ご縁があって、芭蕉七部集の冬の日を読むことになった。
誠にむつかしいが、また考えること、読み込むことが面白い。
例えば、冬の日の歌仙の3巻の発句:
つつみかねて月とり落とすしぐれかな
(しぐれは本来は雨かんむりの時雨を使っています。)
これは杜国(とこく)の句であるが、この最初からわからない。
というような調子で、冬の日の3巻と4巻を行きつ戻りつ日が暮れた。
俳諧、連句を読んでいて、はたと思ったことがある。
それは、西脇順三郎の詩に実によく似ているということである。
句と句の関係、繋がり具合が、とてもよく似ていいる。
句と句の呼吸といってもよいと思う。
あるいは、句から句への展開が。
西脇順三郎という詩人にとって詩を書くことは、一人で連句をするようなものだったのだと思う。
そうして、その詩を読むと、その句の連続がそのまま旅であったことも、旅であることもわかる。
今日西脇順三郎の書いた「はせをの芸術」というエッセイ(評論、批評)を読んだが、それによれば、芭蕉は老荘思想を学んだということである。
これは、ビジネス、business、忙しい状態というものの対極にある、全く無為なる境地である。しかして、美あり。文学とはそのようなものである。
追伸:境地! ヨーロッパの白人種たちであれば、認識というであろう。