荒巻義雄第一詩集『骸骨半島』を読む
(1)
世界接触部品
目次
老人と飛行士
骸骨半島
ウォール
バタフライ・ソング
化石の書庫
エリオット氏に捧げる詩
タイムズ スープ
上昇通路
一分の一幾何学
無限印刷機
樵(きこり)の哲学
霞論哲学
フロイト博士の貸家
表徴の帝国よりあなたへ
アインシュタイン・タンゴ
解体現象学
神の三角函数
淤能碁呂島幻歌(おのごろじまげんか)
虫族の詩(うた)
世界接触部品
覚え書き
*****
この詩集には全部で二十篇の詩が収められてゐる。最後の「覚え書き」は自筆の後書きです。この詩人は1933年小樽の生まれ。安部公房は1924年の生まれですから、安部公房より9歳の後進。この詩集を出したのが、後書きによれば2011年ですから、78歳での第一詩集です。素晴らしい。安部公房の耽読したリルケの『マルテの手記』にいふ、詩は世間の人が思ふやうに感情では無い、経験である、様々なことを経験して人生の最後にやつと生まれる三行、これが詩だ、といふリルケの言葉を地でいつた方だといふことになります。
この詩人を取り上げて論じようと思つたのは、複数の理由と目的がありますが、その一つは此の詩人自身が安部公房の読者であつて、その言語論を実に正確に深く理解してゐることに驚いたこと、さうして二つ目は、安部公房が自分の文学を仮説設定の文学と定めた其の文学の典型であるSFの世界での著名なSF小説家であること、三つ目は、そのやうな詩人であることの理由として、この人間もまた安部公房同様に典型的なバロックの人間であるといふこと、そして其れがどういふことであるのかを、同じバロックの人間である安部公房の読者であるあなたにも知つてもらひ、安部公房については勿論ですが、四つ目は、この詩人の詩集に歌はれる詩を巡つて論ずることになる様々な引用に触れて、むしろ其のやうな人間としてある筈の自分自身への理解を深めてもらひたいと思つたこと、といふことになるでせう。
全部で二十篇の詩が収められてゐる此の詩集の中からtopologicalに最初に最後を考へて、最後の詩「世界接触部品」を最初に読みます。
安部公房の世界から此の詩人の世界を眺めると、どのやうに見えるのかを論じます。その前にまづ、詩(poetry)とは何かを、お伝へして、本論に入ります。
詩は、連想の藝術です。
詩とは、この連想に関する技術、即ちartと呼ばれるに値する最高度の技術、即ち藝術です。
この定義の意義と意味は誠に深いものがありますので、詩を論じながらお伝へします。私がいふと信用が無いかも知れませんので、ショーペンハウアーの主著『意志と表象の世界』のある章の脚註でアリストテレスの言葉をギリシャ語で引用し、ドイツ語に訳したところを記憶から今引つ張り出すと、アリストテレスは、連想(association)は人類最高の能力であるといつてゐます。
バロックの世界認識は、世界は差異であるといふ認識です。あるいは、世界は差異からできてゐる。差異があるので世界がある。差異から世界は生まれ、創造される。差異は空虚であり、何も無いことですから、ドーナツは穴があるのでドーナツになるといふ論理です。つまり、連想と連想の間が穴であり、隙間であり、歪みであり、差異である。とすれば、これは言語活動の根本でありますから、人類はみな本来、言語に関する限り、バロックだといふことになり、実は私はさう言ひたいのです。そして、この目に見えない事実を知つてゐる人たちがゐる。それが、安部公房であり、荒巻義雄といふ二人の詩人といふ訳です。
さて、さういふわけで、時代とは無関係に、どの時代にあつても、この認識に基づいて生きる人間は、バロックの人間です。バロックの原義に戻れば、巷間言はれてゐる通りで、ポルトガル語のbarocco、即ち歪んだ真珠といふ語源の示す通り、連続体または連続量としての差異、即ち歪みのある何か完全で美しいもの、であつたもの、そして其の歪み、即ち非連続体または非連続量としての差異、いづれにせよ差異を意味してゐます。もつといへば、世界は差異であるとは、
世界は最初から歪んでゐる
といふ意味でもあります。これは物理学の世界でのアインシュタインの宇宙観にも一致してゐる。世界は最初から歪んでゐる。学校では、この真理を教へない。私は教はらなかった。あなたは如何。また、非連続量として世界を見れば、
世界は最初から隙間だらけだ
といふ意味でもあります。学校では、この真理を教へない。私は教はらなかった。あなたは如何。社会は完璧で矛盾なく、座標は一つしかなく、それも不動で固定してゐるといふ。しかし、世界は最初から隙間だらけだ。隙間に棲むのが箱男であり、その他の全ての安部公房の主人公たちである。あなたも其の一人だ。
さて、これは、このまま安部公房の読者と荒巻義雄の読者の共有する世界認識です。この詩集と詩は、この世界認識に依拠して書かれてゐる。もつと抽象的にいへば、
世界は関係から成つてゐる、または世界は関係の集合である
といつてもよい。と、ここまで抽象化すると、世界は差異であるとは、なんだか当たり前のことやうに思はれる。さうではありませんか?
