses Zimmer, der Frühling
füllt sich mit dir... Was hilfts, er kann uns nicht halten,
wir schwinden in ihm und um ihn. Und jene, die schön sind,
o wer hält sie zurück? Unaufhörlich steht Anschein
auf in ihrem Gesicht und geht fort. Wie Tau von dem Frühgras
hebt sich das Unsre von uns, wie die Hitze von einem
heißen Gericht. O Lächeln, wohin? O Aufschaun:
neue, warme, entgehende Welle des Herzens -;
weh mir: wir sinds doch. Schmeckt denn der Weltraum,
in den wir uns lösen, nach uns? Fangen die Engel
wirklich nur Ihriges auf, ihnen Entströmtes,
oder ist manchmal, wie aus Versehen, ein wenig
unseres Wesens dabei? Sind wir in ihre
Züge soviel nur gemischt wie das Vage in die Gesichter
schwangerer Frauen? Sie merken es nicht in dem Wirbel
ihrer Rückkehr zu sich. (Wie sollten sie's merken.)

(天使という鏡が自身から流れ出た美を創造して自身の顔に汲み戻すということにつき、何故天使がそうするかというと)何故ならば、わたしたちが感じるところ、感じる場所では、わたしたちは、いつも何かを発散させ、揮発させて、減ってゆき、衰えて行くからだ。ああ、わたしたちは、自分自身を、呼吸をして吐き出し、そうして、彼方へ行く(年老いて、死んでしまう)。というのも、熾(お)き火から熾き火へと、火を熾(おこ)すために息を吹きかけて、息を吐いて行くごとに、わたしたちは臭いを発散させてゆき、その臭いは、段々と弱まってゆくからだ。だから、誰かが、わたしたちに向かって、こう言うだろう。そうさ、お前さんが、わたしの血の中に入ってゆく、この部屋の中にも、この部屋も、春も、お前で一杯になる、と。だから、どうなるというんだ。春も、わたしたちを同じ状態にとどめることはできないし、わたしたちは、春の中で、春をめぐって、小さくなり、減ってゆく、衰えて行く。そして、美しいひとたちは?ああ、誰がこのひとたちが美を失い、衰えてゆくのを抑えておくだろうか。(そんなことは、できない。)絶えず、美しいひとたちの顔の中には、それらしい様子、見かけが、立ち上がり、そして、先へとどんどん進んでゆく。(変化して行く。)早朝の草の露のように、わたしたちの私達であるものは、立ち上がる、熱い料理の熱気のように。あ、微笑んでいるのか、どこへ行くんだ?ああ、仰ぎ見てごらん。新しい、熱い、逃れ出てきた波、心臓、こころの波を。わたしには傷ましい思いがするが、わたしたちは、何と言っても、そのような存在なのだ。そうすると、この世界空間は、わたしたちは、その中にわたしたちを解きほどいているのだから、わたしたちの味がするのだろうか?天使たちは、本当に、自分たちのもの(*)だけを、自分たちから流れ出たものだけを、受けとめ、捕らえているのだろうか?それとも、時には、間違ったかのようにして、わたしたちの本質の少量が、その中に紛れ込んで、入っていることがあるのだろうか?

妊娠している女性たちの顔の中に曖昧なものが入って行くのと同じ位の量で、わたしたちは、天使たちの行列、隊列の中に、ただ紛れ込んでいるだけなのだろうか?天使たちは、自己、自分自身に帰還する(行列、隊列の)渦巻きの中にいて、そのことに気がつかない。(どうして、気のつかなければならないということがあろうか。そんなことはない。)

(*)わたしの当たったテキストは、みな大文字のIで始まるIhrigesで、これでは、あなたのものという意味になる。しかし、詩中の一人称のわたしは、目の前に天使をおいて呼びかけているわけではない。Iが小文字ならば、次の「彼ら(天使たち)から流れ出る」の「彼らから」の「ihnen」に平仄があっていて、問題はないのであるが。ここでは、大文字のIではなく、小文字のihriges、彼ら(天使たち)のものという訳にした。ここは、テキストを精査する必要あり。
さあ、一体、これは、何を歌っているのでしょうか。
リルケは、時間的な表象を、空間的な表象に転化して表現しているということは、おわかりでしょう。リルケは、儚くなるとか、年をとるとか、死ぬとか、そういう言葉は使わないのです。死ぬという言葉のことでいいますと、リルケは、この悲歌では、生きているとか、死んでいるとか、そのような識別、区分けを一度もしていません。悲歌の世界に生死の別はないのです。
さて、それでも、ここには、どういう考えが働いているのか、この第3連の中から解る限りのことを、抽出し、書き上げ、考えてみましょう。

「天使論」(200974日)の中で言いましたように、天使は、この世では、鏡に姿を変えている。そうして、天使は美しきものであるということから、そもそもの美、本来の美を創造して、自分の顔の中、鏡の中の空間へと汲み戻している。なぜ、自分の顔の中へ美を汲み戻すかというと、それが天使の顔から流れ出たからです。悲歌2番第2連にあるように、天使は、空間でした。ここで考えられていることは、ある空間からは、その中にある本来の性質、本質が流れ出して行くということでしょう。

