リルケの『形象詩集』を読む(連載第14回)
『Der Schutzengel』『守護天使』
【原文】
Du bist der Vogel, dessen Flügel kamen,
wenn ich erwachte in der Nacht und rief.
Nur mit den Armen rief ich, denn dein Namen
ist wie ein Abgrund, tausend Nächte tief.
Du bist der Schatten, drin ich still entschlief,
und jeden Traum ersinnt in mir dein Samen, –
du bist das Bild, ich aber bin der Rahmen,
der dich ergänzt in glänzendem Relief.
Wie nenn ich dich? Sieh, meine Lippen lahmen.
Du bist der Anfang, der sich groß ergießt,
ich bin das langsame und bange Amen,
das deine Schönheit scheu beschließt.
Du hast mich oft aus dunklem Ruhn gerissen,
wenn mir das Schlafen wie ein Grab erschien
und wie Verlorengehen und Entfliehn, –
da hobst du mich aus Herzensfinsternissen
und wolltest mich auf allen Türmen hissen
wie Scharlachfahnen und wie Draperien.
Du: Der von Wundern redet wie vom Wissen
und von den Menschen wie von Melodien
und von den Rosen: von Ereignissen,
die flammend sich in deinem Blick vollziehn, –
du Seliger, wann nennst du einmal Ihn,
aus dessen siebentem und letztem Tage
noch immer Glanz auf deinem Flügelschlage
verloren liegt.
Befiehlst du, daß ich frage?
【散文訳】
お前は鳥だ、その翼はやって来たのだ
私が夜に目を覚まし、そして叫んだ時にはいつも。
ただ両の腕(かいな)を以って、私は叫んだのだ、というのは、お前の名前は
深淵のように、千の夜丈の深さがあるからだ。
お前は影だ、その中に私は静かに眠り込んだのだ、
そして、どの夢のことも、私の中で、お前の種子が想像し、考えたのだ、
お前は絵画だ、私は、しかし、額縁だ、
光り輝く浮き彫りの中で、お前を補う額縁だ。
お前をどのように呼べば良いのだ?見ろ、私の唇が麻痺している。
お前は始めだ、大きく注ぐ始めだ、
私はゆっくりと遅い、そして不安なアーメン(かくあれかしという祈りの言葉)だ、
お前の美を内気に決定するアーメンという祈りの言葉だ。
お前は時には、私を暗い安静の内から外へと引き裂いて出した
私に、眠りが、墓場のように見えた時にはいつも
そして、失われ行く事と逃げる事のように
すると、そこで、お前は私を心臓の暗闇の内部から外部へ持ち上げて出して
そして、私を総ての塔という塔の上で巻き上げて掲揚してやると言った
緋猩々色の旗をそうするように、そして、カーテンや衣服の襞をそうするように。
お前はこう云う奴だ:数々の奇蹟については知識についてのように語るお前だ
そして、人間たちについては旋律についてのように語るお前だ
そして、数々の薔薇について語るお前だ、即ち数々の出来事について、
それらが炎を上げながら、お前の眼差しの中で成就する出来事について語るお前だ
お前、神聖なる者よ、いつお前は、彼の名を呼ぶのだ?
その彼の7番目にして最後の日の内部から(外部へと)出て
まだ相変わらず、光輝が、お前の翼の羽搏きの上では
失われて在るというのに。
お前は、私に問えと命じるのか?
【解釈と鑑賞】
『形象詩集』には、天使という言葉が、単数複数を問わず、この詩の天使も含み、全部で8回出てきますと、前回言いました。この守護天使もその一つです。
守護天使とはどのような天使かと言いますと、ドイツ語のWikipediaによれば、次のような天使です。
「守護天使とは、神話的または宗教的な表象によれば、一つの国、一つの土地、または一人の人を守るように遣わされた天使である。」(https://de.wikipedia.org/wiki/Schutzengel)
ということになります。
このような天使が、一神教の世界で、唯一絶対全知全能のGodにより遣わされるのでしょう。従い、一神教ということから、ユダヤ教とキリスト教という二つの宗教に深い関係が、歴史的に、あります。