詩の題名が既に、この世界が関係の集合であることを示してゐます。世界接触部品とは一体何であらうか?それは、
1。世界が何かに接触するための部品
2。人間が世界に接触するための部品
3。部品が世界に接触するといふ其のやうな部品であるといふこと
4。人間といふものが、世界に接触する部品であるといふこと
5。世界が世界自体に接触する部品であること(再帰的に部品は世界を含んでゐること)
6。二つの異なる世界が互ひに接触するために必要とする部品
7。部品は世界といふシステム(体系)の一部を構成するといふことの筈であるが、それは安部公房と同様に「空白の論理」によつて余白と沈黙に隠されてゐて、表立つては文字になつてゐない。つまり、この部品は世界といふ主語をひつくり返す力を有する述語部にある部品である。この部品は此の詩にあつては「熟語の駿馬にまたがる主語」と呼ばれる。
といふやうな意味を持つ部品であるといふ事になります。
さて、更に、この詩の中からバロック的な要素または部品としてある言葉を抜き出して、以下に列挙してみませう。
1。カタログ:書物としての世界
2。襞(溝、穴、袋、隙間)
3。言葉の交換
4。記号の使用:内部と外部の識別と交換
5。存在の白い布:安部公房スタジオ
6。Topology(位相幾何学):接続と変形の数学
7。次元変換または次元展開(後者は安部公房の用語)
8。構造または世界の構造
9。遊牧民(ノマド)的天幕:遊牧民のテント
10。根茎(リゾーム)的:ネットワークの接続と変形
11。定住者と横断者
12。熟語の主語
13。境界面
これらが皆、世界の差異、即ち世界の隙間と歪みに関係した言葉です。
以下「世界接触部品」と題する詩です。
「世界接触部品
秘密のカタログがある
それが〈世界〉の部品表。
異端の哲学者ジル・ドゥルーズ氏が
遺したカタログから
〈世界〉の秘密を解き明かす試み
さあ、白い大きな布を広げなさい。
四隅をもって結び合せれば三次元へ
糸の解(ほつ)れを摘んでどんどん引きだせば
二次元は一次元へと還元され
広げた白布をぐちゃぐちゃにすれば
突起が
くぼみが
現れるでしょう。
白布を両端からぐんぐん押しつければ
現れるのが深い襞構造、褶曲です。
不思議な襞
襞によって創られる空間は 果たして
外部でしょうか。
内部でしょうか。
細長ければそれは溝
溝が縮まれば穴
位相学的には同じもの
ライプニッツ氏は言いました。
「〈世界〉の構造はモナドです。」
窓のない単子(モナド)。
ドゥルーズ氏は言いました。
「モナドは襞であり、溝であり、穴だ」と
あたかも時を刻む時計たちのように
それぞれは無関係で孤立しているのに
同じ時を打つのはなぜでしょう?
ライプニッツ氏の答えは単純明快!
――予定調和
なんと好都合な言葉でしょう……
「窓なしモナドには、魂も封じ込められているんですって」
「神様にもモナドがあるんですって」
「モナドが世界の基本構造なんですって」
でも?
なぜ?
