荒巻義雄第一詩集『骸骨半島』を読む(2)
老人と飛行士
0。SF文学とは何か
この間、詩集『骸骨半島』を更に読み、巽孝之氏編著『日本SF論争史』を通覧し、『定本荒巻義雄メタSF全集第3巻 白き日立てば不死』を手に取り、この詩人のweb小説『ムーアから来た男』を読み、一体SFとは何かといふ問いを立てて答えて見た。それは、かうである。
SF文学といふ言葉が普通に使われてゐる以上、人の世の言葉についての常で、意味はよくわからないけれども、何か意識の深いところで人は其の意味を了解してゐるに違ひない。さうであれば、これもまたさう呼ばれる以上、文学の何かであり何かの文学である。それでは、文学とは何かといへば、これは私の二十歳前後以来変はらぬ定義であるが、文学とは、言語に拠る藝術、即ち言語藝術である。そして言語とは何かといへば、言語は機能である。これが言語の本質を考へれば誰でも至る言語機能論である。これは安部公房の専売特許ではない。さて、言語が機能だとして、この言語機能を用ゐた言語藝術の最高度のものが詩(poetry)である。これは前回(1)の私の詩の定義に拠れば、詩(poetry)は連想の藝術であり、同じことがアリストテレスによれば、連想は人類最高の能力であるといふからには、詩こそ言語藝術の最高度のもの、即ち俗にいふ文藝の華、文学の精華である。とあれば、文学の精華は詩である以上、SF文学にもSF詩といふものがあらう。さて、ここでかう考へる。
一体、SF詩と非SF・詩の間に違ひはあるだらうか?
あるとすれば、選択する素材と対象の相違だけではないか?
私はさう思ふ。とすれば、SF文学と非SF・文学の相違は、詩が其の言語による文藝の精華であり最高位にある言語表現であれば、その下位に位置する言語藝術である小説にも、全く無いことになる。文学は文学であるといふ再帰的な一行を書く以外にはなく、しかしまた、書くことができる。勿論、文藝の最高位に位置する小説も、当然あるのであり、その中には詩を歌ふといふ、我が国の伝統に照らせば大和物語以来の歌物語を書く、安部公房のやうな古典的・伝統的な日本語の作家もゐるわけである。
安部公房が十代から二十代前半まで表立つては詩人であり、実際には生涯詩人でありながら小説を書いたことと(それは下記のスペクトラムに示すところによれば安部公房の書いた全ての小説はSF小説だといつても一向さしつかへないものである)、荒巻義雄といふSF作家が、今まで実は詩人が小説を書いてゐたのだといつて70歳を超えてから此の第一詩集を出したことは、文学といふ藝術の本質に関する、topologicalに時間を捨象して幾何学的に対称的にある何か表裏一体のこととして思はれる。
安部公房は戦後直後の二代詩誌『荒地』と『列島』の、後者の創刊号の編集委員であり、前者の詩人集団は此の詩人が「東京での遊学時代『荒地』で育った世代だ。今は一九五一年のもの一冊しか残っていないが、同人らの詩は新鮮で実験的で、生気に満ち、若者の心を揺さぶったのである。(『荒地詩集1951』国文社)」と語つてゐる(詩集の「覚え書き」、99ページ)こともまた、下記の[註1]と相俟つて、ここでも二人の詩人は表裏一体の関係にあるやうに思はれる。二つの詩誌に共通するのは、シュールレアリズムです。といふことは、この詩人と安部公房に共通するものの一つは、シュールレアリズムだといふことになります。
[註1]
『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)より引用してお伝へします。
「[註8]
『列島』は、敗戦後の日本語の世界の二大詩誌『荒地』と『列島』の片方の雄であり、『荒地』と並んで詩の新たらしい潮流を生み出した詩誌でした。
『列島』がシュールレアリスムからドキュメンタリズムを志向する詩誌であり、尚且つその詩誌の名前が列島ということから判るように、日本の国と国民のあり方を問題意識に持っていて、サークル詩の活動を組織して、全国的に組織だった活動を行ったのに対して、『荒地』は、個人としての詩人を中心に、お互い自律的にその活動を行った詩誌です。後者の現実認識は、大東亜戦争敗北後の日本の国土は、その精神の国土も含めて、荒地であるというものであり、詩誌の名前はそのことに由来します。二つの詩誌に共通するのは、シュールレアリズムです。後者にあって前者にないのは、戦前からのモダニズムです。前者『列島』は、1952(昭和27)年3月創刊,1955(昭和30)年3月終刊、後者『荒地』は、1947(昭和22)年9月創刊、1948(昭和23)年6月終刊。『列島』と安部公房については、稿を改めて論じます。」
結局、此のやうな考への順序を踏むことと、冒頭に挙げた作品を読んで至った私の結論は次のやうな、階調で表した文学地図とでもいふべきスペクトラム『近代日本文学と科学のスペクトラム』である。二つのスペクトラムの帯は横に開いてありますが、両極端は、一捻りされて接続されてメビウスの環となつてゐます。そのやうに想像してご覧ください。このスペクトラムに至るまでの思考プロセスは省略して、後日のSF文学を論ずる際に、必要に応じて、この地図とともに詳細な説明をしたい。文学の採用する素材と対象に焦点を当てて見たスペクトラムです。
このスペクトラムに技術のスペクトラムを追加すれば、医学、工学、農学、薬学などの応用技術または応用科学のスペクトラムを描くことができ、さういつた世界に材をとつたSF小説が生まれる。原理を考へる科学(science)を現実の中に応用するengineering(応用技術)の階層である。安部公房ならば、砂に関する地質学または地学、医者と患者に関する医学、顔の表情に関する認知学、探偵のさ迷う地図学、箱男の位相幾何学といふ事になる。これらに共通して更に心理学があるでせう、あるいは精神医学が。
荒巻義雄といふ詩人は、全く安部公房と同じ考へ方で、科学(science)の階層で製作した模型(model)を実際の現実的な問題の解決に役立てる技術者(engineer)の階層に降ろして、そこで実践的に使はれる応用技術またはengineeringの関係を、Kunst論、ドイツ語のKunst(クンスト)とは単なる技術も含み藝術といふartの意味を一緒に含む語ですが、そのSF文学Kunst論である『術の小説論―私のハインライン論』(『SFマガジン』1970年五月号発表)の最後に『日本SF論争史』採録に当たつて自ら註記をし、医者と患者の関係といふ譬喩を使つて病気を治療するための術(Kunst)に喩えて、技術の問題として此の関係を説明し、SF文学を考へてゐる。SF作家は従ひ、模型としての体系的な知識に習熟し、応用技術としての執刀用のメスも持つてゐなければならないといふ訳です。さうして、この論理の延長に「戦争シミュレーションへの展開」を考へてゐると言つてゐて、これは其のまま現実をズラした、さういふ意味では模型と現実の間にある差異をみるといふ、さう、敢へて此処でもバロック的と言ひませう、安部公房ならば『人間そつくり』中に火星人が主人公の人間に語るtopology(位相幾何学)の論理と全く変はらない。[註1]SF作家としての此の詩人の書いた架空戦記物のSF小説の由緒がよくわかります。後述するニーチェの『ツァラトゥストゥラはかく語りき』の主人公ツァラトゥストゥラの科白によれば、「1が2になつた。ツァラトゥストゥラが通り過ぎたのである。」といふことなのです。
超人たる主人公が通り過ぎれば、通り過ぎられたものであるKがK’になる。これがSF文学なのです。主人公は皆、このやうな超能力を有するものたちである。その能力は作者自身の能力と同じで、現実といふKをズラしてK’にするのです。多次元宇宙の世界です。この詩人が高校生の時代に書いた最初の詩に歌はれるKさんといふ女性もまた「秋が来ました」と話者が呼びかけた瞬間に時間の先後を問はずに、従ひ超越論的に、詩人の中でK’になつた。それ故に「以来、このKは私の大事な秘密の記号になり、性別を変えてよく私の作品に登場する」のです。このK’を作者は「Kは、記号以上の内包(シニフィエ)を持つ変化自在な人格なのである」と言つてゐます。これはこのまま、この詩人のデヴュー以前の小説『ムーアから来た男』に登場する人間に憑依する生命体になつても少しも不思議ではありません。また同じ理由と感覚によつて、作者の処女長編で其れとは知らずに採用したプリコラージュといふ(レヴィ・ストロースの構造主義哲学によれば、諸民族に伝わる神話の構造として同じであつた)このKをK’に対概念として変形させるといふ方法が「芥川龍之介が今昔物語などの古典の書きかえをやったのと同じことです。ぼくは、芥川こそSF作家の元祖ではなかろうか、と思っているくらいです」(『定本荒巻義雄メタSF全集第3巻 白き日立てば不死』の「あとがきに代えて」、355ページ)と語る根拠になつてゐます。この説は論理的に正しい。芥川龍之介も古典を変形させる規則について考へたに違ひないからです。さうでなければK’は生まれない。
[註1]
この論理を『何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?』(もぐら通信第58号)より引用します。
「話は『カンガルー・ノート』に飛びます。ここに猫と鼠の関係を解く鍵があります。その鍵は、小説の冒頭に主人公が職場の上司と交わす会話の中の、生態学的分類に関しての、有袋類を巡る動物の分類にありました。以下、その会話です。
「ぼくはただ、カンガルーの生態学的特徴に関心をもっただけなんです」
「で、君の提案の真意は……要約すると、ノートの何処がカンガルー的なの?」
「何処と言われても……」
「何処かに袋がついているんだろ?」
「つい先週、週刊誌に『有袋類の涙』という記事が載っていて……」