わたしたちひとりひとりも空間ですので、わたしたちひとりひとりからも、それぞれの性質が流れ出すのでしょうか。わたしたちの場合には、リルケは、流れ出すとはいっていません。発散し、揮発する、臭いを発する(それも段々弱くなってゆく)といっています。これが、天使と人間の性質、本来の性質という意味ならば、本質の相違なのでしょう。
わたしたちの本来の性質を、リルケは、das Unsre von uns、すなわち、わたしたちの私達のものと表現しています。これは、やはりこのように理解し、訳出しなければならないと思います。どんなに奇妙に見えても。リルケは、わたしたちの中から、私達であるものを抽出しているのです。わたしたちの共通集合であるものを、空間を、場所を。そうして、それを、わたしたちの私達のもの、と呼んでいるのです。

リルケの空間は、移動する。上昇したり、下降したり(天からこの世へと)するので、これは、一体生きているのだろうか?と、考えることができます。天使は生きているのだろうか。でも、リルケはなんとも言っておりません。天使という空間の生死のことは、言っていない。また、思い出して、悲歌1番第1連の最後から2行目を読むと、わたしたちは、空間を呼吸することもできている。空間が、わたしたちひとりひとりの空間の中に呼吸を通じて入ってくる。

それに、上の第3連では、わたしたちの私達のものが、どうも微笑んでもいるらしい。どう考えても、そのものが、微笑んでいる。リルケの歌うものには、意志があるのでしょうか。それは、生き物なのでしょうか。生きているのでしょうか。どうでしょうか。

悲歌1番第2連5行目では、春との委託契約(春がわたしに委託する)が出てきますから、春という空間にも―上の悲歌2番第3連の春は、わたしという一人称で自らを満たす空間でした―何か意志があるのでしょうか。もの、空間、場所の意志の問題については、リルケは、悲歌5番で、第1連からそのことに触れていますので、この問題は、そこに至って考えることにして、ここでは、その問題は、頭の隅において、留めておくことにして、第3連に話を戻しましょう。

上の第3連にあることを、箇条書きに抽出してみると、次のようなことになります。

1.わたしたちの本質(本来の性質)は、空間を満たす。
2.わたしたちは、生きている間に徐々に、量として減ってゆく。
3.減った分の量は、わたしたちの体という空間から発散し、揮発し、上って行く。
4.減った分量の分だけ、わたしたちは、臭いを段々弱く発散してゆく。(普通の表現ならば、死に向かって弱ってゆくと書くところでしょう。)
5.このような減量は、感ずる場所、感ずるところで、生まれる。(リルケは、わたしたちが感じるときに、とは言っていません。あくまでも空間的に、感じるところ、場所で、なのです。)
6.人間の美は、ただ失われるだけである。天使のように創造して本来の美を汲み戻すことはできない。いや、人間の美は、本来の美ではないということだ。
7.わたしたちの共通集合部分、すなわち、わたしたちの私達のものが上に昇って行くことは、早朝の露や熱い料理の熱気と同じで、自然現象である。止めることはできない。
8.しかし、そのような上昇する自然現象には、同時に、心臓、こころというもの、こころという空間から生まれ出る、新しい、暖かい波、波動を生み出すか、伴っている。(この波動とは何だろうか。それから、リルケは、わたしたちの心臓とは言っていない。心臓であるもの、である。悲歌2番第1連の天使の心臓が、天使の個別の心臓、こころではなく、そもそもの、本来の心臓、こころであることに、人間としては(人間のレベルでは)、対応していると考えることができる。)
9.世界空間という空間も食べて味わうことができる、かも知れない。これは、リルケのユーモアだと思う。
10. わたしたちの本質が、上へと上昇してゆくときに、天使たちもまた、天にいる自分自身に帰還するために隊列を組み、行列をなして、渦を巻いて昇ってゆくので、間違って、わたしたちの本質も少量ではあるが、紛れ込んでしまうことがあるかも知れない。もしそうならば、わたしたちも、最上位の空間に到達して、天使の一部となるかも知れないのだ。そうだとして、勿論天使たちは、そのことを知らない。

以上10点を抽出しましたが、これから悲歌10篇の中で、これらがどのように関係しているのか、また表現されているか、気をつけてみてゆくことにいたしましょう。

このように書いてきて思うことは、リルケという人は、ただただ空間を純粋なものしたかったということです。時間的な表象を空間的な量的な表象に変換することによって。そして、その空間の中では、針一本落ちる音すらもしない。

最後に、もう一度、天使たちのことです。この地上に降り立ち、鏡に変身した無数の天使たちは、流れ出た本来の美を、本来の顔に汲み戻して、隊列を組んで、壮大な渦巻きとなって天上へと向かってゆくのですが、天上へ行って、一体どのような姿に戻るのでしょうか。無数の天使たちは、無数の天使たちのまま、天上に戻って、無数の天使たちでいるのでしょうか。そうではありません。