モナドの中に封じ込められたもの同士が、交信できるのだろうか。
あたかも熱交換機にも似て、断絶しながら熱だけが伝わる構造もあるんだろうな。
胎児と母胎を繋ぐ臍帯の構造も同じだ。
われわれ物質界の輩は
グノーシスの教義に従い
神界の声を同様にこの装置で聴きとるのだ。
もし此の世界がつるんとしていたとすれば、こうした交換はうまれない。
内と外は断絶したまま……永遠に交接の快感さえもうまれない。
だからこそ、世界は襞構造
不思議な不思議な襞構造
だからこそ、
哲学は裁縫師の仕事だ。
デカルト建築ではないのです
壮麗な大理石の大伽藍ではないのです
むしろ
遊牧民(ノマド)的天幕と言えるのでは……
たとえば、モナド――その正体は布の袋だから透けて見える
馬乳酒が染み出す。
内側からの話し声が 包(パオ)の外に漏れ出す。
世界の構造には隙間がある と認識すれば
だからこそ
世界は通底器 すなわち根茎(リゾーム)的……
われらは定住者の帝国主義者ではない
われらは世界を横断する者
熟語の駿馬にまたがる主語は 境界面を浸透する」
【註釈】
第1連を見て見ませう。バロック的人間とは註釈を書く人間といふ意味でもあります。註釈とは本文に対する言葉にある文脈(context)を読者に簡潔に示すものです。一見、本文に対して従属的、附属的な位置にあるやうに見えますが、註釈がなければ本文の文意が読めぬ程の註釈であれば、それはいづれが主であり客であるかがわからぬことになり、客が主となり主が客となるといふ安部公房の世界が現出します。典型的には『箱男』を連想して下さい。あるいは安部公房のクレオール語論を。さて、それでは、最初の註釈を施します。
「秘密のカタログがある
それが〈世界〉の部品表。
異端の哲学者ジル・ドゥルーズ氏が
遺したカタログから
〈世界〉の秘密を解き明かす試み
さあ、白い大きな布を広げなさい。」
ここでいつてゐることは、世界は部品からできてゐて、その部品の掲載されてゐるカタログがあり、それがカタログである以上、人が自分の世界観に合わせて好きな部品を註文して、好きな世界を製作することができるといふことである。世界は其のやうな一冊の本である。
それ故に、単に世界ではなく、そのやうな記号付きの〈世界〉なのだ。そして、それは秘密のカタログである。といふことは、誰でもが目にしたり、手にしたりすることのできないカタログである。これは、そのやうな人だけに与へられるカタログで、即ち〈世界〉の秘密を解き明かしたいと願ふ人のためのカタログである。それが20世紀のフランスのバロックの哲学者、ジル・ドゥルーズ氏の遺したカタログとしての作品群である。
この哲学者の著作の一つに『襞 ライプニッツとバロック』という、バロックの本質を突いた其のものズバリの題名の著作がある。また、『差異と反復』といふ、これも其のものズバリの著作もある。ライプニッツといふドイツのバロックの哲学者の名前は、詩の第5連に出てきます。この哲学者はモナドと自らが呼ぶ、安部公房ならば存在の部屋を宇宙の単位と考へて、汎神論的存在論を論じた哲学者です。安部公房の部屋には窓がありますが、ところが、このライプニッツの唱へるモナドといふ存在の部屋には窓がない。さてどうやつてモナド同士は意思疎通を図るのか。
『差異と反復』といふ題名の後者、即ち反復を、詩人は、最後の1行で、
熟語の駿馬にまたがる主語は 境界面を浸透する
といつてゐる訳である。熟語とは既に繰り返し使はれ、人口に膾炙した言ひ廻しであり、慣用句であり、従ひいつも同じ語句となる。その語句は、その語句の当てはまる文脈であれば、領域を問はずに通用する。それ故に、それは「境界面を浸透する」といふのだ。面といふ言葉から、この詩人は、安部公房と同様に現実を二次元の面で捉へてゐることと、それが何か立体と立体の接続面であること、今風にいへばインターフェイスであることを知つてゐる。
しかし、このやうにものを考へる人間は、ヨーロッパといふ唯一絶対神を信じなければならないキリスト教、即ちローマ法王庁から見れば「異端の哲学者ジル・ドゥルーズ氏」といふことになるのだ。これは17世紀のバロックの哲学者たちが、さうやつて危難にあひ、難を避けてオランダに逃れて思弁を続けたのと同じである。バロックは、キリスト教から見れば、文字通りの正しい異端である。