しかし、これまで見てきたように、リルケの天使は宗教色は全くと言って良いほどなく、確かにヨーロッパのアングロサクソン族の白人種の詩の読者は、この天使という言葉から、日常的に接する宗教的な天使像を思うでしょうし、それはそれで全く構わないわけですが、私たちは、しかし、リルケの天使は上位接続者であって、透明な媒介者であり、時間を捨象して在る存在であり、空間と空間の間を一気に無時間で飛翔することのできる存在であることを知っておりますので、そのような理解のままに、この守護天使の詩を読むことにします。詳細な、リルケの天使像については、もぐら通信第39号で『狂気』という詩を論じた時に『ドィーノの悲歌』の天使を引用して論じましたので、これをご覧ください。
第1連の「ただ両の腕(かいな)を以って」とあるのは、声を発せずに、身振りで呼びかけたと言っているのです。既に『静寂』という詩で、如何に詩人は、神聖なる最も遠い乙女に向かって、僅かな身振りによってさやけき音を立てることで、その交信を行うかは、お伝えした通りです。今再度、その説明の箇所の一つを引いて、お伝えします。
「つまり、一言で言うと、この身振りの立てる音は、神聖なる音、神聖なる響きなのです。
最初に、この詩に出てくる其のような身振りを挙げてみましょう。次のような身振りが歌われております。4の手首という天使の体の一部を除いてはすべて、人間の男としてある詩人の身振りを歌うための、身体の一部か、またはその身体の一部を使った行為です。
1。両手
2。両目
3。両まぶた
4。手首
5。呼吸
6。唇
そうして、これらの神聖なる音を立てることのできる体の一部を有するのは、孤独な人たちである。いや、あるいは逆に、孤独の人々であればこそ、そのような音を立てることができる
「孤独な人々がどんな身振りをしたら、その身振りたちは
たくさんある事物に、自分の立てる音の聞き耳を立てないだろうか?そんな身振りがあるだろうか(いや、事物に聞き耳を立てない身振りなどないのだ)。」
とあるのは、その意味なのです。」
このように『静寂』という詩にあっては、孤独な者が神聖なるもの、その詩の場合は遥かなる乙女ですし、この詩の場合には天使がそうなわけですが、話者は言葉を発するのではなく、そのような微妙なるさやけき音を立てることで、天使との交信ができるのです。
第1連を読みますと、天使とは、次の3つの隠喩で歌われております。
1。鳥
2。影
3。絵画
これらに対して、人間である話者、または詩人は、
1。鳥である天使に会うのは、「夜に目を覚まし」、「ただ両の腕(かいな)を以って」「叫んだのだ」ときである
2。影である天使の中に静かに眠り込んだ。
3。絵画である天使に対して、話者は額縁である。
天使が鳥であるのは、鳥は存在であって、即ち群れなして飛んでいても常に全体として1であり、たとえ何かの理由で別れること、分けられることがあろうとも、また一つに、1に、即ち存在という全体になるからであることは、既に何度か今まで此の連載でお伝えした通りです。リルケの純粋空間に住む生き物の一つでした。他には、風がそうであり、従い韻律(リズム)を以って人間の内外を出入りする呼気もまた存在の一種であり、また垂直に永遠に成長する樹木がそうであり、その他には噴水や海もまたそうでありました。これらの形象は姿を変えて、安部公房の世界に継承されております。
さて、してみると、天使もまた存在に生きる者であるということであることが判ります。
これに対して、私という一人称は、夜にいる。夜ならば眠る時間であるものを、夜には目覚めるのだという。そうして、両の腕(かいな)でささやかな身振りをし、それは微妙な身振りでありながら、叫ぶ。これは、『ドゥイーの悲歌』の第1番目の悲歌の冒頭の第一行にある天使に対する話者の叫び声を思い出しますと、この叫びは、同時にそのままに絶叫と言って良いような精一杯の叫びなのです。
この、夜に天使に人知られぬ小さな身振りで合図を送るということから、天使は影であり、
その影である夜に話者は居る。影という言葉からは、最初の一行にある天使の翼の影という意味であり、その影に私は「静かに眠り込」むのです。
「ただ両の腕(かいな)を以って、私は叫んだのだ、というのは、お前の名前は
深淵のように、千の夜丈の深さがあるからだ。」
という意味は、天使には「深淵のように、千の夜丈の深さがあるから」、天使の名前を呼ぶことができないという意味なのです。言葉で呼ぶことができない程に、天使は「深淵のよう」であり、「千の夜丈の深さがある」。此の原文での2行に亘る天使についての事実の指摘は、最後の連の最後の行にある、私が天使に向かって発する問い、「お前は、私に問えと命じるのか?」と照応しています。
何故なら、第1連では、人間である私は、天使の名を呼ぶことができない、最後の第3連では、Godに対しては、今度は、天使はGodの名前を呼ぶことができないからです。それ故に、天使よ、神聖なる者よ、それは何故かと「お前は、私に問えと命じるのか?」と、私は天使に問うているのです。このような状態にある天使が、Godとの関係でどのような関係にあって、その名前を天使は呼ぶことができないのかは、最後に論じます。
さて、第1連の解釈と鑑賞に戻って、続けます。天使は、私にとっては、翼の下の影に憩うことのできる天使であった。そして、その次に、
「そして、どの夢のことも、私の中で、お前の種子が想像し、考えたのだ」
とあるからには、今まで読み解いたリルケの内部と外部の交換という論理から言えば、私の夢は私が見るのではなく、天使が見る夢、いや、天使の見る現実だと言っているのです。天使は、外部からやってきて、私の内部で夢という現実を、現実の夢を見る。いや、天使の撒き置いた種子が、私の中で夢見るのです。この論理と感覚は、古代的であり、神話的です。