「そう言えば、コアラも有袋類だったっけ。待てよ、そう言えばうちの息子が履いていた靴、たしかワラビーとか言っていたっけ。ワラビーもカンガルーの一種だね?どこか愛嬌があるんだよ。有袋類ってやつは」
「その『有袋類の涙』という記事によると……」
「とにかく、週末までに、ラフ・スケッチでいいから……もちろん部外秘……採用に決まれば、賞与はもちろん、昇給の可能性だってあるんだ……期待していますよ」
「でも有袋類って、観察すればするほどみじめなんです。ご存じとは思いますけど、真獣類も有袋類も、鏡に映したみたいにそれぞれに対応する進化の枝をもっていますね。ネコとフクロネコ、ハイエナとタスマニア・デビル、オオカミとフクロ・オオカミ、クマとコアラ、ウサギとフクロウサギ……すみません、つい脱線してしまいました」(全集第29巻、83ページ;最後の小説『カンガルー・ノート』の結末継承と作品継承について』もぐら通信第57号を参照下さい)
ここに言はれてゐるのは、真獣類と呼ばれるネコ、ハイエナ、オオカミ、クマ、ウサギに対して、有袋類が対になつてゐて、フクロネコ、タスマニア・デビル、フクロ・オオカミ、コアラ、フクロウサギと、分類上対照的に「鏡に映したみたいに」並んでゐるといふことです。かうしてみると、安部公房の関心は、主たる真獣類にではなく、存在を宿す形象である凹を意味する袋を前綴に持つ有袋類にあることはお判りでせう。後者は、安部公房のクレオール論に通じる親のない子供、主語のない子供、主語(主体)ではなく述部にある目的語(客体)こそが真獣類に対して本質的な価値を持つといふ論理による有袋類の選択なのです。主人公は続けて次のやうに上司に弁明します。
「……たとえば、リスの背の縞模様、けっこう明瞭なうえに、ちゃんと個体差が識別されます。でもフクロリスの縞はぼやけていて、個体差もないにひとしい。それからフクロネズミ、動作もけっこう敏捷だけど、ほんものの鼠にはとうていかないません。有袋類というのは、結局のところ、真獣類の不器用な模倣なんじゃないんでしょうか。その不器用さが、一種の愛嬌になって、身につまされるというか……」(全集第29巻、83ページ下段~84
ページ)
この箇所を見ますと、やはり、真獣類が其の名前の通りに本物であるならば、これに対して、有袋類のネズミは本物ではなく、偽物または贋物の鼠だといふことに、主人公の考へでは、なる。「真獣類の不器用な模倣」ですから、全く同じではなく、そこに何か差異があつて且つ似てゐる、即ち火星人は「人間そつくり」だといふのと同じ論理で、「真獣類そつくり」が有袋類の特徴だといふのです。この論理は安部公房らしい。有袋類は火星人である。」
(『何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?』もぐら通信第58号)
さうして、この図を描きながらまた改めて思つたことは、ドイツ語の世界では、文学とはdie Literaturewissenschaft、リテラトゥーア・ヴィッセンシャフトといひ、英語に直訳すればLiterature Science、即ち文藝科学であり、これが文学といふ意味であることは自明といふことになり、さうして此のLiterature Scienceは、die Geisteswissenschaft、即ち精神科学の一分野なのである。
SF文学の世界の人たちとは別に、しかし同様に、私の気づいてゐることで、非SF・文学の近代の日本文学の、特に先の戦前の、哲学とliberal artsに関する教育を受けてゐない戦後教育で育つた読者の研究や文学論には致命的な欠陥があるといふことがある。この致命的な欠陥とは、方法論(Methodologie、methodology)と、従ひ方法(Methode、method)の欠如といふことです。もし文学が上にいふやうな科学であるならば、方法論と方法を、SF文学者たちのSF論争の歴史が示すやうに、まづ最初に論ずるべきである。安部公房はこのことを、三島由紀夫との対談『二十世紀の文学』で語つてゐる。(安部公房全集第20巻、74ページ)[註2]しかし、三島由紀夫も『美しい星』といふ優れたSF小説を書いてゐることを考へて、均衡(バランス)よく二人の対談をお読み下さい。
[註2]
「メトーデの伝統
三島 伝統の問題があるな。
安部 伝統はよそうや。
三島 安部公房のような伝統否定と、おれのような伝統主義者とが、どういう風にケンカするかということは、おもしろいよ。
安部 おれも科学的伝統は幾分守っているからな。
三島 でも科学には、前の学説が否定されたら、どうやってやる?
安部 方法だよ。
三島 メトーデの伝統か。
安部 そうそう、事実というものはだね、科学のなかでは非常にもろいものだよね。だから好きなんだ、俺は、科学は。
三島 日本の伝統は、メトーデが絶対ないことを特色とする。
安部 それが伝統か。困ったな。
三島 それはそうだよ。絶対にそう思う。日本では、伝承というものにメトーデが介在しないのだ。それがいちばんの日本の伝統の特徴だよ。たとえば秘伝というものがあるだろう。(略)」
(安部公房全集第20巻、74ページ)
私が云ひたいことは、『日本SF論争史』を読むと、安部公房に典型的なやうに、SF文学の世界の作家の特徴は、方法論と方法を実作者自らが論ずるといふことに於いて、非SF・文学の世界の作家たちとは著しく異なってゐるといふことである。簡単に言へば、理論と実践です。小説家が批評家であり、批評家が往々にして小説家である。もつと言へば、作家自身と、従ひ作品自身が自己批評を含んでゐて外部に開かれてゐるといふこと、体系の中に最初から反体系を入れるといふことです。それ故に編者の巽孝之氏が最初に配置された「序説 日本SFの思想」の二つ目の段落で「というのも、SF史とはけっきょくSF論争史のことであるからだ」といふ事の次第なのです。この作品内に自己批評、自己批判、即ち回帰するたびに少しづつズレる自己を受け容れる安部公房の作品は、その典型です。それが典型であるのは、言語藝術家の思考論理が再帰的であり、合わせ鏡の世界を構成してゐるからです。これは、19世紀後半のフランスの象徴派の詩人の考へたことでもありますが、そもそもボードレールがポーに影響を受けて詩を書いたといふのなら、ポーもさうであり(ポーがさうならSF文学もさうでせう)、しかし何よりも同じ19世紀の後半の時代をポーの後に生きた哲学者ニーチェの論理の元にあるこれらの人々の論理であり、1875年にプラハで生を享けたリルケの詩がさうであり、同じ年齢のドイツのトーマス・マンの小説がさうである。外部に開かれ、体系に反体系を入れるとは、夢に現実(うつつ)を、現実に夢を入れることであり、このやうな次第で、言葉が象徴的な性格を帯びることになります。
この歴史的な欧州19世紀の遺産をSF文学は受け継いでゐるといふことになる。即ち、上掲『日本SF論争史』の掉尾を飾る大原まり子のエッセイ「SFの呪縛から解き放たれて」の「d わたしにってのSF、SFの理念」に書いてゐるやうに「SFが、聖書を持つ文化から生まれてきたことは、興味深い事実である。」「全能の神の存在を受け入れることができたら(略)心が安定するかわりに、自分というものの一部が死んでしまうような気がした。」とある通りです。正直で素直な人だ。欧州白人種キリスト教徒の文明の最高位にゐる哲学者も詩人も同じことを感じ考へた。これが、私の考へるSF小説の起源である。唯一絶対の全知全能のGodは論理的に普通に考へておかしいと考へた其の個人は、白人種でなくとも、他の私たち日本人も含めた有色人種のやうに、理の当然として汎神論的存在論に、宗教ならば多神教の世界、八百万の世界に、赴く。何故ならば、唯一絶対の全知全能のGodの創造し給ひし宇宙も、その宇宙の外に外部を持つてゐるからである。これを否定したら、スコラ哲学者たちの議論になつて、延々とGodの存在を証明しようとすると論理矛盾の説明をすることに終始して百年単位で数へる時間を浪費することになる。このやうなスコラ哲学を十分に学んだ上で、17世紀のバロックの哲学者デカルトのcogito ergo sumの一行が生まれた。[註3]
[註3]
これも訳しようが、即ち解釈が日本語では幾つもある。即ち上の一行は、次の4行を含んで全体である。
(1)私は考へる、それ故に私は存在する。
(2)私が考へる、それ故に私が存在する。
(3)私は考へる、それ故に私が存在する。
(4)私が考へる、それ故に私は存在する。
SF文学は、この起源からして、反、といふよりも、最初から哲学的思弁の領域を含むことから、唯一絶対の全知全能のGodを信ずるキリスト教から生まれた現実の政治・経済制度に関しては、超資本主義であり且つ超民主主義である。従ひ、大原まり子氏のいふ「SFマインドがあるとは、世界を外側から眺めるような巨大なものさしを持っている、ということだと思っている」(傍線筆者)といふ考へは、SF文学の本質を歴史的にも論理的に言ひ当ててゐる。それ故に、地球外の宇宙も含めて空間的に、また時間の単位を幾らでも大きく取ることに不思議はなく、さうして其のやうな宇宙は最新の科学的知見の採用による事になるでせうから、最初のSFはScience Fictionと呼ばれる事になつたが、それは時間の中での歴史的な由緒、由来、縁起から来た命名であり、それはそれとして一旦その文学範疇が生まれたからには、今度は時間を捨象したSF文学の構造と特色を見た上での命名があるだらう。後者の命名が、そのままSFといふ略称を生かして、上に述べたやうな最高度の哲学的な領域の文学といふ意味で、また方法論をそれ自体に含む再帰的な、self-referencialに批評的・批判的・反省的(reflective)な文学であるといふ意味で、Speculative Fictionといふのが正式名称だとしても議論の余地はないやうに思はれる。詩人荒巻義雄の脳内宇宙も、現実(うつつ)に対しては外部宇宙であるのだ。要はどこに立つて、その一行を書くのかといふ事に尽きるのです。
