2011年3月28日月曜日

Pflanzen(植物):第14週

Pflanzen(植物):第14週

by Ulla Hahn (1946年生まれ)


【原文】

Setzlinge druecken aus Plastikcontainern
ins Erdreich. Vaterlandslose Gesellen. Taufen:
Jeden auf seinen Namen. Gruppen bilden
Bruederschaften und Kolonien.
Boden suchen und Sehnssucht
wandeln in Wurzelwerk.


【散文訳】

木の苗を、プラスチックの容器から取り出して
大地の領域に押入れる。祖国の同胞たち。洗礼を授ける:
各人をそのひとの名前で。集団を形作ること
兄弟の絆と植民地を
地面を求めること、そして、あこがれを
植物の根っこの総体の中で
変化させること


【解釈】

この女性詩人については、次のWikipedisaにアクセスして下さい。

写真が載っています。

http://de.wikipedia.org/wiki/Ulla_Hahn

ドイツの抒情詩人です。

ドイツの文学史では、この詩人の詩は、一般的に、「新しい主観性の叙情詩」に数えられるのだそうです。

この詩も叙情詩なのでしょう。

第2次世界大戦のドイツの混乱の中で歌われた叙情詩ではないかと推測します。

1943年にホロコーストの施設、アウシュヴィッツで消息の途絶えたユダヤ人の女性詩人、Gertrude Kolmer、ゲルトルード・コルマーの代理人となっています。代理人とWikipediaに書いてあるドイツ語は、法律用語ですから、この抒情詩人は、同性の詩人のために告発をし、訴訟を起こして弁護士の役割を演じたと理解することができます。

カトリックの頑迷な土地柄に抗して文学の世界の中へと成長してゆく女性を描いたベストセラー小説、「家の中の夫」(あるいは「家の中の男」とも訳すことができます)を書いています。

これは、男性である夫による抑圧からの解放の物語です。

この小説は全部で3部作だということです。

今までに、抒情詩集を9冊上梓しています。

機会があれば、この詩人の叙情詩を読んでみたいものだと思います。

最後のところ、

地面を求めること、そして、あこがれを
植物の根っこの総体の中で
変化させること

とある詩行の「変化させる」という言葉は、wandelnというドイツ語ですが、これには辞書によれば宗教的な意味があって、宗教用語としては、化体(かたい)する、と訳される言葉です。

化体するとは、(パンと葡萄酒をキリストの肉と血に)化体(かたい)するという意味です。

ですから、あこがれを化体するということと、この宗教的な歴史的な概念を重ねて表しています。

そのこころは、やはり神を求める、救いを求める、平安を求めるというこころではないかと思います。

根っこの総体の中で。

この場合、植物とは何の譬喩でしょうか。

生命溢れる表の、地上の世界でしょうか。

しかし、そうだとして、この詩人のこころは、眼に見えない地下の根の世界にあるということなのでしょう。

そここそが、わたしたちの日常、大切なわたしたちの生きる世界。

まだまだ、思い、思わせるところの多い詩行です。

なるほど、これが叙情であり、叙情詩であるかと思います。

2011年3月22日火曜日

3月22日(戦後詩)

風邪の具合よろし。風邪のこと、それから地震のことありとて、この数日間、誠に信じがたきことなれど、一滴の酒も飲んでいない。

芭蕉七部集ひさごを繰り返し読む。

東明雅先生の「連句入門」をまた読む。

この本は、誠によき本であると改めて思ふ。

3月16日の「なにぬねの?」の我がブログにて、

淡々と職場で仕事をしながら考えたことであるが、この天災、即ち地震、津波、そして福島原発の事故の日本人に齎(もたら)した意義は、第2次世界大戦、或いは大東亜戦争で敗北して生まれた戦後の思考空間、言論空間の、完全なる崩壊だということです。

と書いたが、今日も、俳諧を読みながら、やはり、同じ思ひを深くするものなり。

解酲子さんが、3月16日の同じブログにて、

それまでは当たり前の風景だったものが、まったくありきたりでなくなる経験をした。

と書かれているが、これは如何なる文脈にてもあらん、詩人の直観(直感ではない)は、正しいのである。

同じ直観から発せられた言葉を、この、なにぬねの?にて、幾つも読んだ。

詩の世界ということでいえば、この天災、即ち、この地震、この津波、この原発の事故と共に、戦後詩の時代は、終わったのである。

東北三陸沖の地層地殻の変動とともに、詩の言葉の地層地殻も変動したのである。

言葉の地軸が動いたのだ。

(これは譬喩である。しかし、詩人よ、このときに思へよ、譬喩とは何かを。)