そうして、さてしかし、その次の行で、リルケはまた此の両者の関係の内部と外部を交換して、次の連へと連なる一行を歌います。
「お前は絵画だ、私は、しかし、額縁だ、
光り輝く浮き彫りの中で、お前を補う額縁だ。」
今度は、私が天使という絵画の額縁として、天使の外部を囲っているのです。そうして、その関係は、「お前を補う額縁だ」といっているように、相補的な(complimentary)な関係です。安部公房ならば、相補的とは数学用語でもありますから、そのままに此の詩を数学的な論理で理解をしたことでしょう。後年1967年の三田文学誌上での秋山駿によるインタヴェユーで、編集部員への回答として「僕もリルケは好きだった。けど、君のように抒情的には読まなかったな。」という安部公房ですし(全集第22巻、40ページ上段)、抒情的にではなく論理的にリルケを理解したという類似の発言をリルケ理解について幾つも折に触れて発言している安部公房ですから、天使と詩人たる話者の関係は、例えば次のようなベン図で安部公房は理解したことでしょう。
このネットから借りてきた図によれば、相補(complement)という概念の定義は、「相補であるとは、当該の集合の中にない全てのデータ項目である」ということですから、Bが天使ならば、B’が人間の私、Aが人間の私ならば、BからAとBの共通集合を取り去った領域の集合が天使だということになります。
天使と人間は、相補的な関係を創造して完璧な図形となし、Godに対して其の完璧性を示すということになります。
リルケは天使と人間の関係を絵画と額縁にたとえていますが、日本語ならば天使も仰天せよ、御神酒徳利ということでしょう。後者ならば、呑兵衛の人間に対して相補的な関係を成して完璧な図形を創造し、その図形の完璧性を以って呑兵衛に奉仕するということ、前者ならば、天使と人間がGodに対して相補的な関係を成して完璧な図形を創造し、その図形の完璧性を以って奉仕するということ、ということになりましょう。
そういえば、夫婦仲をいうのに、破れ鍋に綴蓋(とぢぶた)という慣用語もあり、これもまた相補的な関係を創造して、これはGodではなく日本の神さまに対して、というよりは、こう考えてみますと世間に対して、一種足りないもの同士の男女が相補って一つのまとまりある夫婦の婚姻の形をなすということになりましょう。こうしてみますと、キリスト教のGodとは異なり、日本の此の慣用句は最初から人間の足りなさを前提にしておりますので、日本の神さまは随分と人間に優しい。
閑話休題。
さて、第2連を見てみましょう。
私は天使が何かという問いに答えることができない。その言い換えの言葉を探している。そうして、ここでは、天使は始まりと呼ばれ、私は此れに対して、祈りの終わりの言葉であるアーメンという言葉、即ち祈りの終わりであると言われている。
とすると、天使は祈りの始まりの言葉であるということになります。その始まりの言葉は、祈りである以上、大きく偉大に(どちらもドイツ語では英語のgreatに相当するgroß、グロースという形容詞です)その身を注ぐのです。人間ならば献身ということになりましょうし、(当然のことながら無償の)奉仕ということになりましょう。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。我が身を捨てるということでもありましょう。そうして、その行為は天使の行為ですから、決して尽きることのない始まりなのでしょう。そうして、この行為には、天使であればこそ尚、美が宿っている。
しかし、この美を、私が、人間である私が終わりにして良いのか?その躊躇がある。天使は人間界の者ではない。それ故に、「私はゆっくりと遅い、そして不安なアーメン」を祈りの形式の最後の言葉として唱えるのだ。と、このように此の詩を読んでまいりますと、この連載の第1回目の冒頭に掲げた次の詩の意味が、一層よく理解することができるでしょう。
「お前の美をいつも放棄し、犠牲にせよ
計算も議論もすることなく。
お前は沈黙する。美はお前のために、こう言うのだ:わたしは存在する。
そして、美は、千倍の意義を以って、やって来る
遂に、一人ひとりの人間を超えて、やって来るのだ。
[『形象詩集』第2巻第2章の最初に置かれた『飾り文字』と題する詩]」
これは、人間に向かって詩人の語りかける言葉です。しかし、今今回の此の『守護天使』という詩を読んで、改めて『飾り文字』と題する詩を読みますと、後者の詩の命令者が天使であってもおかしくないことに気づきます。そうして、他方、今回の『守護天使』の詩は、天使のあり方を見たときに、やはり、人間の人生においてもまた、このように生きるならば、同様の美のある人生であるということを言っていることになります。
この第2連の最後の一行、即ち天使の「美を」「内気に」とはいえ「決定する」のは、人間である私が祈りを捧げて最後に発する「アーメンという祈りの言葉」であること、そうして、この言葉を口にしようとすると、あるいは口にするためには、天使よ「見ろ、私の唇が麻痺している」のだ。