話が逸脱しますが、大原まり子氏のSF論の「e. 資本主義・近代科学・SF・女性性」に次の箇所があることは、1977年に安部公房の刊行した『密会』を巡つて安部公房の主張してゐる「逆進化」論にそのまま通じてゐて面白い。安部公房の「逆進化」論は、上述したSF文学の性格からいつて、そのまま超資本主義であり且つ超民主主義になつてゐて、これは、世界中の安部公房の読者が論ずべき「二十一世紀の安部公房論」の主要な主題の一つです。
「当然、収益や拡大といった資本主義的な効率は落ちるだろうが、もはや経済発展が失速しなければ、人類の今回の文明がやってゆけないことは、冷静に考えれば明らかではないかと思う。
体制が変わらざるを得ないこの時期に、大新聞の記者がSFバッシングを行なったのは本能的な恐怖からではないだろうか。
なぜなら、女性性というとき――惜しみなく与えるというとき、おそるべき大地母神の姿が現れるからだ。
奪う側はあくまで強者で、奪われる側は弱者である、という視点は、たやすくひっくり返される。」(同書、371ページ下段)
欧米白人種キリスト教徒のいふ汎神論的存在論とは、白人種の古代感覚の復活であり、古代のそれぞれの民族の信仰し日常身近にゐる神々の復活のことなのです。古代ローマ帝国のコンスタンティウス皇帝を名乗る父子二代の強大な権力を利用してキリスト教が迫害し、弾圧し、追ひ払つた古代の欧州各民族固有の神々の蘇生と復活、この感情と裏腹な論理が、SF文学の根底にある哲学の論理と感情といふことになります。これは当然ながら、Speculative Fictionになりませう。このことを『岡和田晃著『世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷ーSF・幻想文学・ゲーム論集』を読む』(もぐら通信第59号)でSF文学の世界に即して、またこの優れた評論集の力を拝借して、次のやうに私は書いたのです。
「どうも此の著作を読みますと、SF文学といふのはそもそも其の出自から言つて、バロック文学ではないのか? [註6]これが、サイバーパンクとかスチームパンクとかいふSF文学的なパンクの正体ではないのか、またクルトゥフ神話と呼ばれるラヴクラフトによるものも同様の理由で、さうなのではないのか。ラヴクラフトがアメリカ人だといふのが面白い、即ち贋の神話の創造であることは全く、他のアメリカ製の文物に徴しても、同じだからである。[註7]即ち、安部公房が確信的に予見したやうに、SF文学は汎神論的存在論の世界ではないのか? YES。と、私はいひたいのであるが、あなたの意見は如何か。
[註6]
『世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷ーSF・幻想文学・ゲーム論集』によれば、パンクと呼ばれるSFのサブジャンルについては、次のやうな、1985年8月31日に「北米SF大会(ナスフィック)で開催された世界最初の「サイバーパンク・パネル」における作家ジョン・シャーリィの発言が、その理由を雄弁に物語っているだろう。」とあつて、このジョン・シャーリィの発言を著者は、巽孝之著『サイバーパンク・アメリカ』(勁草書房、1988年)25ページより次のやうに引用してゐます。傍線筆者。
「パンク・ロックはあらゆるものを歪曲する力だろう。いっぽう、SFは多くの文化̶̶主流文学、現代詩、ロック̶̶を吸収するジャンルだった。パンクはそんなSFを強く弁護しうるものとして浸透した̶̶それはいってみれば〈水の中の水〉のようにSFのなかにしたたり、少なくとも二〇年間というものSFの成長を不毛にしてきたクリシェの一群を拭い去ってくれるひとつの浄化作用なのだ。サイバーパンクは、だからパンク音楽における怒りのエネルギーと幻視力の強さをあわせもった新たなメディア・マトリクスを利用する点でSF的プロセスの等価物と呼ぶことができる。」
「パンク・ロックはあらゆるものを歪曲する力だ」といふ言葉は、「パンク・バロックはあらゆるものを歪曲する力だ」と、私には聞こえる。何故ならば、「あらゆるものを歪曲する力」があるからだ。バロックの語源はbarrocoといふポルトガル語で歪んだ真珠といふ意味であれば、これは連続量、連続体としての差異をいつてゐるのである以上、そしてバロックの概念は差異である以上、パンク・ロックが「あらゆるものを歪曲する力」があるのは然るべきことだと私は考へる。従ひ、本文で論じたやうに、SFそのものの出自がバロックであるので、即ち汎神論的存在論であるので、「パンクはそんなSFを強く弁護しうるものとして浸透した」といふのもまた当然です。それが証拠に、この作家は続けて「〈水の中の水〉のようにSFのなかにしたたり」といつて、バロックの概念である差異といふ概念が再帰的な概念であることを発言してゐるのも、然るべき発言の論理の筋道です。それ故に、安部公房の「奉天の窓」の格子窓の論理[註6-1]、即ち「メディア・マトリクスを利用する」といふ言葉も正しいし、「SF的プロセスの等価物」といふ等価交換についての言葉も正しい。この作家は非常に明晰な文体を有する作家です。本質的にものを考へて生きて来た作家です。
[註6-1]
奉天の窓については『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する~安部公房の数学的能力について~』(もぐら通信第32号及び第33号)をご覧ください。
[註7]
安部公房の世界から観たアメリカ文化の贋物性の起源については、『安部公房のアメリカ論~贋物の国アメリカ~』(もぐら通信第22号)をご覧ください。
上記のスペクトラムを見れば、SF文学があらゆる意味で科学的であることは、少しもおかしいことではなく、むしろ純文学と呼ばれるものを含む非SF・文学の方が思考の範囲が狭隘であつて、その文学の適用範囲に科学的要素を含まないことを、むしろ非SF・文学の小説家と批評家が自らに問ふて疑ふべきだといふ事になる。疑似科学でいいのだ。事の本質は、それが言語機能を発揮した、現実であるかどうかといふことである。晩年安部公房が称揚した1981年度ノーベル文学賞受賞者エリアス・カネティの自伝でいふ言葉を引用すれば、それが「第二の現実」(die zweite Wirklichkeit、ディ・ツヴァイテ・ヴィルクリッヒカイトとカネッティは云つてゐる。シェークスピア役者であつた父親を早くに亡くし(同じ役者である)母一人子一人の親子で、母親と離れてスイスの学校で寄宿舎生活をしていた14歳の時に思つた言葉である此の現実)になつてゐるかどうかである。
文学(Literature Science)は科学(Science)である。方法論を持つた此の文学を安部公房は(ポーに淵源する)仮説設定の文学[註4]と呼び、人間は透明人間になり、空を飛び、植物や繭に変形する。少しも文学と科学は矛盾しない。何故か?言語は機能であるから。アインシュタインの相対性理論も、言語構造に基づき、その外へ出ない。そして、その外宇宙へと出ることもまた言語に拠るし、拠る以外にはない。[註5]それを物理学のやうに、記号と数字で計算して表すか、文学のやうな精神科学に於いて、記号と文字で計算して表すかの違ひである。安部公房は、冒頭共有と結末共有、そして結末継承といふ作品間の接続関係の創造によつて、そして言語機能を使つて言語機能のままに、すべての作品群を一つの存在となしたことは、「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」(もぐら通信第53号)で証明した通りです。此の接続関係が機能である。安部公房は、個々の作品を機能の集合となし、これによつて一生涯に亘る総ての作品全体を互ひの接続関係によつて再帰的な、self-referencial(自己参照的)な存在となした。合わせ鏡の世界である。荒巻義雄といふSF詩人も(かうして見るとSFといふ略号はすつかり記号化して、方法論と方法を持ち科学的であることを意味する前綴になつてゐる)、安部公房と同じことを企図して生きて来たし、これから更に徹底した其の実現に向かつてゐることを、次のやうにいつてゐる。長編小説の連作について、既刊の2作、即ち『白き日旅立てば不死』『聖ステファン寺院の鐘の音は』について名前を挙げたあと、3作目について次のやうに語つてゐる。
「さらに第三部が予定されているが、発表は、多分、私の死後になるだろう。ただし、第三部の題名だけは決まってる。『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』がそれだ。
人生の最期、臨終の脳が見せてくれるドラマは、多分、合わせ鏡のような構造だと思う。」
(『定本荒巻義雄メタSF全集第3巻 白き日立てば不死』月報)(傍線筆者)
[註4]
安部公房の仮説設定の文学論を引用する。
「1962年(38歳)に安部公房は「SFの流行について」(全集第16巻、376ページ)と題したエッセイ(評論)を書いています。その二つ目の章は「仮説の素材としての科学」と題されていて、ポーが仮説の文学の典型として論ぜられています。そうして、その章の最後に次のように言っています。
「日常性とは、言い換えれば、仮説を持たない認識だともいえるだろう。いや、仮説はあるのだが、現象的な事実と癒着してしまって、すでにその機能を失ってしまっているのだ。そこに、あらたな仮説をもちこめば、日常性はたちまち安定を失って、異様な形相をとりはじめる。日常は活性化され、対象化されて、あなたの意識を強くゆさぶらずにはおかないはずである。
ポーの気球も、大渦も、しゃべる心臓も、けっきょくはその仮説にほかならなかったのだ。科学は目的ではなく、仮説を形象化するための、素材にすぎなかったわけである。
