今日は、詩のワークショップには、所用あり、残念ながら、行けなかった。
やはり、なんだかんだといって、夕方まで掛かってしまった。
しかし、転んでもただでは起きない、このわたし。
電車に乗って、向こうにある「古代メキシコ、オルメカ文明」の広告写真をみていると、あることに気がついた。
この写真には、このマヤ文明以前の文明の民族のつくった石の仮面、石像の顔が大写して載っているのだが、これをみて、何故人間は、似たもの同士を集めるのだろうと思った。
これらの顔は、この文明の民族の男の典型的な顔のひとつひとつだと思われる。
この顔は、言語、詩の世界ならば、譬喩、特に隠喩(metaphor)というpower(権力)のことを意味する。
論理的な言語形式としては、AはBであると定義すること、何と何が等価であるかを考えることである。
この隠喩とは、あるいは譬喩とは、そもそも、言語の等価原理である。
お金、銭金と同じ淵源から生まれてきているのだ。
この交換原理の、この世界、この世での貫徹を願う詩人は、裏切りという言葉を使って、これを否定的に表現しようとする。
これは、道徳的、倫理的な言葉であり、詩人の考えである。
(これは、前回詩のワークショップにいらした、三角みづ紀さんの言葉を思い出して書いている。)
しかし、詩人は、そのあり方(絶対贈与者)からいって、この言語的交換原理即ち、譬喩を裏切っている。
このようなことを考えた。
ショーペンハウアーが自分の主著の註釈に入れたアリストテレスの言葉はまことに意味深長、意義深いものである。それは、
似たもの同士を集める、これは人類の叡智である
という言葉である。
文字の通りには正確な引用ではないが、これと同じことを言っている。
なぜ、人間は、似せて表現するのであろうか?
なぜ、人間は、似ていることにこんなに感嘆するのであろうか?
これらのことは、すべて、言語は機能であることを証明しているのだ。
ついに、わたしの最後の問いは、何故宇宙はそのように出来ているのか?という問いである。