2009年7月22日水曜日

リルケの空間論の一般論の部の続きをどうやって


リルケの空間論の一般論の部の続きをどうやって、どの方面から書いたら、一番解りやすく、整理されて、説明ができるだろうかということを考えている。リルケの考えるところに即して、無理なくということである。


今わたしの頭に浮かぶのは、次の2つの入り口から入ることだ。

1.Erkennen、エアケンネン、認識するという動詞と、zuschauen、ツーシャオエン、観るという動詞の相違から説明を始める。リルケは、前者ではなく、後者のひとである。事物の創造を認識にではなく、観る当の空間に求めるのである。
2.悲歌5番から始める。

上記2の場合には、この悲歌は、空間論または次元論をもちろん詩の重要な部分として含むが、その空間を歌うに際し、リルケは同時に(同時に、などといってよいものであろうか。リルケならば、空間を歌う場所で、というところであろうが)、die Liebenden、ディー・リーベンデン、愛する者たち、愛している者たちという人間の集合と、die Toten、ディー・トーテン、死者たちという人間の集合(これも人間といってよいであろう)について歌っているので、空間と、これらの人間の集合の関係を論じなければならないのだ。

しかし、そうなってくると、実は、悲歌1番と2番に、これらの人間群像が対比的に歌われているので、やはり、「リルケの空間論(一般論)」(2009718日)の追記にて触れたように、登場人物たちのうち、説明をまだしていない残りの関係を論ぜずには、悲歌5番の話も前に進まないということになるだ。さあ、どうするか。

登場人物相関論は、いづれ通おらねばならない関所であるから、やはり、そこを通ってから、悲歌5番を空間論の観点から論じることにしようか。この思考の順序だと、いやでもそういうことになりそうだなあ。

悲歌5番第1連は、人間の意志について歌っているが、この第1連をみるだけでも、リルケは、意志よりも空間が優先していて、空間の中で意志も動いているということになる。この場合の空間は、その歌い方からして、すぐさま宇宙空間の話になるのであるけれども。
このようなことを書いてきてわかることは、リルケは、悲歌1番と2番を最初に書き上げ、その後繰り返し繰り返しそれらを読み、熟考を重ねて、それ以外の悲歌を書いたということである。悲歌1番と2番がわかったならば、その他の悲歌のことも解ると、わたしは思うし、考える。

今日は、わたしの迷いをそのまま書いた。

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