なにも、ポーにかぎらず、一般にSFを、仮説の文学だと考えても差しつかえないのではあるまいか?」
更に、このエッセイの最後の章「SF的発想の再認識を」の最後で次のように、ポーについて語って、エッセイを締めくくっています。
「さて、こうしてふりかえってみると、仮説の設定を、方法として自覚的にとりあげたという点で、近代SFの始祖は、探偵小説の場合と同じく、やはり、ポーにつきるように思われるのだ。ポーの方法を、形式の点でも―純化、もしくは俗化の、程度の差はあれ―かなり忠実に受けついだ、ガーネット、コリア、サキ、ダール、ブラッドベリ、シェクレイなど、だれかが「奇妙な味」と名づけた、あの一群の短編作家たちならずとも、直接、間接に、ポーの影響をうけなかった現代作家は、まずいないといっても、いいすぎではないのではあるまいか。
そろそろ、芸術至上主義者などという固定観念にはとらわれずに、ポーの再評価をこころもみてもいい時期にさしかかっているように思われるのだが……。
SFの流行も、これを仮説精神の回復とみるならば、単なる現象をこえた、文学の本質にかかわる問題であるはずだ。」(『安部公房の変形能力2:エドガー•アラン•ポー』もぐら通信第4号)
また、この仮説設定の文学を簡明に、次のやうに言つてゐる。
「AとBの、単純な算術的和をCとした場合、Cを、AとBの単なる量的延長として捉えることが出来るだろう。だが、OとHを化合させ、H2Oをつくる場合には、かなり事情が違ってくる。H2Oの物理的性質を、いくらいじりまわしてみても、HやOの性質を類推させるものは、まず発見できないはずである。またH2Oを、HとOを、HとOに分解したとたん、もとのH2Oの性質は完全に失われてしまうのだ。わたしの夢と体験の関係も、この分子と化合物の関係に、どこか似ているような気がしないでもない。(略)創作という行為は、とりもなおさず、HやOから出発して、そのどちらの性質も現象的には含まない、まったく新しい物質H2Oをつくり出すことであるはずだ。夢化作用のエネルギーが、内部にみなぎり活性化してきたときに、はじめて創造へのパスポートが与えられ、作品の受胎期もはじまるのではないだろうか。」(『夢化作用ー第13回女流新人賞選評』全集第23巻、109ページ)
安部公房は、仮説設定の文学を積算の文学、私小説を足し算の文学と明言してゐる文章があるが、今回典拠を探したが、上手に見つけることができなかつた。
[註5]
『安部公房文学の毒について~安部公房の読者のための解毒剤~』(もぐら通信第55号)から、安部公房の言語論をまとめた一連の発言を引用する。
「この、世界の果てから聞こえて来る呪文についての安部公房の言葉です。これらの言葉は全て、言語は再帰的(recursive)であるといふ事実に拠ってゐます。即ち、言語は繰り返し自分自身に帰つて来るのです。
「―― 散文が儀式化なしに対抗できる理由はなんでしょうか。
安部 儀式化そのものが強力な言語機能なんだよ。言語に対する有効な解毒剤はやはり言語以外にはありえない。そういう言語を散文精神と命名したまでのことさ。でもこの規定は、今後批評の基準として利用できそうだね。けっきょくテレビ攻撃より、散文精神の確立のほうが、僕らにとっては急務だろう。」(『破滅と再生2』全集第28巻、266ページ)
「まったく奇妙な動物さ、人間ってやつは、遺伝子から這い出して、とうとう遺伝子が遺伝子自身を認識してしまったんだよ。「言語」によって遺伝子が遺伝子自身を認識してしまったんだよ。
だから「言語」とは何かを考えるにしても、言語で考えるしかない。言語の限界という表現でさえ言語表現の枠を出られない。井戸の中を見おろすように、言語で言語の中を覗き込んでいるのが人間なんだな。
―― つまり認識の限界、すなわち言語の限界だということですね。
安部 限界というより、構造と考えるべきだろうな。(略)」(『破滅と再生2』全集第28巻、254ページ)
「安部 (略)いまぼくに興味があるのは、むしろ超能力にあこがれる気持の裏にある心理の謎なんだ。一種の「認識限界論」だね。人間の認識にはしょせん限界があり、当然それを超えたものがあるはずだという……
―― つまり認識の限界の可能性を超能力に託しているわけですね。
安部 そうなんだ。でも認識に限界があるという認識は何によって認識されるかというと、言語以外にはありえない。だいたい認識は言語の構造そのものなんだよ。」(『破滅と再生2』全集第28巻、253ページ)
「スプーン曲げを信じないことと、作品の中で登場人物に空中遊泳させることは、僕のなかでなんら矛盾するものではないんだ。小説の場合、言語の構造として確かな手触りが成り立てば、それは現実と等価なんじゃないか。言葉でしか創れない世界……なぜ飛んだか、なぜ飛べたかの説明を、小説以外の外の世界から借りてくる必要なんかぜんぜんないと思う。」(『破滅と再生2』全集第28巻、258~259ページ)
「大事なのは多分、技術が内包している自己投影と自己発見の問題でしょう。あるときぼくはカメラのちょっとした故障を修繕しながら、うまくいきそうになった時、無意識のうちに「人間は猿ではない、人間は猿ではない」と呪文のように繰り返しているのに気付きました。(略)ぼくの呪文は、単に作業をプログラム化できたことの喜びを表現しようとしただけのことです。ところがこの「作業のプログラム化」とは、いったい何でしょう?試行錯誤もあるでしょうし、イメージのなかでの座標転換作業もあるでしょう。しかしけっきょくは時間軸に沿った手順の見通しです。自分の行動と対象の変化を、因果関係として総体的に掌握することです。《ことば》の力を借りなければ出来ることではありません。もともと自己投影とは《ことば》の構造そのものなのですから。」(『シャーマンは祖国を歌う―儀式・言語・国家、そしてDNA』全集第28巻、231ページ)
少し長い引用になるが、安部公房のいふ「技術が内包している自己投影と自己発見の問題」について、荒巻義雄といふSF作家に初めて言及した『岡和田晃著『世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷ーSF・幻想文学・ゲーム論集』を読む』(もぐら通信第59号)から此の問題に関係するところを以下に引用する。
「(4)「思弁説(スペキュレイティヴ・フィクション)の新しい体系――『定本荒巻義雄メタSF全集』完結によせて」(P82~P84)
「大変面白く興味深いことは、著者の文章を読むと、この荒巻義雄さんといふSF作家もまた、安部公房と同然の、再帰的(recursive)な人間であつて、標題の自分の全集の編集に作家自身が積極的に関はつて「テクストの校訂(アップデート)という形で作品群の読み直し(リ・リーディング)に参加していることだろう。こうして本全集は作品集という体裁を取りつつも、実質的には批評集でもあるという、まこと特異な性格を帯びるに至った。」とありますし、「自作解説魔」たる作家自身を含んだ多士済々たる解説者や月報寄稿者」といふことですから、この方もまた、合わせ鏡の世界に棲んでゐる再帰的な人間なのです。
この後に続く文章の中の言葉には、ノヴァーリスの名前があり、『体現/体験されるマニエリスム』(高山宏著)の名前があり、最後のページをめくると、カウンターカルチャーは、「内宇宙(インナー・スペース」であることが判る。この内宇宙が「無限の発展可能性を秘め」てゐるとあるならば、この宇宙もまた特異点で外部宇宙と等価交換されて、自らが外宇宙となるといふ、topologicalな展開が前途に控へてゐるのでありませう。それも、等価交換される宇宙が一つとは限らない。といふ。
(5)「「世界にあけられた弾痕」にふれて――『定本荒巻義雄メタSF全集 別巻』月報解説(P85~P86)
安部公房の名前が最初に出てくるので、冒頭を引用する。
「一九八一年生まれの私が荒巻義雄(敬称略)の名前を初めて意識したのは、国書刊行会から『山尾悠子作品集成』が出版された二〇〇〇年までに遡る。かつて荒巻は、山尾の『夢の棲む街』(一九七八)や『仮面物語〈或は鏡の王国の記〉』(一九八〇)の解説を手がけていたが、そこではデュシャンやダリが言及されつつ、「小説のアナログな力」(安部公房)を復権する硬質な幻想小説として、山尾の作品が位置づけられていた。」(傍線筆者)
荒巻義雄さんといふ方は、上記[註2]に引用した安部公房の言葉に接して、これを理解したSF作家のお一人だといふことになります。
この作家が、この山尾評を書いた8年後の開催になる「SFセミナ-2008」の場で、「Speculative Japan 始動!」とあるパネルの下に、他のパネリストに同席して語つたといふ「物質元素と空間認識を軸としたバシュラールの理論を紹介することで、自然科学的な認識論と詩的なイマージュの橋渡しの必要性を訴えかけたのだった」(傍線筆者)といふのであれば、これは安部公房の文学そのものであり、上の安部公房の文章を読んでゐたことはむべなるかなと思ひます。
この方の小説の中には、安部公房の小説のやうに、詩が歌はれることがあるのでせうか。読んで見たいと思ひました。」(『岡和田晃著『世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷ーSF・幻想文学・ゲーム論集』を読む』もぐら通信第59号)
上記[註2]に引用した安部公房の言葉とは次の言葉です。これが、当時この詩人の読んだ安部公房の言語論の一部なのだと思ふ。
「 [註2]
安部公房は色々なところで言語とは何かといふ問ひに答へてゐますが、そのうちの今二つを以下の通り引用します。:
「文学というものは、言語というデジタルを通じていかに超デジタル的なものに到達するかという、自己矛盾の仕事なんだ。デジタルを通じて超デジタルに、つまり、最終的にその先のアナログに到達するための努力なんだね。そうすると、文学はものすごく苦しい作業でなければならない。だから、小説家は音楽家に非常にねたみを感じるんだよ。そのねたみの本質は何かというと、音楽家がストレートにアナログに到達できるのに小説家は苦しい廻り道をしなければならないからだ。」(『内的亡命の文学』全集第26巻、383ページ下段)(傍線筆者)
「その遺伝子情報に「言語」を組み込んだらどうなるか。人間になるわけだ。そうなんだよ、「言語」というのはデジタル信号だろう。他の動物の場合、行動を触発する刺激情報はアナログなものに限られるけど、人間だけはデジタル信号を行動触発のサインにすることが出来た。」(『破滅と再生2』全集第28巻、254ページ上段)」
上の[註5]の「(5)「「世界にあけられた弾痕」にふれて――『定本荒巻義雄メタSF全集 別巻』月報解説(P85~P86)」の引用の最後にあるやうに「この方の小説の中には、安部公房の小説のやうに、詩が歌はれることがあるのでせうか。読んで見たいと思ひました」とは、実にその通りで、この方はそもそも詩人でありましたし、またweb小説『ムーアから来た男』には、後述するやうな宇宙船に乗り込む新兵の歌が歌はれてゐる。私の疑問は氷解しました。
さて、長い前書きとはなりましたが、以上のことを念頭に置いた上で、この詩集の最初のSF詩を読む事にします。
1。『老人と飛行士』を読む
老人と飛行士
フィヨルドの奥深く一人の老人が、
夏は狐を狩り
冬は海豹(あざらし)を獲って
暮らしていると聞いた。
おれは土の滑走路に不時着して
老人に逢いに行った。
出迎えた老人は、彼方の煌めく大氷河の末端を指し
「この土地は全部おれのものだ」
北極圏の荒波と風が
気まぐれな贈り物を渚に打ち寄せさせる、
この岸辺の住人は、
「女どもが、いつも、おれの孤独を盗みに来るから、ここに住んでいるのだ」
屈託のない笑いを、深く刻まれた皺々の顔に浮かべながら、
頼りない僅かな夏草の茂みを指し、
「ここでおれは生まれた」
流木の墓標には、すでに老人の名が刻まれ、
その場に立ちすくみ、
静寂は、時を止める。
「それにしても、あんさん、詩の匂いがするな」
おれは、土の滑走路の端っこに、辛うじて停まっている戦闘機を指して、つぶやく。
「ごらんのとおりさ」
めくれあがったジェラルミンの大穴は、世界にあけられた弾痕だった。
矛盾の機関砲弾が、またしても
世界の裂け目を掃射したのだ。
「ご苦労なこった」
老人が皺々の顔を歪めると、世界も彼に習った。
「来なさい」
連いて行くと、老人は自慢の流木製材所を見せ、
「あんさんもやってみるか」
地の底から吹きだす衝動の蒸気が、欲望の発電装置を動かし、
魂の発動機が回り出すと 帯鋸は金切り声を発しつつ
見る間に、
おれの世界を善と悪に挽き割るのだった。
安部公房と同じく、この詩人も空を飛ぶ。存在になつた詩人は空を飛行士になつて飛翔する。これが現実であり、科学だといふ事については、言語の問題として前章で述べた通りです。「言葉を〈存在の秘儀〉に近づけようと努力するのが詩人だ」からであり[註6]、「詩の使命は、〈存在の秘密〉に迫ること」[註7]であるからです。秘儀は曖昧なものではなく、秘儀である以上、「シャーマン安部公房の秘儀の式次第」と同様に、秘儀は様式を持ち、しかしもし秘儀が曖昧ならば、その様式の曖昧さもまた論理的に明確である。曖昧な言葉など、ない。人間が言葉を曖昧に使つてゐるだけだ。意識すれば、そして研鑽を積めば、言葉を曖昧に使ふことすら明確に使ふことができる。これが言葉であり、肉体の生理的な感覚に直結してゐる言葉の働き(機能)の持つ作用です。言葉の此の作用を、三島由紀夫は最晩年のエッセイ『太陽と鉄』で、言葉の「腐食作用」と呼んだ。
[註6]
この詩集の自筆後書きともいふべき「覚え書き」(98ページ)を参照。
[註7]
この詩集の「覚え書き」(103ページ)を参照。
そして詩人であつた三島由紀夫は同じエッセイの中で更にかういふのである。
「私が夢みたようにすべてが回収可能なのではなかった。時はやはり回収不能であるが、しかし思えば、時の本質をなす非可逆性に反抗しようという私の生き方は、あらゆる背理を犯して生きようとしはじめた戦後の私の、もっとも典型的な態度ではなかったろうか。もし、信じられているように、時が本当に非可逆的であるなら、私が今ここにこうして生きていると云うことがありえようか。私は十分にそう反問するだけの理由を自分の裡に持っていた。
私は自分の存在の条件を一切認めず、別の存在の手続きを自分に課したのだった。そもそも、私の存在を保障している言葉というものが、私の存在の条件を規制している以上、「別の存在の手続」とは、言葉の喚起し放射する影像の側へ進んで身を投げ出すことであり、言葉によって創る者から、言葉によって創られる者へ移行することであり、巧妙細緻な手続きによって、一瞬の存在の影像を確保することに他ならなかった。(略)言葉による存在の保障を拒絶したところに生まれたそのような存在は、別のもので保障されなければならぬ。それこそは筋肉だったのである。」(『太陽と鉄』)
三島由紀夫にとつて、言葉による腐食作用を一切排した肉体が、純粋なる存在であつた。さうして、市ヶ谷のあの癩王のテラスで、内部と外部を、精神と肉体を交換したのである。この切腹は社会的な儀式なのではなく(勿論表面上は古来の儀式に見えやうが)、全く論理的な切腹である。三島由紀夫の転生輪廻に関する考へ方は別途『三島由紀夫の「転身」と安部公房の「転身」』と題して、『豊饒の海』を含めて、論じます。三島由紀夫もまた、安部公房と同様に、リルケの『オルフォイスへのソネット』の愛読者以上の愛読者であつたとは。戦後の、ドイツ的教養の喪失が、二人の文学の理解を難しいものにしてゐることを痛感する。
さて、荒巻義雄といふSF詩人もまた、従ひ、言葉と時間の関係について考へる事に集中する事になる。現実の非可逆的な時間の中で、どうやつて秘儀があり得るのか。この答へは「タイムズ スープ」といふ詩に、その構成から言つても解りやすく、よく読むことができますが、他の詩と併せて此の詩は次回以降に論じます。
勿論、「老人と飛行士」も、表立つてはゐないが、詩人の存在と時間に関する秘儀の上になりたつてゐます。そして、このSF作家はどうしても詩で以つて其の秘儀を歌ふ以外にはないと考へてゐる。何故ならば、詩こそ言語藝術の精華であり、藝術といふ最高度の技術(Kunst)を駆使して生まれる第二の現実であるからであり、詩人独自の用語を使へば、その現実は読者の「脳内宇宙」といふ、この現実に対する外部宇宙にありありと生まれるからである。詩人は、言葉スイッチ論[註8]の後に続けて、次のやうに語つてゐる。
「私は詩の本質は、読者の言語巣を刺激して、鮮度のいい新たなイメージ(内包/意味されるもの(シニフィエ))を再生産する言葉の技術であり、優れた詩人の技は、日常を飛び越えて別世界を覗かせてくれる。言いかえれば、連続体であるわれわれの〈世界〉を詩の言葉で切り取り、不連続化することである。」(この詩集の「覚え書き」、97ページ)
[註8]
「あえて言おう。人生のほんとうの豊かさは富なのではなく、記憶の豊かさである。少年時代や青春時代に様々な経験をし、それが記憶されている人生は最高に豊かなのではないだろうか。
問題は、この記憶を呼び覚ますスイッチである。それが言葉だ。」
私も全く同感です。言葉は記憶を呼び覚ますスイッチなのです。どうやつてあなたの記憶が呼び覚まされるのか?それは、連想によつてであり、従ひ、詩によつて忘却されてゐた豊かな記憶が、いや記憶を思ひ出す、即ち連想によつて思い出されて豊かに記憶がなるのです。スイッチとは、ここでも機能のことを云ひ、言葉の概念と概念を接続する機能を発揮するのです。あるいは、接続そのものが機能であるといふべきでせう。安部公房の世界です。私は、この概念の接続を、概念連鎖と呼んでゐます。プラトンの想起説を思ひ出しても良いでせう。これは言語論理、即ちlogos(ロゴス)のことですから、個別言語を問はず、どの民族のどの言語についても通用することです。これも、安部公房の世界です。
このやうなSF文学の言葉を読むと、純文学とはSF文学のことかと怪しまれる。
不連続化するとは、道元禅師の言葉でいへば際断[註9]すること、言語の機能自体を使つて「連続体であるわれわれの〈世界〉」を機能化して際を、縁(へり)を断つこと、即ち時間を単位化して、流れる時間を等価で交換可能にすることである[註10]。私たちは連続量は単位化する以外には認識できない、あるいは単位化すると認識、即ち理性で名前をつけて或る体系の中に位置付けて呼ぶことができる。A cup of teaといふやうに、あるいはa bottle of waterといふやうに。これがヨーロッパの哲学者たちの超越論、即ち私達の哲学でいふならば、汎神論的存在論である。何故ならば、時間が単位化されるならば、昨日といふ一日と、明日といふ一日は等価で今日といふ一日に於いて今日といふ一日(といふ時間の単位)として交換できるから。これが、安部公房の「明日の新聞」の発行される契機に現れる論理、内部宇宙と外部宇宙とが等価交換される契機にいつも、従ひいつも主人公が世界の果てに至ると「いつの間にか」「どこからともなく」時間の先後なく、従い超越論的に、発行される新聞の論理です。だから、それ故に、あなたは『密会』の主人公になつて「いくら認めないつもりでも、明日の新聞に先を越され、ぼくは明日という過去の中で、何度も確実に死につづける」のだ。「やさしい一人だけの」再帰的な「密会を抱きしめて……」(原文傍線は傍点)といふのは、この意味である。(『密会』全集第26巻、140ページ)