第3連が「暗い安静の内」から始まっているのは、私が鳥である天使の翼の影に憩うているからです。しかし、天使は、そんな私を其の安静の内部から外部へと引き裂くようにして引き出してしまったというのです。それは、どのような時かといえば、私にとって其の天使の翼の影での「眠りが」墓場のように見えた時にはいつも、天使はそうした。眠りが失われてしまったことのようであったり、逃亡であるような場合には、いつもそうした。とすると、眠りとは、失われてしまったことではなく、逃亡でもなく、反対に覚醒であり、今ここに実際に(失われずに)在る事であり、従い、逃亡しないで其処に居る事、留まっている事であり、従い、眠りとは墓場の外に居る事である。天使の翼の影で眠るとは、そのような事である。
天使は私をそのような状態におくために、「私を心臓の暗闇の内部から外部へ持ち上げて出し」「緋猩々色の旗」や「カーテンや衣服の襞をそうするように」「総ての塔という塔の上で巻き上げて掲揚してやると言った」のです。
「総ての塔という塔の上で巻き上げ」られると、それは、どこから見ても目に付く、世間から見て一種象徴的なものになるという意味でありましょうし、塔という高みのある垂直方向に立つ建物の頂点にあるという事から、どこから見えていてもやはりそれでも尚、世俗には属さない超俗的なという意味でもありましょう。
そうであれば、私という人間は、天と地の間に垂直に立つ者ということになります。安部公房の芥川受賞作『S・カルマ氏の犯罪』の最後に主人公が垂直方向に永遠に成長する壁になる形象に通じるものがあります。
またカーテンや女性の衣服の襞を巻き上げる例として直喩で持ち出したことについては、カーテンも紐を引いて上に上げるからでしょうし、それが巻くことによってそうなるからでありましょう。ドイツの日常の国旗掲揚の写真は次のような写真です。
女性の衣服の襞もまた、同様の仕掛けがあるのではないでしょうか。紐で襞が貫かれていて、それを引くことで、衣服の襞が上に巻き上がるのではないかと思います。ドイツ民族の風俗的な衣装の専門家に訊かねばなりませんが、共通の意味を尋ねると、このようなことになります。
この共通の意味の連想に基づいて、塔の上の高い旗と地上の女性の衣服の襞との対比は、やはりリルケの対比の詩作法ですし、塔の上が外部ならば、衣服の襞は内部というように、いつもの論理は完徹しております。また、前者は高く誰の目にも明らか、後者は細かく目には見えずに隠れている。
このように考えてきますと、天使が私に要求していることは、内部に眠るな、内部で眠れば其処は墓場になる、外部に出よ、外部に出て、また内部と外部を交換せよ、その交換の境域に絶えず生きよと言っていることになります。
安部公房十代の詩集『没落の地平』に「理性の倦怠」という詩があり(全集第1巻、158ページ)、これは3つの連より成る詩ですが、その第2連は、次のようになっています。
「沈黙して待てる恐怖の墓
面つゝむ美貌の面紗(きぬ)よ
夕べ渇きに湖辺(うみべ)に走る
吾が獣群を拒むのは誰」
上の引用の第一行には、墓に沈黙していて、何かを待つことの恐怖が書かれています。そうして、話者の内部に住む獣たちは外部へと、昼と夜との隙間の時間である夕べに喉の渇きを癒すために湖辺へと走るという。次の第3連を読みますと、この獣たちの脱走は、誰かによって拒まれていることが判ります。
「おゝ此の涯なしの死の巣ごもり
受動の傷に此の血失せ
昼の転身(みがへ)に果つる迄
天の没我に息絶ゆる迄」
第2連を受けて、墓に入ることは「涯なしの死の巣ごもり」であるという。しかし、これは能動的積極的な行為ではない、受動的な消極的な行為であって、その状態を強いられるがために「受動の傷」を受け、その傷からの血もまた既に「失せ」ている。詩人は、夜の墓場に留まり置かれるのはなく、墓の穴の夜から外に出て、積極的に「昼の転身(みがへ)に果つる迄」転身を繰り返すのだ。遥か高く垂直方向に天にまで上昇して、そのために我が身を捨ててまでして行う自己喪失、自己放棄という方法論としてある転身(みがへ)によって、その「没我に息絶ゆる迄」。そうして、この没我を「天の没我」というのであり、私は天にあって死ぬのだというのです。
同じ動機(モチーフ)の詩に『倦怠』という詩があります(全集第1巻、250ページ)。ここでは詩人は蜘蛛になり、隙間で網目の蜘蛛の巣という死の綾織を織る生き物として歌われております。
リルケに戻ります。
最後の連では、天使はGodの言葉を人間界に告知するものでありますから、次の対比によって、天使が告知し語ることが如何なるものかを歌っています。
1。奇蹟と知識
2。人間と旋律
3。薔薇、即ち出来事
上の対比のうち1と2の前者の名詞が告知の内容であり、同じ後者が告知の隠喩(メタファー)です。従い、天使が告知するものは、
1。奇蹟
2。人間
これらについてであることが判ります。
3で、薔薇と出来事が同格に置かれているのは、出来事は問題を起こして(隠喩を使って言えば)「炎を上げながら」紅蓮の炎で燃えさかるからであり、その紅蓮の紅は、同時に深紅の薔薇の花の色であるからです。
こうして、ここまで読み解きますと、前の連第3連の塔の上に翩翻(へんぽん)と翻る「緋猩々色の旗」の紅色も、薔薇の色の緋色なのであり、人間界の出来事を象徴していることになります。リルケの詩想は首尾一貫しております。詩人は、そのような象徴的な者である。
リルケは薔薇を愛しました。その墓碑銘もまた薔薇を歌った次のような簡潔な詩です。
「Rose, oh reiner Widerspruch, Lust,
Niemandes Schlaf zu sein unter
soviel Lidern.