さて、そのやうな「境界面を浸透する」越境者のバロック人間の「遺したカタログから〈世界〉の秘密を解き明かす試み」は、何よりもまづ「さあ、白い大きな布を広げ」ることから始まる。それはさうだ、唯一絶対の、天地を創造し、この宇宙全体を創造したGodは論理の矛盾であるから、そんなGodなどゐない、ニーチェのツァラトゥストラの叫び廻った如くに「Got ist tod!」(「神は死んだ!」または「神が死んだ!」、安部公房の世界の言葉でいへば、全てをご破算にして、ゼロから考へよう、ご破算で願ひましてはといふことであり、学校日本史の時間で習ひ覚えた江戸時代の政治でいふならば此れは徳政令を、チェスならばAll undone(”あっ、一寸待つて、今の手は無し!”)を、あつたことを全てなかつたことにしようといふ約束事であり、人間は此の約束事をどうしても必要とする。この「さあ、白い大きな布を広げ」ることは、安部公房スタジオの総合舞台藝術の世界と同じ、あの存在の白い一枚の布を広げることと同じ意味である。バロックの劇場は存在の劇場なのだ。17世紀のイギリスのバロックの劇作家シェイクスピアのいふ通り、「世界は舞台、人はみな役者」なのだ。[註1]
[註1]
“All the world's a stage
And all the men and women merely players.”
And all the men and women merely players.”
(『As you like it』(『お気に召すまま』)
第2連に行くと、
「四隅をもって結び合せれば三次元へ
糸の解(ほつ)れを摘んでどんどん引きだせば
二次元は一次元へと還元され
広げた白布をぐちゃぐちゃにすれば
突起が
くぼみが
現れるでしょう。」
一枚の布を、身近な布ならば風呂敷を、「四隅をもって結び合せれば三次元へ」となり、『赤い繭』の無名の主人公のやうに「糸の解(ほつ)れを摘んでどんどん引きだせば/二次元は一次元へと還元され」ることはよくわかる。今度は白い布の次元展開を問題下降するのではなく、「同じ次元の内で平面上に広げた白布をぐちゃぐちゃにすれば/突起が/くぼみが/現れる」でせう。皺くちやの布とは、隙間のある形状、凸凹のある形状、突起と窪みが現れる。それも、凸凹が二つとも実は同じものとして。何故なら、元は一枚の布だから。安部公房も『スプーン曲げの少年』を書くときには、同じことを考へた。スプーンも凸凹、素材は位相幾何学では捨象されて、反対のものも一つになる。両極端は実は同じものだといふことになる。全体は、かうして1、即ち存在。なんだか『仔象は死んだ』や『水中都市』の解説をしてゐるやうな気がして来た。
従ひ、第3連にあるが如くに、
「白布を両端からぐんぐん押しつければ
現れるのが深い襞構造、褶曲です。」
第4連は、この襞構造を受けて、
「不思議な襞
襞によって創られる空間は 果たして
外部でしょうか。
内部でしょうか。
細長ければそれは溝
溝が縮まれば穴
位相学的には同じもの」
といふことになる。さう、topologicalにはみな同じもの。内部は外部であり、外部は内部であり、この関係が両義的に繰り返し反復されて関係が交換される。「熟語の駿馬にまたがる主語」であるあなたが 「境界面を浸透する」とは、このことである。
この内部と外部の交換の持つ両義性を一番わかりやすく知ることができるのは、あなたが白い布ならぬ白い画用紙かコピー用紙を机の上に置いて、鉛筆を一本持ち、一筆書きで迷路を描くとよくわかる。お薦めします。あなたは忽ち迷宮入り。あなたはあなた自身を見失ひ、『燃えつきた地図』の主人公のやうに、自分自身からも失踪する。私は7歳の時に此の遊びに夢中になつて以来、最近ではスマートフォンの一筆書きのアプリをダウンロードして、まあ、病膏肓に入つて此の歳に至る。安部公房、荒巻義雄と似たり寄ったり。
似たり寄ったり、さあ、これがライプニッツの世界。だから、第5連は、
「ライプニッツ氏は言いました。
「〈世界〉の構造はモナドです。」
窓のない単子(モナド)。
ドゥルーズ氏は言いました。
「モナドは襞であり、溝であり、穴だ」と」
ライプニッツ氏曰く、これが世界の構造である。世界は差異である。この差異は連続量としてもあり、非連続量としてもある。20世紀の物理学ならば、光は波であり、且つ粒子である。この両義性のある容態または形態をとるのがモナドである。さう、従ひ、ドゥルーズ氏のいふ通り 「モナドは襞であり、溝であり、穴だ」。且つ、襞であれば凸であり、且つ凹であり、砂の穴であり、爆発で吹き飛んで凹になつた顔であり、既にして燃え尽きてしまつてゐる陰画としての、従ひ、negativeの、凹の、従ひ襞の地図だ。それ故に、二つ目の凹、即ち「他人の顔」の冒頭は、次のやうな一行で始まるのだ。
「はるかなひだを通り抜けて、とうとうおまえがやって来た。」(『他人の顔』全集第18巻、322ページ)(傍線筆者)
そして、第6連を。
「あたかも時を刻む時計たちのように
それぞれは無関係で孤立しているのに
同じ時を打つのはなぜでしょう?