かうして私たちは、私たちの最たる恐怖の一つである未来を知ることができないといふ恐怖を克服することができる。人間の持つ此の心理に関する事実を安部公房は物語の起源として、物語は時間の空間化だと云ひ、小説論と演劇論の根幹に置いてゐます。時間論は、近くはH.G.ウエルズ以来、SF文学の主要な主題の一つですが、安部公房は此のやうに時間を、言語機能を使つて空間化し、荒巻義雄といふ詩人もまた豊かな形象を以つて同じ超越論の論理を基礎にSF詩、SF小説をお書きになつた。安部公房の仮説設定の文学論によれば、かうしてみると、キリスト教を超えた古代の神々の蘇生と復活といふSF文学の一つ目の起源に続き、起源の二つ目は、人間は未来を知ることができないといふ事に対する恐怖を克服するために時間を空間化した超越論的な物語を人間が必要としたといふ事だといふことになります。後者については、何も特別にSF文学固有の事情ではない、素材と対象は人間一般に関する心理的問題の解決ですので、これは非SF・文学についても同様です。
[註9]
『梨という名前の階段、階段という名前の梨~従属文の中の安部公房論~』(もぐら通信第27号)より引用します。
「安部公房が時間の空間化といったのと同じことを、道元禅師が『正法眼蔵』の最初に述べております。『正法眼蔵第一 現成公案』(げんじょうこうあん)に次の言葉があります。この道元禅師の言葉を読むと、言語機能論は、時代も人種も民族も個別言語も国も宗教もどの領域も何も問わないということが、お解りでしょう。
ここで論じているのは、時間と言葉と人間の思考による物事の機能化(函数化)ということ、単位化ということ、位ということです。道元禅師は禅のお坊さんですから、宇宙のこの法則の単位を、法位と呼んでいます。
「たき木はひ(火)となる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後際断せり。灰ははいの法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひ(灰)となりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、佛法のさだまれるならひなり、このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏といはぬなり。」
一次元の時間の中にいるわたしたちは、平凡普通に時が流れてゆくと思い、春は夏に、夏は秋に、秋は冬に、そして冬は春になり、移り変わってゆくと思っておりますが、道元禅師はそうではないとはっきり言うのです。
そうではない、春には春の位があり、夏には夏の位があり、秋には秋の位があり、冬には冬の位がある。即ち、春と夏の前後は際断せり、夏と秋の前後は際断せり、秋と冬の前後は際断せり、冬と春の前後は際断せり。時間の中の前後ではないという思想なのです。そして、これは宇宙の真理であるから、それを法位と言うのだと、そうおっしゃっております。灰と薪の関係も然り、従い、生と死の関係も然り。
また、ヴィトゲンシュタインというオーストリアの哲学者もソシュールというスイスの言語学者も、この道元と同じ、言語機能論です。」
[註10]
一日を一時間といふ単位にしても、単位である以上同じです。遺作『さまざまな父』の冒頭をご覧ください。
「いつものどおり四時十分に学校から戻ると、父が先に帰宅していた。珍しいことだ。ふつう父の帰宅は五時二十分にきまっている。」
この一行が超越論であるのは、「いつものどおり四時十分に」といふ主人公の現在に、未来に起こるべきことがいつも決まつてゐる「五時二十分」の父の帰宅が、現在の四時十分といふ時刻に既にして(未来が)過去のこととして起つてしまつてゐることを知るからである。
それ故に『密会』の最後に主人公が、病院の内部宇宙を逃げ続けて遂に外部宇宙との境の(内部宇宙の)世界の果てに至ると、「いくら認めないつもりでも、明日の新聞に先を越され、ぼくは明日という過去の中で、何度も確実に死につづける。やさしい一人だけの密会を抱きしめて……」(全集第26巻、140ページ)(傍点は原文は傍点)といふことになるのです。
さて、この詩人の「明日の新聞」は、この詩では何と呼ばれてゐるか。それが流木です。流木が世界の果てである北極圏の「フィヨルドの奥深く一人の老人が」暮らしてゐる岸辺に流れ着くのです。この流木について、この詩人の処女作『白き日立てば不死』(『定本 荒巻義雄メタSF全集 第3巻』)の「あとがきに代えて」の最後に詩人は自らかう書いてゐる。
「おそらく当時の私は、それがいずくの海辺に流れ着くのか判らぬままに投じた、瓶の中の手紙をしたためるような気持で、これを書いていたのだろう。そして、私自身にとっての小説を書くという行為の本当の意味は、他ならぬこの初心にあったのだ……と、遅まきながら反省したりしているのである。」(同巻361ページ)
「遅まきながら反省」して、詩人は初心を詩にした。海に詩人が投げた小瓶の中に入れた手紙、これが「老人と飛行士」の流木なのです。この小瓶に入れた手紙が海流に乗つて何処かの岸辺に流れ着き、誰かが偶然に「気まぐれな贈り物」を見つけて瓶の中の詩を読む。これが詩人が詩に関して持つ、自分の詩が読まれることの形象(イメージ)なのです。小説家が読者に対して持つ形象とは異質です。詩とは海に流す小瓶の中の誰かに宛てた手紙だといふ同じ譬喩は、パウル・ツェランが、また現代ドイツの詩人ドゥルス・グリューンバインが同じ譬喩を継承して用ゐて或るエッセイで詩の伝達の持つ此の本質を伝へてゐます。小瓶の中の手紙といふ譬喩には欧州の詩人の歴史的・伝統的な譬喩なのか。荒巻義雄といふ詩人の用ゐた此の譬喩は、歴史を超えた、詩人同士の無意識の連絡なのでせう。
さて、飛行士は、その偶然の、世界の果ての読み手である。その流木の手紙には何と書いてあつたか。流木は墓標であり、「すでに老人の名が刻まれ」てゐたのです。即ち、これは老人も飛行士も、二人ながら一人の、話者といふ透明人間に変身して語つてゐる詩人の姿なのです。私は自然と其のやうに読んだ。従ひ、これは再帰的な関係ですから、この話法は、安部公房に固有のあの「僕の中の「僕」」といふ内省的・独白的な話法と同じ話法なのです。前者の僕が飛行士なのか、後者の「僕」が飛行士なのか、後者の「僕」が老人なのか、前者の僕が老人なのか。この詩人の詩は、余りに安部公房の文学に親和性の高い詩です。
この岸辺の住人たる飛行士は、
「頼りない僅かな夏草の茂みを指し、
「ここでおれは生まれた」
流木の墓標には、すでに老人の名が刻まれ、
その場に立ちすくみ、
静寂は、時を止める。」
とあつて、世界の果て、隣の世界との境界域では、時間は止まり、無音であり、静寂が境界域を領してゐる。「その場に立ちすく」むのは、「流木の墓標」なのか、老人であるのか、いづれにせよ其れは「世界接触部品」でありませう。接触とは此の意味です。安部公房ならば、リルケの純粋空間だといふでせう。この空間は、時間が無い故に純粋空間と呼ばれ、生きることを其処でゆるされてゐるのは、垂直方向といふ無時間の方向に限りなく成長を続ける植物、即ち樹木、それに花、薔薇の花、噴水。これらは生と死を永遠に繰り返し、循環するからです。樹木の落ちて種子の埋もれる地下の世界は死者の世界である。さうしてまた春になれば、芽を出して、次の季節の周期を生きることを繰り返す。このやうに、循環、即ち反復とは周期によつて単位化された無時間の行為です。この反復といふ周期性のある行為は差異があつて初めて、時間の中に生まれ出る。「差異と反復」は対語であり、連語であり、互ひに縁語です。
世界の果ては、この世から見れば死者の世界に踵を接してゐますから、老人はもう一人の私である飛行士にかういふ。「それにしても、あんさん、死の匂いがするな」。「死の匂ひのする」のは前者の指差す後者の乗る戦闘機である。ジュラルミンの機体には大穴が開けられてゐて、それらは「世界にあけられた弾痕だった」が、しかし、次の二行を読めば、文脈(context)と詩行の流れの声調から言つて、この世界によつて穿たれた大穴は、この飛行機乗りの方から仕掛けて射撃したが故に、世界が報復、応戦してあいた弾痕であることがわかる。
「矛盾の機関砲弾が、またしても
世界の裂け目を掃射したのだ。」
飛行機乗りの装備してゐる機関砲は、矛盾そのものである機関砲弾を射撃する機関砲であるか、射撃すれば世界の持つ矛盾を露呈せしめて亀裂を入れ裂傷を負はせる機関砲であるのだ。しかし、かうして見れば、老人が飛行士であり、飛行士が老人であるやうに、どちらの砲弾であれ世界であれ、その関係は等価に交換可能で、同じことだ。再帰的な、合わせ鏡の、荒巻義雄の詩の世界である。この詩人は、長編小説の連作の再帰性について、既刊の2作、即ち『白き日旅立てば不死』『聖ステファン寺院の鐘の音は』について名前を挙げたあと、3作目について次のやうに語つてゐる。
「さらに第三部が予定されているが、発表は、多分、私の死後になるだろう。ただし、第三部の題名だけは決まってる。『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』がそれだ。
人生の最期、臨終の脳が見せてくれるドラマは、多分、合わせ鏡のような構造だと思う。」
(『定本荒巻義雄メタSF全集第3巻 白き日立てば不死』月報)(傍線筆者)
この「合わせ鏡のような」言語構造を知ることができてゐるのは、上の引用の同じ段落の前段で詩人が第一部について振り返つて云ふ「従って、もはや、本作の構図は明らかであろう。【α】最初は無意識で書かれた物語のはずが、次第に魔力を帯び、独立・自律しはじめる。【β】物語自身の〈世界律〉が続編を支配するようになるのだ。かくして〈秘教的〉かつ〈秘儀的〉な異界への上昇の開始。」
