つれづれなるままに、あれこれと思うことあり。
若い頃斉藤茂吉の弟子である方の短歌の会に誘われて入って、現代短歌という題であったろうか、書棚のどこかに紛れて出てこないが、その月刊誌にわが歌を掲載していただいたことがある。その歌が記憶の中から出てこない。それが、想起の契機になりそうなのであるが。
確か、真夏の緑陰を歌った歌で、緑陰の中で白葡萄酒を飲むのだが、葡萄酒の杯の冷たさのしづもりを愛(め)づという歌であった。しづもりという言葉があるものかどうか。
陰としづもりということは、わたしの思うところを、今に至るまで、よく言い表していると思った次第。
何故、こんな歌を思い出したかというと、それは、先日のミッドナイト・プレス主催のJames Wrightの夕べで正津勉さんのおっしゃった四季派の詩のこと、詩と戦争のことと、そのあとの首都大学での壇上の論者たちの戦争詩論のことを思ったからである。
言葉が激しくひとを煽動するということがあるし、そのように言葉を使うことができるのに対して、逆に言葉がそのような感情を鎮静するように作用させることができるということは、対照的であって、不思議なことである。後者が言葉の、詩のというべきか、本懐、本義であるとわたしは思う。
わたしはマチスの絵をみるたびに、この本懐を思う。
首都大学の催事の二次会であるうら若き女性に向かって、何の脈絡であったか、戦争の起源と性愛の起源は、言葉、言語という観点からは同じであるという所論を述べた。
それは、言葉によって言われたことに100%従うことが快楽であるからだ。言う方もまた。これは、こうして書いていても暴力の世界と紙一重である。人間は100%意志を言葉で伝達したいと思っている。これが、これらの悲劇的なことの原因である。意思疎通、コミュニケーションという言葉の適用範囲は思いのほか深いと思う。
軍隊の、命令の言葉が死とともにあるのならば、性愛の言葉もまた死とともにあるだろう。
今日も、何故わたしは言葉によってこんなに動かなければ、動かされなければならないのかと思って、こんなことを思い出し、また考えたのだ。
わたしは、緑陰に潜みたいと思っているのだ。しづもりをめでながら。
確かに、文法的にも、命令の言葉が祈りの言葉であるとは、なんということかと思う。ドイツ語では、ともに接続法というのであるが。英語でも仮定法といって同じであろうと思う。教会の、お寺での祈りの言葉は、文法的には、命令の形式と同じなのだ。ふたつのこころは同じ根から生まれるのだ。
軍隊の、戦争の言葉と性愛の言葉。性愛の言葉と宗教の言葉。
うら若き女性に、このようなことを露らわにいうことがよかったかどうかは別ではあるのだが。しかし、これらのことは、エロスのことなのだ。
詩もまた、このエロスとコミュニケーションということから逃れることができないとわたしは思う。