ライプニッツ氏の答えは単純明快!
――予定調和
なんと好都合な言葉でしょう……」
さう、時間は複数存在する。安部公房の主人公が座標の固定した(と世間のみなが信じ込んでゐる)閉鎖空間を脱出する際に、現実を断ち切つた其の断層や断面に観たやうに。さう、時間を断たねば、時間を捨象しなければ脱出はできない。それは「あたかも時を刻む時計たちのように」であることが大事だ、物事の本質だ、それは恰も何々であるかの如く、全てはas ifの世界。埴谷雄高ならals ob(アルス・オップ)の世界。全て此の現実は贋の世界であるといふ真理と真実。穴も突起であり、突起も穴で、山は谷であり、谷は山で、これら互ひに異次元である次元同士は恰も「それぞれは無関係で孤立しているのに」「同じ時を打つのはなぜでしょう?」
それは、モナドがあるから。世界はモナドといふ部品から構成されてゐるから。ライプニッツのモナド論に、仮に詩人のいふ予定調和があるとして、それは間違ひなく、世界は座標のない故に、即ち差異だけの世界であるが故に、動態的な予定調和であり予定不調和であり予定非調和である。動いてやまぬものが永遠に留まるわけがない。明日の時間の存在は保証されず、人間のどんな計画も予定不可能である。何故なら、明日とは既に昨日実現した過去の時間の、現在に於ける現れだからだ。差異と反復である。だから、それ故に、あなたは『密会』の主人公になつて「いくら認めないつもりでも、明日の新聞に先を越され、ぼくは明日という過去の中で、何度も確実に死につづける」のだ。「やさしい一人だけの」再帰的な「密会を抱きしめて……」(原文傍線は傍点)といふのは、この意味である。(『密会』第26巻、140ページ)これが17世紀のバロック哲学者たちの至つた超越論である。しかしこれは何も近代ヨーロッパ白人種の専売特許では全然ない。近代の哲学ではカントが初めてこれを論じたとあるが、そんなことをいへば、既にヨーロッパ哲学が始祖に求めた古代ギリシャのソクラテスの考へが超越論である。何故ならば、その超越論的バロックの対話術はみづからによつて産婆術と命名されて二義的な地位を与へられ、全ての物事は、存在も含めて、問ひと答への間に、対話の差異に、隙間に、歪みに、常に時間を問はず動態的にあるからだ。そんなことを云へば、追々語るやうに、これは有色人種の神々の世界に生きる私たちの汎神論的存在論の世界だから、少しも難しいものではない。即ち、死者は死んでゐるのではなく生きてをり、お盆になると帰つて来る。針供養をする。何故なら、針にも命が在るから。人形もまた捨てるのではなく、供養をする。もつたい無いといふ言葉を私たちは日常使ふ由縁です。古代ギリシャの世界にも神々がゐまします。キリスト教の世界ではない。
ドゥルーズが、ヒューム、ベルクソン、スピノザ、カント、ニーチェを論じたのは[註2]、どうみても、これらはみな汎神論的存在論者だからです。ヒュームについては、私は無知だが、そのあとの哲学者たちはみな汎神論的存在論を論じまたは言及した哲学者たちだ。これに加へれば、ニーチェの先生のショーパンハウアーを入れよう。主著『意志と表象の世界』の開巻第一行に既に超越論の論理が単純に書かれてゐる。「世界は私の表象である。」さう、全てはals ob、as ifの世界、贋の現実、表象、Vorstellung(フォアシュテルング)、英語でいふimaginationなのだ。世界はあなたが想像し創造する。これがバロックだ。
[註2]
さて、第7連を。
「「窓なしモナドには、魂も封じ込められているんですって」
「神様にもモナドがあるんですって」
「モナドが世界の基本構造なんですって」
でも?