こう思い、わたしは瀬尾育生の戦争詩論を今日アマゾンで註文した。

当時この詩論の出たときに、詩人たちは沈黙をし、或いは、批評した詩人の批評の言葉は惨たるものであった。

何が書いてあるかわからなかったのだ。

ある若い女性詩人の現代詩手帳の批評文など、あわれであったと今思う。

語学ができるできないの問題ではないのだ。

他方、瀬尾さんのドイツ語のルビが、戦後の日本でどれだけの威力を持つか、瀬尾さんが思っているほど、わたしは全然楽観的ではないけれども。

若い詩人の間でも、戦争という経験と、それから発する言葉の継承が途絶えたということを、上の若い女性の詩人の批評は示していたのである。

今思い出しながら、書くと、この女性も、瀬尾さんのいうことを、自分の狭い経験と社会学的な知識とで理解しようとしたということであるが、百聞は一見に如かず、とても、今回の経験と体験には叶わない。

言葉だけに頼っている人間の限界である。

ということが、今わかる。

更に、他方、それ故に、戦争の言葉を用いる詩人が出現しても不思議ではないと、その批評を読んだ当時、そう思われた。

戦争とは何かである。

なにぬねの?において、わたしは既に答えを、言語の立場から書いているので、何もいうことはない。繰り返すと、

戦争と性愛とは、言語の立場からみると、同じ起源に因るのである。

恐ろしいことだ。

片や、死の恐怖、片や快楽。

明日から、また職場に向かうが、さて、どうなるか。

わたしたちの日常は、少しも日常ではないということが明らかになった今、バランスを保つということは、誠に、難しいことである。

banさんのおっしゃる通り、ゆっくり、というのが、ひとつの心的態度だと、わたしも思ふのである。

戦後詩は死んだのだ、と、だれかが譬喩のうちの隠喩を使っていうのであろうか?

それが、詩人であればこそ、素晴らしい。

とわたしは、そう思うのです。

瀬尾さんの本の到着を楽しみにしているタクランケです。

2011年3月19日土曜日

Moelkerbastei (メルケル式陵堡):第13週

Moelkerbastei (メルケル式陵堡):第13週

by W.G. Sebald (1944 - 2001)


【原文】

Beethovens Zimmer
Ist aufgeraeumt jetzt

Die Bilder gerade
Die Vorhaenge gewaschen
Und jede Woche die Boden
aufs Neue gewienert

Den Sessel aber
Hinter dem Fluegel
Hat man beseitigt

Dennoch kommt er manchmal
des Nachts und Komponiert was
Im Stehen

Als Vorschrift nur
Mit dem Hoerrohr
Zu hoeren


【散文訳】

ベートーベンの部屋が
今では、すっかり整理整頓されている。

壁に掛かっている絵も真っ直ぐに
カーテンも洗濯されて
そして、毎週、床も
新しく、ピカピカに磨かれて

しかし、グランドピアノの後ろの
椅子は片付けられてしまっていた

それでも、ベートーベンは、何度も
夜にやってきて、そうして、立ちながら
何かを作曲している

そのときの規則は、ただ
聴管を以て
耳傾けるというものだが


【解釈】

この題名のMoelkerbasteiというのがわかりません。

Moelker、メルカーというのは、ひとの名前のようですから、メルカーさんというひとが発明したBasteiということなのでしょうか。

Bastei、バスタイというのは、意味がふたつあって、エルベ川を臨む奇岩群という意味と、戦争用語で、Bastionとも異称されて、陵堡(りょうほ)という意味があります。

BasteiをGoogleの画像検索で検索すると、圧倒的にエルベ川の奇岩群の写真がたくさん出てきます。

Bastei、バスタイの異名、Bastion、バスティヨーンで検索すると、お城の堡塁が写真でたくさん出てきます。

ここでは、後者の戦争用語で、メルカー式陵堡と訳しておきます。

これが、どのようなものかは、次のWikipediaの説明と写真を御覧ください。

http://en.wikipedia.org/wiki/Bastion

さて、この詩の題が、そうだとして、それがこの詩の内容とどう関係があるのか。

晩年耳の聞こえなくなったベートーベンが、聴管という音を聞くための補助器具を使って作曲するということが、城塞でいう陵堡ということなのでしょうか。あるいは、そうするという規則が。