薔薇よ、ああ、純粋な矛盾、
かくも数多くのまぶたの下で
誰のものでもない眠りであるという喜びよ」
(拙訳)
このリルケの薔薇は、「宇宙空間の中心に、純粋に、矛盾のふたつがそのままの状態で均衡して、否定のことばであるniemand(だれでもないもの)の眠りとして、そのよろこびとして、かくも数々の、階層化された入れ籠構造、ネスト構造の中で咲いているのです。」(詩のブログ『詩文楽』より「リルケの空間論(個別論5):悲歌5番」:https://shibunraku.blogspot.jp/2009/08/5_15.html)
さて、このように天使は人間にGodの言葉を告知する。
しかし、どうも此の天使は、「彼」と大文字で最初のアルファベットが描かれているGodの「7番目にして最後の日」である天地創造の最後の休息の日曜日の
「内部から(外部へと)
まだ相変わらず、光輝が、お前の翼の羽搏きの上で
失われて在るというのに。」
とあるように、まだ翼の上にGodの光輝も、天使としてGodに奉仕する神聖な存在としての光輝も「失われて」いるままであるという。
それは、一体何故でしょうか。
第1連で、天使には「深淵のように、千の夜丈の深さがあるから」、天使の名前を呼ぶことができないという詩行がありました。何故、人間である私は天使の名前を呼ぶことができないのか、これに対して、天使は何故Godの名前を呼ぶことができないのか。
一番簡明な理由は、Godが天地を創造して1週間が経ち、その7番目の1週間最後の日を休息の日としたわけですが、この1週間という時間の単位が循環しない、即ち1次元の時間のままに留まっていて、時間が最初の日に元に戻らず、一つのまとまりをなす時間の単位が始まらないからです。何故ならば、第1連第一行にあるように、天使は鳥であり、鳥は群れなしながら別れることなく常に1であり、即ち存在である純粋空間の生き物であり、従い噴水もまた其の水の性質、即ち分たれることなく常に1であり全体であり、従い存在であって且つ循環するものであり、従い噴水がそうであれば鳥もまたそうであり、従い鳥がそうであれば天使もまたそうである筈なのに、この最後の連の天使は、Godの創造した第7番目の休息の日の内部から外部へと出て来ていながら、そのままに留まって、最初に回帰することなく、
「まだ相変わらず、光輝が、お前の翼の羽搏きの上では/失われて在る」からです。
さて、そうであれば、一体どうすれば、天使がGodの名前を、詩中ではリルケが「彼(Er)」と其のアルファベットの最初の文字eを大文字のEにして、それがGodであることを暗示している其の名前を、実際に呼ぶことができるようになるのでしょうか。
それは、天使が循環ということを取り戻せば良いということになります。あるいはまた、時間の単位が巡り始めれば良いということになります。前者の場合には、天使が翼を広げて羽搏き、Godの言葉を告知する目的のために、空を飛べばよく、後者の場合には、時間の単位が噴水のように循環して流れ始めれば良いということになります。
これが、最後の連の最後の行で、私が天使に向かって発する問い、「お前は、私に問えと命じるのか?」という問いの回答なのです。そうして、天使がもし私という人間に命じるとしたら、それは一体私という人間が何をすることを命じるのでしょうか。
また、見方を変えれば、この詩における天使と人間の持つ問題の共通点は、その上位者の名前を呼ぶことができないということです。それならば、一体どうしたら、それぞれがそれぞれの上位者の名前を呼んで、人間・天使・Godの関係の連鎖を創造することができるのでしょうか。天使の命令は、いづれにせよ、この連鎖の恢復を目的とした、人間である私への命令となるでしょう。
実際には、「お前は、私に問えと命じるのか?」という問いは、反語的な疑問文ですから、その意味は、いや、お前は自分自身で其の答えを知っているだろうというものです。しかし、そのことを承知で、人間(私)ー天使の連鎖について考えてみましょう。後々の他の、天使の登場する詩の理解に役立つことでしょう。
さて、この連鎖のうち、人間(私)ー天使の一般的な連鎖関係については、前回読み解いた『天使』の【解釈と鑑賞】から引用して、その答えとします(もぐら通信第45号「『リルケの形象詩集を読む』(連載第13回)『天使』」)。上の「お前は、私に問えと命じるのか?」という問いに関係して、そのまま回答となる箇所は赤字で下線を施してあります。
「『形象詩集』の中から此の詩以外からも天使に関するその他の詩を参照して、この詩の第一連 以外の天使の形象を一つにまとめますと、次のような言葉を並べて、更に此の概念連鎖を作り 込むことが出来ます。天使とは、次のようなものです。天使とは、
①1日(day)であり、朝露である。これに対して人間は樹木であるといわれている。
②神(Gott)から遥かに遠い者
③始めるもの、始めているものであり
③始めるもの、始めているものであり
④黄金の装身具に身に纏(まと)うた偉大なるもの、即ちGott(神)が何であるのかをお前 (人間)に伝えることを忘却したものである。 (この第二連のこの一行を読むと、天使は至高の存在を忘れるものであるのに対して、人間は 両手を以って沈思黙考する(sinnen)もの[註2]であるといわれている。天使は忘れ、人間 は思い出すと言っても良いでしょう。)