なぜ?
モナドの中に封じ込められたもの同士が、交信できるのだろう
か。
あたかも熱交換機にも似て、断絶しながら熱だけが伝わる構造も
あるんだろうな。」
ライプニッツのモナドには窓はない。さて、でも、何故「モナドの中に封じ込められたもの同士が、交信できるのだろうか」?
それは、『Monadologie』(『単子論』)によれば、すべてのモナドはSubstanzen(ズプスタンツェン、英語のsubstances、実質と仮に此処では訳します)を共有し、複数の実質からできてゐるからだといふのです。だから、窓がなくとも、意思疎通の交信をモナド同士で行ふことができる。そして、ライプニッツは平然と何喰はぬ顔でいふ、この複数の実質とはGodである、と。かうなれば、机にも実質あり、瓦にも実質あり、壁にも実質あり、あれも実質、これも実質であれば、なんといふことはない、Godが万物に遍在してゐるといふ汎神論的存在論ではないか、ライプニッツさん。さう、「あたかも熱交換機にも似て、断絶しながら熱だけが伝わる構造も/あるんだろう」といふのが、これです。恰も光のやうに、波と粒子は同じものの二つのあらはれといふが如し。窓はないので互ひに断絶しながら、意志の熱だけが伝はる構造とは、これである。次に、
第8連を。
「胎児と母胎を繋ぐ臍帯の構造も同じだ。
われわれ物質界の輩は
グノーシスの教義に従い
神界の声を同様にこの装置で聴きとるのだ。」
グノーシスの教義とは、Wikipediaによれば(https://ja.wikipedia.org/wiki/グノーシス主義)、反キリスト教である。バロックの論理ではないが、反キリスト教といふ点で接点がある。しかし、これ以上は教義の中には立ち入らない。
そして、第9連。
「もし此の世界がつるんとしていたとすれば、こうした交換はうま
れない。
内と外は断絶したまま……永遠に交接の快感さえもうまれない。
だからこそ、世界は襞構造
不思議な不思議な襞構造
だからこそ、
哲学は裁縫師の仕事だ。
デカルト建築ではないのです
壮麗な大理石の大伽藍ではないのです
むしろ
遊牧民(ノマド)的天幕と言えるのでは……」
さう、この世の交換は差異があつて生まれる。商業的な交換も、物理的な交換も、あらゆる世上の交換は、差異があつて生まれる。交換とは例外なく、すべて、この差異を無くすること、埋めること、ゼロにすることを意味する。人類は地球上に生まれてから、延々と毎日毎日、差異を埋めるための交換をおこなつて来たのだ。これが、バロックの観点から一言でいふ、人類の歴史である。人類は毎日毎日帳尻を合わせる。経理の人は毎日さうしてゐる。契約の交渉も然り、権利と義務の関係の差異はゼロになる、これを対等といひ、ビジネスの交渉はすべて、このためになされる。これが商売。何もかも同じだ。あなたは差異の中に生き、差異を無にするために生きてゐる。これが世のため人のためといふ意味。さう、
「だからこそ、世界は襞構造
不思議な不思議な襞構造
だからこそ、
哲学は裁縫師の仕事だ。」
スピノザは、オランダに亡命して、毎日レンズを磨いて哲学を考へたが、スピノザも襞を縫ふ哲学者。レンズは遠いものを近くに寄せる。小さいものを大きくする。しかし、この詩人は、
「デカルト建築ではないのです
壮麗な大理石の大伽藍ではないのです」
と歌ふが、デカルトも17世紀のバロックの哲学者。スピノザと同じだ。肉体と精神を分けたのは、キリスト教のなしたことである。それを媒介するものが唯一絶対のGodであるといふが、さうではない、個人の名前でものをよく冷静に考へれば、それは真理ではない、当時の医学の知識によつて、肉体と精神を上位接続して統合するのは、即ち人間個人を完成したものとなしてゐる物質的な器官が脳下にあつて、それが松果体であるとデカルトはいつた。それが後世の知識で誤謬であるかどうかは関係がない。大事なことは、差異のある現実を受け入れて、それを高次に一つに統合することを考へたことである。