この詩での、この詩人の言葉の使い方で目立つのは、動詞の省略です。

ただ、名詞または名詞相当語句を置いている。

2連と最後の連が、そういう表現になっています。

訳では、言葉を補いましたけれども。

この詩人がどういう詩人であるかは、次のURLアドレスを御覧ください。

http://en.wikipedia.org/wiki/W._G._Sebald

http://de.wikipedia.org/wiki/W._G._Sebald

2011年3月17日木曜日

この度の天災の意義と意味

昨日は、午前中にやはりというべきか、緊急の電話にて、出社とは相成った。

非常事態とて、いつもとは違う建家である。

いよいよ、赴任者本人であるドイツ人が本国ドイツや東南アジアへ避難を始めていて、このひとたちを送り出すという最後の仕事である。

しかし、この先週末から今日の朝までの閑暇の時間に、ドイツの友人からもらったカレンダーの詩を1ダース、数えてみると、訳していた。

どれも、いい詩である。

こうしてまた、国難のさなかに、詩とはなにかを考えているという次第。

職場で、訳した詩に手を入れていたりなぞした。

全く、詩の世界は、別世界、現実とは別した世界であることが実感され、痛感される。

淡々と職場で仕事をしながら考えたことであるが、昨日の天皇陛下のヴィデオのお言葉を拝見し、また自衛隊という軍隊の活躍をみて、第2次世界大戦、或いは大東亜戦争に敗北して生まれた戦後の歪んだ思考空間、歪(いびつ)な言論空間が、完全に崩壊したということ、この事を感じます。

感じるばかりではなく、思い、考えるのです。

余りに、犠牲が大きすぎますが、これが、今回の天災、即ち、地震、津波、そして福島原発事故の意義だと思います。

さて、その意味は?

それは、その思想的意味、政治的意味、経済的意味、社会文化的意味、文学的意味、詩的意味は、日を追って、自づと、明らかになることでせう。

わたしは、徹頭徹尾、言語の立場から、これらの物事に対処したいと思います。

紅旗征戎は我が事にあらずと嘯(うそぶ)いた10代後半、二十歳に近かった定家の言葉を、何百年も経ても、わたくしは大切にしたいと思います。

あの当時も、社会は混乱、いや戦乱でありましたろうか。

2011年3月12日土曜日

無題:第12週

無題:第12週

by 大伴家持

【原文】
Zaehle ich die Monde,
ist es immer noch Winter;
doch sah ich schweben
heute Streifen von Nebel.
Heisst das, der Fruehling kommt bald?

【散文訳】
わたしが、月を数えると
まだまだ冬であるが、
しかし、今日、霞の棚引いているのが見えた。
ということは、春がもうすぐやって来るということなのだろうか?


【解釈】

これは、大伴家持の歌です。

日本語の和歌では、何と詠む歌であるのか。もしご存知のかたがいらしたら、教えてください。

と思っていたら、Akiさんが見つけてくれました。

それは、次の歌です。

月数(よ)めば いまだ冬なり しかすがに 霞たなびく 春立ちぬとか

カレンダーの仕掛けは、上のドイツ語のような言葉の並べ方をすることで、如何にも月の前にかかっている雲のようすを表しています。あるいは、月の前の雲や霞でなくとも、地上の霧や霞の様子でもよいと思います。

月を数えるというのは、ドイツ語からの直訳です。月が複数になっています。文字通りに、空の月を、毎日毎日、ひとつ、ふたつ、みっつと数えている。そうやって、冬の時間の経過をはかっているということなのでしょう。