⑤翼を広げると、天使は遥かなものではなくなった。過去形で事実が歌われていることに注意。
⑥お前(人間)の小さな家が、天使の飛翔する翼によって滑るように流れてしまう。この際に、人間は嘗てない程に孤独であり、天使を見ることがほとんどない。このことによって、天使は神聖な森、神域の森の吐息になるのだ。
⑦天使は、お前(人間)の中で、天使自身の言葉を喪失する
⑧お前(人間)の千と一つの夢を叶えた者である(過去形であることに注意)
[註2]
既に論じた『ハンス・トマスの60歳の誕生日に際しての二つの詩』の中の二つ目の「騎士」の第2連においても、死神は甲冑の内部の暗闇の中に蹲って、沈思黙考する、あるいは瞑想(sinnen)するのでした。どうも、sinnennすると云う動詞は、死、人間の寿命のあること(有限であること)、両手を以って沈黙の中に瞑想することに関係があります。
また、既に読んだ『狂気』という詩でも、Marieという女王は、「私は存在する… 私は存在する…」と沈思黙考する、あるいは瞑想(sinnen)するのでした。
そして、これら二つの例にあっても、沈思黙考する、あるいは瞑想(sinnen)するのは、何かの内部に存在する場合なのです。
これに対して、人間は、
①人間は両手を以って瞑想し、沈思黙考する(sinnen)ものである。対して、天使はGott (神)を忘れてしまうものである。天使は人間に神が何かを伝えることができない。
②夢に囚われているものである[註3]
③成熟するものである
③成熟するものである
④大きな(あるいは偉大な)高い扉である[註4]
⑤天使の歌の最も愛する耳である[註5]
⑥天使の言葉が、その内部で喪われる者である
⑦樹木である
このように、またこのような、天使と人間の関係が歌われております。 」
さて、人間(私)ー天使の一般的な連鎖関係については、このようなものだとして、前者の場合、即ち、天使が循環ということを取り戻して、翼を広げて羽搏き、Godの言葉を告知する目的のために、空を飛ぶことができるためには、どうしたらよいのでしょうか。やはり同様に『天使』の【解釈と鑑賞】から引用して、その答えとします(もぐら通信第45号「『リルケの形象詩集を読む』(連載第13回)『天使』」)
天使には縁(へり)はなく、人間には縁があるということから解き始めた、天使と人間の(リルケの)関係論です。人間は、その存在の両手を持っているが故にGodに近く、天使は何故如何にGodに遠いかという説明です。
「【原文】
Du bist nicht näher an Gott als wir; wir sind ihm alle weit.
Aber wunderbar sind dir
die Hände benedeit.
Aber wunderbar sind dir
die Hände benedeit.
So reifen sie bei keiner Frau,
so schimmernd aus dem Saum: Ich bin der Tag, ich bin der Tau,
so schimmernd aus dem Saum: Ich bin der Tag, ich bin der Tau,
du aber bist der Baum.
【散文訳】
お前(人間)は、わたしたち天使よりももっと近く神(Gott)の傍(そば)にいるというわ けではない、わたしたち天使は皆、神に対しては遥かなるものなのだ。
しかし、すばらしいのは、お前(人間)には
両手が祝福されてあることだ。
かくも、お前の両手は、ご婦人(成熟した女性)の許(もと)では成熟しないのであり、 縁(へり)の中から外へと、かくもきらきらと輝いていて、即ち、 わたしは日であり、わたしは朝露であり、お前は、しかし、樹木なのだ。
(『布告 天使の言葉』(『Die Verkündigung, Die Worte des Engels』)
【解釈と鑑賞】
(略)
この連に再度目を向けますと、縁とは、内部と外部の間の、どちらからみても、その内部から は縁であり、外部からも縁である、数学的には其の積算の値を(中学校の数学で教わったベ ン図の集合論の図を思いだして下さい)意味しており、人間の身体の一部である両手に関して 言えば、「ご婦人(成熟した女性)の許(もと)では成熟しないのであ」るから、それは未 分化の実存である少年や、詩人に対するに同じ未分化の実存である乙女のみが知っていて、見 ることのできる境界線であり境界域であるということになります。
従い、この両手は、「祝福されてある」以上、「天使は皆、神に対しては遥かなるもの」であ るのに対して、未分化の実存たる其の様な人間は、「わたしたち天使よりももっと近く神 (Gott)の傍(そば)にいる」のだと『布告 天使の言葉』では歌われることになるのです。
ここにもまた、最も近いものは最も遠く、最も遠いものは最も近いというリルケの思想のあ ることが判ります。
このように考えて来れば、縁のある魂と、縁のない魂があり、前者は少年や乙女の、後者は天 使の魂ということになります。天使は縁のないほどにGodに遠く、未分化の実存は、前者は母 親に対して未分化の実存であり(安部公房と母親の関係を思わせます)[註6]、後者は未分化の実存を大人の男として喪失することなく時間の中で生きている詩人という男性に遥かな距離を以って恋する女性としての乙女たる未分化の実存なのです。