【α】の文は、言葉の命は詩人の制御を超えてゐて、詩人には制御できないといふことをいつてゐる。同じことを繰り返し、安部公房もいひ[註11]、またトーマス・マンもいつてゐて、三島由紀夫も上に引用したやうに否定的な腐食作用といふ言い方であるが、三人とも十代は詩人であり、同じことをいつてゐて、そして此の詩集の「覚え書き」によれば既に高校生の時には詩人であつた荒巻義雄であり、これが言語と詩人の本質的な関係なのである。世俗の、言葉を手段として日常の意思疎通に使ふだけの、それが言葉と思ひ疑はぬ人には理解ができないであらう。
[註11]
安部公房は、ナンシー・S ・ハーディンとの対談で次のように言っています。
「しかし、一度書き出してしまったら、不思議なことに、書いている作品自体が主導権を握り、ぼくはそれに従うしかない。もはや自分が書いているものを支配できなくなるんです。ある段階を超えてしまうと、自分ではコントロールできなくなる。」
これは、この空虚を持ち、知っている言語藝術家だけが覚える言語の自己増殖です。同じ経験を、トーマス・マンは繰り返し述べています。言語組織が、自己の意思を持って増殖し、有機体を完成して行く。他方、普通の言語使用者は、言語を制禦(コントロール)できると思っていて、そのように言葉を使用すること をよしとするのです。これが、普通の世間に棲む人間たちの世界での言語についての考え方です。法律も、この 考え方でできている。しかし、安部公房の主人公たちは皆、法律の外に、無名の、世間に未登録の人間として生きています。
(『安部公房との対話』ナンシー・S ・ハーディン。全集第24巻、477ページ。)
【β】の文は、この詩人が、リルケや安部公房や三島由紀夫やトーマス・マンといふ詩人たちと同様に、垂直の方向には時間が存在せず、従い此の上昇は積算であり、上位接続された次元は現実の時間の中では有り得ぬ(リルケならばいふ)純粋空間であることを知つてゐることを意味してゐる。この詩人の詩を読むと、数学用語が幾つも出てくるので、私がこのことをいふのは無用の長物、釈迦に説法でありませう。
さて、飛行士が激しく被弾した飛行機の機体を眺めて「ご苦労なこった」と、これは機体に向かつていふのであらう、さういふや「老人が皺々の顔を歪めると、世界も彼に 習った」とは、またもや「差異と反復」である。世界は最初から歪んでゐる、皺々に褶曲してゐるといふのが、この詩人のバロック的世界認識である。宇宙の本質である差異は、時間の中で周期的な反復として現れる。だから、「世界も彼に習った」のである。
老人に連れられて流木製材所に行き、帯鋸を持たされると、「地の底から吹きだす衝動の蒸気が、欲望の発電装置を動かし、魂の発動機が回り出」して、「帯鋸は金切り声を発しつつ/見る間に/おれの世界を善と悪に挽き割るのだった。」
この詩人にとって大地はすつかり死の世界だとはいへないが、しかしそれでも死の世界なのである。飛行士が着陸すると、出迎えた老人は「この土地は全部おれのものだ」といふのだが、老人が飛行士、飛行士が老人である以上、これは飛行士の科白と解してもよく、同じセリフが散文ではなく、詩で歌はれる箇所が、この詩人のweb小説『ムーアから来た男』の第2章に、宇宙船に搭乗する新兵の歌として次のやうにある。
「テラに降りればよ
骨っこ ざくざく
髑髏(ドクロ)が ごぉーろごろ
ホーイ ホイ」
さう、この最果ての極北の「この土地は全部おれのものだ」といふが、老人以外には誰も住まうとはしない次の宇宙への境界域。帝国主義の領土とは全く対極の領土ならぬ、「髑髏(ドクロ)が ごぉーろごろ」「骨っこ ざくざく」の土地である。この土地が二つ目の「骸骨半島」といふ詩の意味する骸骨の土地である。三つ目の「ウォール」にも草むらにゐる髑髏が出てくる。この髑髏がいふ「おれはこの荒涼たる景色を一編の詩に閉じこめるつもりはない」と。何故ならば、この詩人一流の逆説的交換の論理によつて、「この荒涼たる景色」は、髑髏の「おれの心」だから、だから「おれの心に近づくな」と「虚空の眼(まなこ)」で「草むらの髑髏が言い放」つのである。
確かに老人の住む土地は荒涼たる土地である。
『ムーアから来た男』は、その最初に置かれた「註3」によれば、「本作はプロダム・デビュー前に書いたスペース・オペラを意識した作品であるが、二回連載で中断。今回、大幅な改稿、さらに第二章5節以降を書き継ぎ完成」とあるので、詩人の極く初期からの、この境界域の土地、即ち主人公が間違ひなく垂直方向といふ時間の無い方向へと宇宙船に乗つて飛翔する土地は、領土に関する此の詩人の確たる形象であるのだ。この詩の主人公もまた飛行士である。
『ムーアから来た男』を読むと、これはスペース・オペラであるのみならず、宇宙生命の憑依譚でもあつて、私が此の詩集を読む限り、この詩人もまた、安部公房同然に、シャーマンなのだと思はずにはゐられない[註12]。かうして考へて来ると、帯鋸の「金切り声」は、シャーマンの祈祷の声に聞こえる。安部公房の場合ならば、悲鳴のやうな救急車のサイレンの音が、これに当たる。この詩人の世界は、安部公房の世界にとても親和性が高い。
[註12]
この詩集の「覚え書き」で、此の詩に歌つた極北の老人の噂を聞いて実施に飛行機に乗つて訪ねた時の経験を、次のやうに此の詩人は書いてゐる。
「この最果ての場所には聖霊が棲むと私は確信した。
さらにストックホルムに飛び、ここからスカンジナビア半島を北上した際の寝台車でのまどろみのなかで、先年、九十六歳で他界した母と再会下が、死者と話すとき言葉は霊性を帯びている。詩があるのは、日常を超えた何かを伝えるための表現としてあるのだと気付く。」(同詩集、99ページ)
救急車の甲高い悲鳴のやうなサイレンの音が聞こえると、「見る間に、/おれの世界を善と悪に挽き割るのだった。」帯鋸の「金切り声」を契機に、老人の世界が善と悪に挽き割られる。この抽象的な位相幾何学的な土地に転がつてゐる骸骨が陰画に生きるシャーマンの骸骨であるといふことは、18番目の詩「淤能碁呂幻歌(おのごろげんか)」にも歌はれてゐる。この骸骨は、上で引用した大原まり子のいふ大地母神の面影があり、この骸骨はそのまま二つ目の詩「骸骨半島」に歌はれる、最初に女と呼ばれ、最後に母と呼ばれる女性の形象であると思はれる。さうであれば、この形象もまた「奪う側はあくまで強者で、奪われる側は弱者である、という視点は、たやすくひっくり返される」といふ神威を有する、大原まり子氏のいふやうな大地母神ではないのだらうか。とはいへ、詩人は男性であるが故に、あくまでも骸骨半島は、飛行士の訪ねた老人の極北の土地と同じく「静寂は、時を止め」てゐて、沈黙に満ちてゐて、荒涼たるものである。
上に引用した「地の底から吹きだす衝動の蒸気が、欲望の発電装置を動かし、魂の発動機が回り出」してとある行を読むと、この詩人が単なるバロックだけではなく、「骨っこ ざくざく/髑髏(ドクロ)が ごぉーろごろ」としてゐる重複した土地として、「差異と反復」といふ事から、もう一つバロックと重複する領域を有するマニエリスム[註13]といふ土地にも脚を置いてゐる理由もわかります。この詩人には「地の底から吹きだす衝動の蒸気」があり、この熱意、熱情は、リルケならば地底といふ死者の世界の、生命が育つ為の世界にもまた棲む「父母実生以前本来面目」(12番目の詩「霞論哲学」)である此の詩人の姿を思はせるからです。
「おれの世界を善と悪に挽き割」られた老人は一体そのあとどうするのであらうか。やはり飛行士になつて、空中戦を展開し、世界の裂け目を掃射するのであらう。とあれば、この飛行士を、或る日、この飛行士自身が、再帰的に、self-referencialに、老人となつて、合わせ鏡の世界の中で、
「フィヨルドの奥深く一人の老人が、
夏は狐を狩り
冬は海豹(あざらし)を獲って
暮らしていると聞いた。
おれは土の滑走路に不時着して
老人に逢いに行った。」
と、自分自身に逢いに行くといふことになつてゐたのではないでせうか。最初から、超越論的に。決して運命や通俗の予定調和によるのではなく、自分の意志で。
[註13]
安部公房のマニエリスムについて、『安部公房の変形能力16:まとめ~安部公房の人生の見取り図と再帰的人間像』(もぐら通信第17号)より引用します。
再帰的な人間といふ「この人間は、他者を参照し、引用をすることをしません。いつも自己を参照し、言葉もまた自己のテキストから引用を繰返すのです。普通の人間は、自分以外の人間の真似をして生きておりますが、再帰的な人間は、他人の真似を一切しません。つまり、自分自身を真似るのです。その限りにおいて、普通の人間から見れば、この人間は、孤独であるということになり、奇妙な人間だということになるでしょう。
また、合わせ鏡ということから、この人間は、物事の対称性ということを大切に致します。
わたしの人生において、わたしは、何人かの再帰的な人間を知っております。わたしの知っている再帰的な人間の名前を挙げるとすると、次のような人間たちがおります。
アイヒェンドルフ、ショーペンハウアー、トーマス•マン、ジャック・デリダ。それから、最後に小さな文字で書けば、今ここでこのようにこのような文字を書いているこの私自身(私自身という言葉が既に再帰的です)も、その人間の一人です。
確かに、上の図像の人間達は、父親や母親に似ているのではなく、人が似るようなその人の好きなひとに似ているのではなく、異様であり、異形であり、普通ではありません。それはいつも自分自身に回帰して、自己を参照するからです。言語の視点で言えば、再帰的な人間とは、自己の内部以外からは、一切言葉を引用しない人間なのです。
ショーペンハウアーというドイツの哲学者は、その主著『意志と表象としての世界』では、ひとつの原理、即ち世界は意志であるという原理から、宇宙にある森羅万象を説明しました。その宇宙は、宇宙の根底にある意志が、自分自身を観る為に、その意志の最高の段階の生物として人間を生み、人間が宇宙を観じるとは、意志が自分自身を観じることであるという、そのような合わせ鏡の宇宙なのです。意志を純粋に認識するそのよな主体を、ショーペンハウアーは、鏡と呼んでいます。そうして、ひとつの原理に絶えず戻り、その原理を何度も何度も反復しながら、森羅万象を説明します。これは、実に面白い本です。哲学は、人類最高の娯楽であると、わたしは思います。