あるいは、毎日毎日、春待ち遠しく、月齢を数えているということかも知れません。

確かに、この時期、春の到来を感じる光の肌触り、光の暖かさですが、大きな地震が襲って来ようとは。

2011年3月5日土曜日

何故宇宙はこのようにできているのか

私の宇宙論は、言語機能論である。

言語は機能だという論である。

さて、掲題の問いを立てて、考えることがあるのであるが、その問いに対する答えは、3つある。

1. 原因
2. 理由
3. 由来、由緒

1の原因を述べても回答がでない。それは、原因と結果の連鎖に囚われて(文字通りに)、時間の中で1次元の思考しかできないからです。

第1原因などというものを仮定しても駄目だ。

その原因は直ちに何かの結果であることから、その原因の原因を求めることになるからだ。

時間の軸の上だけで考えても、過去と未来に原因と結果の連鎖が無限に続くだけで答えが出ない。

2の理由を求めると、答えがでそうに思う。それは、理のある由来という意味であろうからだ。

しかし、この問いは、目的を考えることに傾きそうなところがある。

つまり、宇宙が何故こうあるかというと、それにはこのような目的があるからだ、というものである。

それから、やはり原因をいいそうになる傾きがあるとも思う。

こういったことに煩わされないでいいのが、3つめの答え方で、由来や由緒という言葉を使って答えることだと思うが、如何か。

と、まあ、このように短い時間の中でいろいろ考えたのだが、青い鳥の話ではないが、やはり答えは身近にあった。

何とあっけない答えだろう。

それは、概念である。

この宇宙は概念に由来するのだ。

最初に概念があって、どちらが先かわからないが、しかし現象は時間の中で現れるだろうから、まづ最初にふたつの概念があって、それがひとつになった。

つまり、論理演算でいう論理積が生まれた。掛け算の答えだ。これも概念だ。新しい概念が生まれた。これが3つめの概念だ。

この概念が生まれることで、宇宙はまた更に広がって、種々多様なものが生まれた。

そして、同じ事を、ある概念がそのひとつの宇宙の中で、またその宇宙の外にある別の概念と結びついて(交わって)、新しい宇宙をつくっている。

ということが永遠に繰り返される。(永遠にというのは、既にひとつの次元を前提にしているので、その中では永遠に続くように見えるということです。つまり、その次元の外側が常にあるということ。)

(ことばで書くと、余りにも易しい。)

このときにある規則を、わたしは唯一の普遍言語規則といっている。

概念は、全く論理的なもので、生きた知性、生命であるから、宇宙を創造した最初にあるのは(あったのではなく、いまもある)、そのような知性、そのような生命であると考えてよいのであろうか。さて、どう考えたらよいものか。

ということを、今考えている。

こういうことを考える人間は変人であろうか。どうであろう。

孔子曰く、朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なりと。

若いときは、激しくこの言葉に惹かれた。そうして、そう生きたと思う。

どうも、ここに書いたことが道ならば、わたしは、もうそろそろ早くに死んでしまうのであろうか。

50代になると、友の中にも亡くなるものもいて、確かに、いつ死んでもおかしくはないということになっているのではないかと思われる。

このごろ考えるのは、今のうちに遺書を書いておいて、その遺書には、本居宣長がそうしたように、墓の図と墓碑銘を書いておくというものである。

この宇宙は、概念に由来する。

この答えは、概念がいつ生まれたかを問わないのだ。

その問いを問えば、また時間の連鎖の中に思考が紛れて答えを見失う。

この宇宙の由緒は、概念にある、と考えることである。

酔っ払いの詩人:第11週

酔っ払いの詩人:第11週

by Gotthold Ephraim Lessing

【原文】

Ein trunkner Dichter leerte
Sein Glas auf jeden Zug;
Ihn warnte sein Gefaehrte:
Hoer’ auf! du hast genug.
Bereit vom Stuhl zu sinken,
sprach der: Du bist nicht klug;
Zu viel kann man wohl trinken,
Doch nie trinkt man genug.
Antwort eines trunknen Dichters


【散文訳】

ある酔っ払った詩人が
グラスの酒を、ぐいっぐいっと一息に飲み干していた。
同行者(友達)が警告して、こう言った。
おい、止めろよ。もう十分だ。
椅子からもう滑り落ちそうになりながら
詩人は言った。お前、頭が悪いな。
飲み過ぎるということはあるさ
でも、これでいいということがないんだ。
というのが、酔っ払った詩人の答え。


【解釈】

この詩には、題名はついていないのですが、敢えて、酔っ払いの詩人としました。

酔っ払うという動詞と、詩人という名詞ほど、相性のよい品詞はありません。

カレンダーの原文は、上のドイツ語の詩が、丁度ワイングラスの形になるように書いてあります。

それも、グラスは傾いていて、丁度ワインの量の液体に相当する文字は、赤い文字になっているのです。

これは、どうも赤ワインと見えます。

これは、ドイツ文学史に名高いレッシングというひとの詩です。

こいう詩を学生のときに読んでいたら、レッシングの読者になっていたかたも知れないのだ。

レッシングの人生は、1729年から1781年です。

「お前は頭が悪いな」と訳したところは、お前は、賢くないなと原文ではなっています。まあ、酒飲みのこころが解らないような人間は、聡明ではないといっているようにも聞こえますね。

あるいは、バッカやろうと訳してもよいかも知れない。

これは、素晴らしい一行だと思う。

こういう詩を読むと、このひとが劇作家だということが、わかるような気がします。人間の感情の機微が言葉にまつわりついている。こうやって、生き生きとしたセリフに満ちた、actionの豊かな脚本を書いたのでしょう。