[註6]
『天使』の前にある『音楽』という詩に、この母親と少年の関係が歌われています。母親がピアノを、夜に子供 部屋の中で演奏すると、息子たる少年は、その音楽の中から外部へと出ることができずに、それを夢みるだけのdreamerという、性的に分化した成熟した大人同然になってしまい、詩人のところへと、その詩人の住む場所の 塀を越えて至ることができないのでした。
これが、縁の意味です。
さて、第1連の3行目に参ります。
「そして、ある憧れが(罪への憧れであるような憧れが)
折々に、天使たちの夢を通って行く。」
上述しましたように、天使は両手を持った未分化の実存たる人間ではありませんので、内部から外部へと出たいという憧れが「折々に、天使たちの夢を通って行く」のです。
しかし、それを行うと、天使は神の元へと近づくことになり、遥かな距離を以って神に仕えることができなくなり、神の意志の布告者とはなることができないのです。それ故に、「ある憧 れが(罪への憧れであるような憧れが)」と、その憧れをいうのです。
今回の此の『天使』の第2連では、両手を持った未分化の実存たる人間であれば、それは様々 にいることができましょうが、このような天使の身であれば、天使たちにはお互いに違いはないということになり、
「ほとんど互いに似ているのだ、天使たちは皆、というのは」
と歌われることになり、
「神の庭々の中で[註7]、天使たちは沈黙しているからなのであり、」
何故天使たちは神の庭々で沈黙しているかといえば、それは、上の[註7]に
「この庭に、恰も水のように「私」を「注ぎ込」むのであれば、水は常に1になり、別れても いつも一つになる全体、即ち存在でありますから、この乙女は、一つの庭でだけではなく、 存在となって複数の「暗い青色の庭々の中へと」我が身を注ぎこむことになる」
というのが、乙女という未分化の実存なのであり、上に述べたような祝福された両手を持つ処女なのであり、また乙女に限らず其のような人間の両手は、
「(略)ご婦人(成熟した女性)の許(もと)では成熟しないのであり、
縁(へり)の中から外へと、かくもきらきらと輝いていて、即ち、
わたし(天使)は日であり、わたし(天使)は朝露であり、
お前(人間)は、しかし、樹木なのだ。」
とある以上、このようにある人間に対して、これも既に上で見ましたように、天使たちは、そ のような謂わば存在の両手は持つことなく、上で詳述した理由で、
「ある憧れが(罪への憧れであるような憧れが)
折々に、天使たちの夢を通って行く。」
というのである以上、謂わば天使たちは夢を見ているのであり、それは何故かといえば、天使は両手を持った未分化の実存たる人間ではありませんので、内部から外部へと出たいという 憧れが「折々に、天使たちの夢を通って行く」からなのです。
しかし、未分化の実存たる人間に倣って其れを行うと、天使は神の元へと近づくことになり、 遥かな距離を以って神に仕えることができなくなり、神の意志の布告者とはなることができな いのです。それ故に、「ある憧れが(罪への憧れであるような憧れが)」とあって、
「神の庭々の中で[註7]、天使たちは沈黙しているからなのであり、」
という詩行が成り立つのです。 」
上の引用から赤字・下線の箇所を抜き出してみます。
1。引用1
「①1日(day)であり、朝露である。
②神(Gott)から遥かに遠い者
③始めるもの、始めているものであり
③始めるもの、始めているものであり
⑤翼を広げると、天使は遥かなものではなくなった。過去形で事実が歌われて
いることに注意。
⑥お前(人間)の小さな家が、天使の飛翔する翼によって滑るように流れてしま
う。この際に、人間は嘗てない程に孤独であり、天使を見ることがほとんど
ない。このことによって、天使は神聖な森、神域の森の吐息になるのだ。
⑦天使は、お前(人間)の中で、天使自身の言葉を喪失する。」
2。引用2
「お前(人間)は、わたしたち天使よりももっと近く神(Gott)の傍(そば)にいるとい
うわけではない。
わたしたち天使は皆、神に対しては遥かなるものなのだ」
3。引用3
「天使は両手を持った未分化の実存たる人間ではありませんので、内部から外部へと出たいという憧れが「折々に、天使たちの夢を通って行く」のです。
(略)
しかし、それを行うと、天使は神の元へと近づくことになり、遥かな距離を以って神に仕えることができなくなり、神の意志の布告者とはなることができないのです。」
4。引用4
「謂わば天使たちは夢を見ているのであり、それは何故かといえば、天使は両手を持った未分化の実存たる人間ではありませんので、内部から外部へと出たいという 憧れが「折々に、天使たちの夢を通って行く」からなのです。
しかし、未分化の実存たる人間に倣って其れを行うと、天使は神の元へと近づくことになり、 遥かな距離を以って神に仕えることができなくなり、神の意志の布告者とはなることができな いのです。」
上記1から4の引用を見ますと、私たちの問題に一番直接に答えてくれている引用は、引用1と3でありましょう。つまり、