この考へがどのやうなものかは、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する~安部公房の数学的能力について~』(後篇)で詳述した通り。さう、デカルトは解析幾何学の創始者であれば、確かに「壮麗な大理石の大伽藍」を建築したかもしれない。しかし、その大伽藍の塔は外面と内面の間に隙間があつて、しかし外部からはさうとは見えず、内部に入ってもさうとは見えぬといふ、見えた通りの現実ではないといふ仕掛けが施されてゐるのがバロックである。これは『バロックとは何か』と題して、当時の建築図面を示して、後日詳細に説明を致したい。訪問者が本物と思つてゐる大伽藍は、実は贋物。何故なら隠れた隙間が必ずあり、また左右そつくりな二つの空間は目に見えぬやうに歪み、ズレてゐるから。訪問者には気がつかない。これが、現実もまた贋であり、本物の現実などないのだといふのがバロックの精神なり。さて、
「むしろ
遊牧民(ノマド)的天幕と言えるのでは……」
とあるのは、この通りでありませう。遊牧民の天幕の形象を、安部公房は言語の形象として語つてゐる。そして、それがそのまま私の小説の構造である、と。[註3]
[註3]
『安部公房の変形能力余話:リルケの純粋空間』( もぐら通信第18号)より引用して、安部公房の言語の形象(イメージ)についてお伝へします。
「大江健三郎との対談『対談』(全集第29巻、72ページ)において、三島由紀夫の芝居の構造を論じているところで(74ページ)、安部公房曰く、「彼(三島由紀夫)は古典的構造 といったものを信じていたらしいけど、僕は、逆に、構造が抜けた、テントみたいなものから考えるのがすきなんです。」と述べている。このとき、1990年、安部公房66歳。
この「構造の抜けた」テントの譬喩は、全く安部公房の言語観、言語は機能 (関数)であると考えるときの、機能についての形象(イメージ)に他なりませんが、しかし、今回論じている窪みとの関係でこの形象(イメージ)を見てみますと、明らかにこれは、空虚な窪みの、虚ろの、ウロの、何ものか (10代の安部公房はドイツ文学に学んでこれを生と呼んだ)の陰画である言葉の窪みのイメージであることが判ります。構造の抜けて失せた、虚ろなテント、です。窪みを象(かたど)るだけの言語表現、言語組織、即ち作品。」
ヴィトゲンシュタインが、同じ言語のイメージを「一軒の家を取り巻いて巨大な足場が組まれ、その足場が全宇宙に及んでいるのを想像してみてもよい」(論理哲学論考)といっています。ヴィトゲンシュタインも言語機能論ですから、その言語イメージがよく似ることになるのだと思いますが、この類似は興味深いものがあります。
ともに、体とか家という中身が言語なのではなくて、その外側を包んでいる空なる衣装、足場が言語だといっているのです。」
さて、第10連は、
「たとえば、モナド――その正体は布の袋だから透けて見える
馬乳酒が染み出す。
内側からの話し声が 包(パオ)の外に漏れ出す。
世界の構造には隙間がある と認識すれば
だからこそ
世界は通底器 すなわち根茎(リゾーム)的……」
「モナド――その正体は布の袋だから透けて見える」のは、それが実質からなつてゐるから。実質とは、布の袋である。机も布の袋、窓も布の袋、壁も布の袋、床も布の袋、あれもこれもみな、皆さん、布袋なのです。安部公房がリルケに学んだ、結末共有の、透明感覚の世界です。『方舟さくら丸』の最後を振り返つて見ませう。これも布袋の世界、隙間だけからなる世界、皺の世界、褶曲の世界、襞の世界です。
「それにしても透明すぎた。日差しだけではなく、人間までが透けて見える。透けた人間の向こうは、やはり透明な街だ。ぼくもあんなふうに透明なのだろうか。顔の前に手を透かして街が見えた。振り返って見ても、やはり街は透き通っていた。街ぜんたいが生き生きと死んでいた。」(全集第27巻、469ページ下段)