ジャック・デリダというフランスの哲学者は、その英文のテキストを読むとよく解りますが、文字として、用語として、文がいつも再帰的です。再帰的とは、いつも同じ発想、同じ言葉が繰返されて語られるということを意味しています。同じことを語りながら段々と話が遷移し、言葉の概念に対する理解と認識が深まって行くのです。(安部公房の小説の世界によく似ています。)上の図像の持つ意味のひとつが、繰り返しです。ジャック・デリダのテキストも実に面白いテキストです。哲学は、人類最高の娯楽であると、ここでも、わたしは思います。
トーマス•マンの小説も、同じ文、同じ章句が繰り返し、その小説中で繰返され、話の筋の中、時間の中で、その変わらぬ言葉が繰返されて行く度に、その意味が変容し、全く別の意味を持つように、その小説が作られて、その変容に読者は胸を打たれるのです。そればかりか、後年に書かれた小説は、前に書かれたの小説の一句、一文を、小説を跨いで引用するのです。また、トーマス•マンは、その20代に、自分自身のグロテスクな、奇怪な戯画として、そのような自分自身の姿を傴僂(せむし)の、成長の止まった小男として描き(安部公房ならば実存といったことでしょう)、『小男フリーデマン氏』という傑作を書いております。
安部公房自身よる、作品を跨いでの同じ語句の引用の例を挙げましょう。これは、意識的な引用というよりも、無意識の引用だと思いますけれど。いつも同じ語彙、同じ形象(イメージ)で以て、その世界を構成するということです。
『燃えつきた地図』:
「車の流れに、妙なよどみがあり、見ると轢きつぶされて紙のように薄くなった猫の死骸を、大型トラックまでがよけて通ろうとしているのだ。」(全集第21巻、311ページ)
『密会』:
「女秘書は腹立たしげに、地面から拾った小枝の先でその布(筆者註:布団になった溶骨症の少女の母親)のかたまりを引きずり出すと、力まかせに振りまわした。車に轢きつぶされた緋色の猫の死骸のように見えた。」(全集痔26巻、123ページ)
また、『箱男』の最後の救急車のサイレンと、『密会』の最初の救急車のサイレンを挙げてもよいと思います。他にもこの種のことはあちこちに散見されることと思います。
さて、アイヒェンドルフの詩もいつも同じものが歌われています。森、狩り、狩人、狩りの笛の音、城、河、天(大空)、雲雀、春等々、いつも詩の要素は変わりません。この芸術家の書く小説も実はそうなのですし、その詩の中には実にシュールレアリスティックな詩が何篇もあります。その詩を18世紀から19世紀にかけて、この時期に書いたということは、わたしは素晴らしいと思っております。時間という一次元の中に藝術を編成する文学史の愚かさをこそ、ひとびとは知るべきであると思います。この詩人も、時間を空間化した芸術家のひとりです。こういう藝術家に、時間を適用して、時間の一次元の流れに従えというあなたの命令は、通用しないのです。何しろ、その世界には時間が存在しないのですから。
これらの特徴を一言で言えば、再帰的人間は、mannerismの人間だといってもいいのです。水戸黄門や遠山の金さんというお話のような、いつも同じひと、同じ設定、同じ話の筋が語られる、マンネリズムです。
安部公房もマンネリズム、或いはマニエリスムの作家なのでしょうか?安部公房は前衛的な、アヴァンギャルドの作家だったのではないでしょうか?しかし、安部公房が再帰的人間である限りにおいて、わたしは、その通りだと、そう思います。そうしてみれば、確かに、安部公房の話は、いつも同じではないでしょうか?このように言う事は、安部公房の諸作品の冒瀆でしょうか。
ショーペンハウアーは、再帰的人間として、何かに成るということは実に恐ろしい事だと正直に、その主著の中で、言っております。つまり、自分自身を参照する人間が、他人の真似をしないということの意味が、ここにあります。普通は、自分以外の人間の真似をし、他の物に容易になったりすること(典型的には役者のように)、それが普通であり、平然と行われ、罪の意識もないというのに対して、この人間は、自分が誰かに似ていたり、誰かになったり、何か自分と別のものになること、誰かの、何かの役割(機能)を演じることには、恐怖と罪の意識を覚える人間だと言い換えてもいいでしょう。他者への通路を見つけることが実に難しいと、普通の人以上に感じ、考える人間なのです。そういう人間である筈の安部公房が、演劇の世界を切り拓いたというそのこころの根底には、時間の空間化があり、即ち時間の変化に対する恐怖があるのであり、時間の中で演ずる人間同士の役割を受け容れることに対する恐怖心があるのです。この理由によって、安部公房の演劇は、再帰的な人間ではない人間の書く演劇とは、全く異質なのです。
こうして、段々と安部公房に近づいて来たでしょうか。もう少し、安部公房のマンネリズムについて語ります。いつも安部公房の小説で同じ要素を挙げることにします。
(1)主人公は旅をする。空間から空間へ。壁からカンガルー・ノートまで。主人公は旅人であるので、その空間にあっては異邦人である。主人公の意識は、どんな細部にあっても旅をしている。儀式化された形式から抜け出して、その意識が連続している。これがこのまま、安部公房の小説の細部の描写につながる。これが安部文学の魅力の源泉。こう書いてくると、細部が安部公房の作品の多様性を保証しているということがわかります。
(2)細部を描きながら、登場人物の関係の変化を描いてゆく。時間は経過しない。登場人物の関係が変化するだけです。これが、安部公房の言う時間の空間化ということです。
(3)登場人物達が、お互いに役割(機能)を交換することができる。
(4)役割の交換、即ち変装、変身ということから、いつもどこかで、カーニバル、祭典、祭りが意識されて、この意識が作品の底流に流れている。
(5)そして、この祭典の意識は、いつもこれを裏側から眺める、陰画の祭典である。
(6)従い、主人公はいつも、アンチヒーロであり、話のクライマックスは、いつもアンチ•クライマックスである。
(7)主人公は、いつも帰って来る。最初の場所に帰って来る。これは安部公房の位相幾何学の思考と感覚としても、そうである。
(8)主人公は、いつも自己の投影、反照を向こう側に、相手側に見る。これは、「もぐら感覚18:部屋」で論じた通り、反照として窓(鏡)の向こうに自己の投影を見るということです。そう意味では、安部公房には、最初から、又は最初には、他者はいないのです。いつも自己と、鏡に映っている自己の姿です。その仮象、夢、しかし実在の夢、非現実の現実の自分自身を自己と思う以外にはありません。
(9)その他のいつも同じ諸要素には、思いつくままに挙げると、以下のものがあるでしょう。
夜又は闇
無名の主人公
緑の色
笛、口笛、草笛
夜
方舟
ほうき隊の老人
便所や便器
成熟した女
その脚と、特に膝小僧
偏奇な少女
贋の父親、贋の魚、その他の贋の人物と物事
切符
部屋
窓
反照
自己承認の問題
閉鎖空間
閉鎖空間からの脱出というプロット
外部と内部の交換(次元転換)
まだまだ、あることでしょう。
(10)安部公房の作品は、水戸黄門や遠山の金さんのお話と同じです。これらの主人公は、通俗的なわたしたちの心理が求めるところに従って、最後には正義が勝ち、悪を懲らしめるわけですが、しかし、普段は別人に変装し、世に隠れて生きているところが全く同じです。
安部公房の登場人物たちは、同様にみな同じ面の上に(水戸黄門や遠山の金さんならば世間という庶民の平面の世界の中で)同じ価値を持たされて並んでいて、安部公房の世界の登場人物たちは、インターネット時代の用語を使えば、みなsuperflatな世界に住んでいます。(これが普通の社会人の垂直構造になれている感覚からみると、その作品がシュールレアリスティックに見える理由です。)その世界には絶対的な正義はないので、お裁きがないのです。従い、その代わり、告発者が被告になったり、被告が告発者になったり、登場人物たちは、お互いの役割を交換し、そうすることによって、互いの関係を変化させることができます。医者が患者になったり、患者が医者になったり。船長が船員になったり、船員が船長になったり。
このような役割の交換を、人類学の用語で、communitasと呼びます。これは、人類学者の観察によれば、社会が流動化して、大きな変化を経験しているときに生まれる儀礼である(これも儀礼になりえる)と説明されています。Hatena Keywordから引用します(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%E0%A5%CB%A5%BF%A5%B9):
「【communitas】スコットランドの文化人類学者ターナー(Victor Turner, 1920-83)が提唱した概念。
通過儀礼(イニシエーション)の中での人間関係のあり方を意味する。
身分、地位、財産、男女の性別や階級組織の次元など、構造ないし社会構造の次元を超えた、あるいは棄てた反構造の次元における自由で平等な実存的人間の相互関係の在り方と定義されている。」
文化人類学者のこの観察が正しければ、安部公房の意識は、いつも変化の中に自分自身をおいていたということになるでしょうし、その限りにおいて、安部公房は終生前衛の、アヴァンギャルドの作家だったことになり、他方、その世界の一定した諸要素の機能化によって、その世界は構造を以って安定しており(或いは逆に、構造があるので、諸要素の機能化が成り立つというべきでしょう)、偉大なるマンネリズムの作家ということができるでしょう。この二つは、安部公房の中では、少しも矛盾しておりません。(略)」
(この回、了)