天使が未分化の実存たる人間の真似をすると、Godとの遥かな距離を以って神に仕えることができなくなり、即ち空を飛翔し、地上に降り立って、神の意志の布告者とはなることができないのです。
このように考えれば、確かに、この詩の中の天使は、第3連にあるように、余りに私という人間に干渉しすぎております。それ故に、
1。天使は、①「1日(day)であり、朝露である」ことができない。朝露とは1日の始まりを意味します。従い、
2。天使は、③「始めるもの、始めているもの」では実際にありえず、
3。天使は、第1連では、自分の翼を広げて、人間に影を貸しておりますから、そのことが「過去形で事実が歌われていることに注意」をすれば、「既にして」(超越論的に)⑤「翼を広げると、天使は遥かなものではなくなっ」て、現在只今、いるのです。従い、
4。天使は、②「神(Gott)から遥かに遠い者」になることはできずに居て、
5。天使は、⑤「翼を広げ」ていて、飛翔しておりませんので、⑥「お前(人間)の小さな家が、天使の飛翔する翼によって滑るように流れてしまう」ようなことは起きずに、確かに此の詩では、私の「家は翼によって滑るように流れてしまう」ことなく、家にいて、夜には眠り夢を見ていることが、第3連に歌われています。その私という人間の眠りに、天使は、余りに干渉しすぎている。従い、
6。天使は、⑥「このことによって、天使は神聖な森、神域の森の吐息になる」ことはできない。何故ならば、天使が「神聖な森、神域の森の吐息」であるとは、吐息とは、風と同様に分かたれることなく常に1であり、従い存在であり、Godと人間の媒介者、透明な函数であることであり、従い告知する本来の役割を果たすものであった筈であるのに、この詩の天使は、あのrauschen(ラオシェン)というさやさやと音立てるさやけき森の中の神聖なる音を立てることができないので、もはや少しも神聖なる存在ではないからです。そのような今は天使であれば、従い、
7。人間は、「この際に、人間は嘗てない程に孤独であ」るということはなくなり、実際に第2連では、私は天使が「始めだ、大きく注ぐ始めだ」ということは良く承知しているとはいえ、私が「美を内気に決定するアーメンという祈りの言葉」を、「不安なアーメン(かくあれかしという祈りの言葉)」を(天使の始めに対して人間の)最後の言葉として口にしなければならないので不安に駆られて、「私の唇が麻痺している」のです。私が⑥「見ることがほとんどない」天使を今見ているからです。従いまた、
8。⑦「天使は、お前(人間)の中で、天使自身の言葉を喪失」しており、Godの言葉の告知を、地上の人間に対して言うことができないのです。更に何故と問えば、上の引用3によって、
9。「天使は両手を持った未分化の実存たる人間では」ないにもかかわらず、「内部から外部へと出たいという憧れ」を現実のものにしてしまい、最後の第4連にあるように、「その彼の7番目にして最後の日の内部から(外部へと)出て」しまい、「折々に、天使たちの夢を通って行く」憧れを現実のものとしてしまったために、「しかし、それを行うと」、繰り返しになりますが、「天使は神の元へと近づくことになり、遥かな距離を以って神に仕えることができなくなり、神の意志の布告者とはなることができないのです。」それ故に、
10。最後の第4連では、「まだ相変わらず、光輝が、お前の翼の羽搏きの上では/失われて在る」のです。この輝き、Glanzというドイツ語の名詞には冠詞がありませんので、Godの光輝と天使の光輝の二つを併せて意味しています。
それでも尚、天使よ、「お前は、私に問えと命じるのか?」「お前、神聖なる者よ、いつお前は、彼の名を呼ぶのだろうか」?それは、お前が、「彼」の創造した1週間という時間の単位の内部にとどまり、永遠の循環の中にあって飛翔した時である。しかし、その時には、お前は「既にして」(超越論的に)⑦「天使は、お前(人間)の中で、天使自身の言葉を喪失」しているのだ。
その時に初めて、天使よ、お前は「彼の名を呼ぶ」ことができるのだ。
これが、私という人間ー天使ーGodの連鎖の関係であり、天使がこのような順序で「彼の名を呼ぶ」ことができれば、この三者の連鎖関係は創造されるのです。
最後に、もう一度考えてみれば、天使は、①「1日(day)であり、朝露であ」り、朝露とは1日の始まりであるにもかかわらず、Godの創造した1週間の構成単位である1日たる天使が、「その彼の7番目にして最後の日の内部から(外部へと)出て」しまっては、「まだ相変わらず、光輝が、お前の翼の羽搏きの上では/失われて在るという」のは当然だということになりましょう。
既にリルケが27歳から31歳にかけて書いた此の『形象詩集』(1902年~1906年)の天使も、最晩年の傑作『ドィーノの悲歌』の天使(1923年)も、全く変わらずに同じ「上位接続者、差異を埋め、接続する透明な関数としての統合接続者としての天使像」ですから(もぐら通信第45号『天使』冒頭参照)、その間のすべての詩集に登場する天使もまた、ここで解析したのと同じ天使像に違いありません。この「上位接続者、差異を埋め、接続する透明な関数としての統合接続者としての天使像」については『ドゥイーノの悲歌』の天使の当該箇所を引用して、もぐら通信第44号の第12回の『静寂』で詳細に論じましたので、これをご覧ください。
次回は、『殉教の女たち』です。