天使たちは、天上の空間に戻って、ひとつの、唯一の天使になるのです。それが、原文では、in dem Wirbel ihrer Rückkehr zu sich自己、自分自身に帰還する(行列、隊列の)渦巻きの中にいて、と訳したところです。この天使は、自分自身に戻って、一体どんな天使になるのでしょうか。それは、悲歌2番第17行目に歌われている唯一の天使に戻って、der Erzengel、大天使と呼ばれているのです。これは、悲歌1番第1連に出てくる天使同様、der gefaehrliche、危険なる天使と呼ばれていて、この地上にそのままの姿で現れたならば破壊的な力を発揮する。

リルケは、この悲歌2番第1連で何故、天使の具体的な名前を言わず、最も輝かしいもののうちのひとりが戸口に立ったと言ったのでしょうか。それは、トビアスの神話的エピソードを借りてはきても、この連に、従ってこの詩に登場する天使は、リルケの天使だからです。リルケは、ミヒャエル、ガブリエル、ラファエルと言った具体的な天使の名前を出しておりません。宗教の世界では、大天使という名のもとに、そういった複数の天使が存在するようですが、それらの天使ではありません。

「天使論」(200974日)で、次のように論じました。
奇妙なことですが、リルケは、決して、天使の個別の心臓、天使の個別の美、天使の個別の顔を歌っているのではありません。このように、所有代名詞を使わずに、つまり彼の手とか、彼女の脚といった、主語に関係のある指示をすることなく、そうはしないで、必ず、定冠詞と形容詞と名詞という組み合わせで、体の各部位の名を、そうして必ず、eigen、アイゲン、そもそもの、本来の、固有のという意味の形容詞をつけて呼ぶのです。これは一体どういうことなのでしょうか。リルケは何をいいたいのでしょうか。
リルケは、あくまでも天使の存在の完全性をいいたいがために、そのような表現をしたのだということです。天使は、もともとの、オリジナルの、固有の美をその身に備えているのです。
天使たちは、最上階の空間に戻って、そもそもの、本来の美を備えた唯一者、Erzengel、エルツエンゲル、大天使に戻り、なるのです。

さて、とはいえ、逆に、リルケの大天使も、次第に序列の階層を降りてくるにつれ、複数の天使に分身、変身、何かに化身をして、果ては、天使の序列の存在する空間をも越えて、この地上に無数の鏡の天使となって、舞い降りているのです。

悲歌1番第1連では、もしそのまま現前すれば、そのエネルギーの威力によって、わたしやわたしたちの身を滅ぼしてしまうほどの天使ですが、空間の階層を下ってくるにつれ、そのエネルギーも本来の美とともに、自分自身から流れ出て行くのでしょう、地上では、わたしたちの受け入れることのできる鏡の空間となって、日常生活の中に共存してくれているというわけです。この地上での、天使の働き、専ら美という関係において、天上と地上をつなぐ接続の機能については、既に述べた通りです。

何故、わたしが、こんな天使像を思い描くかというと、悲歌の中で、リルケが1、einsという名詞を主語にして文を作っているところが複数個所あるからです。1とは、全体の謂いです。それから、天使論で論じたこと、さらには、やはり、今までに述べてきた、悲歌の中にあるリルケの空間に対する考え方から推測、推論してみたことです。

さて、最上階にいる大天使の話ができましたので、次回は、リルケが、悲歌2番第3連に出てきた世界空間、Weltraum、ヴェルトラウムをどのように考えていたか。そのことを論じたいと思います。これは、「リルケの空間論(一般論)」(2009718日)の続きです。そこで論じたような、そのような空間がたくさんあるとして、それを無数に想像することができますが、それは一体結局、全体としては、どのような姿をしているのかということです。

リルケは、その全体の姿を薔薇に見つけ、薔薇に象徴させたのだと、わたしは思います。空間論の一般論の部の最後に、リルケの墓碑銘である薔薇の詩を解釈したいと思います。

2 件のコメント:

Aki さんのコメント...

「妊娠している女性」という言葉は、リルケの「マルテの手記」にも出てきます。以下に引用しておきますが、詳細は本宅のブログを読んでくださいね。


一夜一夜が、少しも前の夜に似ぬ夜ごとの閨の営み。産婦の叫び。白衣の中にぐったりと眠りに落ちて、ひたすら肉体の回復を待つ産後の女。詩人はそれを思い出に持たねばならぬ。死んでいく人々の枕元についていなければならぬし、(中略)・・・・・・追憶が多くなれば、次にはそれを忘却することができねばならぬだろう。そして思い出が帰るのを待つ大きな忍耐がいるのだ。(中略)一編の詩の最初の言葉は、それら思い出の真ん中に思い出の陰からぽっかり生まれてくるのだ。

takranke さんのコメント...

Akiさん、

コメントありがとうございます。

悲歌の中でリルケが譬えで言っている妊婦の顔(複数)の中に入り込む曖昧なるものとは、その文脈からいって、変化するもの、発散、揮発するもの、死に向かうものという意味です。これに対して、天使的なものは、変わらないものということになります。美、美しきもの、です。

「詩人はそれを思い出に持たねばならぬ。死んでいく人々の枕元についていなければならぬし、」というところに関係がありますね。