布袋の世界で、あなたは透明人間になるのです。透明であるが故に、境目はなく、「馬乳酒が染み出す。/内側からの話し声が 包(パオ)の外に漏れ出し」、あなたも至る所に区別なく遍在する。目に青葉と思へば、あなたは青葉であり、そこに在る美しい光である。日本語の人称には、そもそも三人称はなく、彼我の区別はない。また一人称と二人称にそもそも自他の識別も、ない。私の吾(あ)は、あなたの吾(あ)である。あなたは馬父酒であり、パオの中の話聲であり、それがパオの境界面を浸透して外部へと「いつの間にか」(超越論的に)漏れ出す。「どこからともなく」漏れ出す。あなたは言語の天幕を浸透して自由に内部と外部を往来するバロックの人間である。
かういつた考へは禅問答のやうだが、禅の公案は正しい。世界に構造などなく、ただ隙間在るのみ、従ひ全ての公案の回答は、無。[註4]禅もまたバロックである。
[註4]
禅と同じと言つても良い、しかし安部公房固有のバロック的認識を20歳の安部公房は次のやうに書いてゐます。
「けれどこんな迷路にも終止符を打つ可き時が来た。或る月夜だった。私は不思議な力を得て天空を飛翔した。そしてあの概念の古塔の上へとやって来た。月は太陽の様に輝き渡って、総てを私の前にてらし出した。私は総てを見た。塔も、塔の中も、山も、麓も町々も、又火をはいてゐる自己証認も。皆が月の光に、白く浮かんでゐた。……塔の中は完全な空虚……無だった。そして深い崖だった。きり立った丸い谷間だった。其の底に、私は流れを見た。それは歌い、且つ笑って居た。そして黄金色に光って居た。そして私は総てを理解した。やがて、私は没落をした。」(『没落の書』全集第1巻、143ページ上段)
「世界の構造には隙間がある と認識すれば
だからこそ
世界は通底器 すなわち根茎(リゾーム)的……」
であるのだ。リゾームはドゥルーズの用語のやうですが、安部公房の読者ならばtopologyといへばおしまひ。ドゥルーズもtopologyといふ用語を使つてゐるので、安部公房の読者は、この用語でドゥルーズは理解することができる。リゾームは地下茎だといふのが良い。何故ならば、そこは地上ではなく、地下世界、undergroundのもぐらの世界だからです。
さて、最後の連を。
「われらは定住者の帝国主義者ではない
われらは世界を横断する者
熟語の駿馬にまたがる主語は 境界面を浸透する」
さう、我らは定住者ではなく、一方的に版図を拡大することに専心するだけの帝国主義者ではない。「われらは世界を横断する者」である。「熟語の駿馬にまたがる主語は 境界面を浸透する」。さう、この主語は反復される贋の主語、この主語が「境界面を浸透する」のだ。
Topologicalに、最後に最初に戻つて、この詩の全体を眺めて御覧なさい。よく腑に落ちてわかる筈です。まあ、安部公房の読者たるあなたには、釈迦に説法でありますが。
さて、これで、反復する次のことについては、すべての説明が終はりました。
13。境界面
12。熟語の主語
11。定住者と横断者
10。根茎(リゾーム)的:ネットワークの接続と変形
9。遊牧民(ノマド)的天幕:遊牧民のテント
8。構造または世界の構造
7。次元変換または次元展開(後者は安部公房の用語)
6。Topology(位相幾何学):接続と変形の数学
5。存在の白い布:安部公房スタジオ
4。記号の使用:内部と外部の識別と交換
3。言葉の交換
2。襞(溝、穴、袋、隙間)
1。カタログ:書物としての世界
そして、最後は最初に戻るメビウスの環。これは、あなたの人生そのもの。三次元ならば、あなたの立つてゐるのは、クラインの壷の空虚な、無の「境界面」。世界の底は抜けてゐる。即ち世界は宙浮く一冊の書物、一冊のカタログなり、平安の雅びなる王朝風に云へば、夢の浮橋。