2017年6月20日火曜日

荒巻義雄第一詩集『骸骨半島』を読む (3): ウォール

荒巻義雄第一詩集『骸骨半島』を読む
(3)
ウォール

この『ウォール』といふ詩は、安部公房と此のSF詩人の、いや最初の『世界接触部品』を書いて以来幾つもの小説を読んでゐるのでかう呼ぶのが最もふさはしいとおもはれるが、宇宙人といふやうな具合にSF人と呼ぶと其のSF人の、安部公房と共有する題名と用語で始まる此の壁を歌つた詩の第一連を引用して、「ウォール」論を書く事にする。

このSF人の最初の長編『白き日旅立てば不死』は昭和47年12月31日、西暦1972年、安部公房が『箱男』を出し、安部公房スタジを発足させて目立つてリルケと自分の詩の世界へ回帰する年の前年です。この小説の題名を構成する3つの言葉が、この詩人の、そして小説の、そしてまた詩の、姿を既に言ひ表してをります。最初の長編を1992年に再々度出版するに当たり書いた自筆の解説に次のやうに書いてゐます。作家としての出発が1970年、この文章を書いた20年後に、安部公房の死のこれもまた前年に、既にかう書いてゐる。

「作家は経験を積み、知識を増やすことにより熟練していくが、失うものも多い。何かといえば、第一に感性である。作家生活を送ることの慣れが、文体の瑞々しさを失わせる。人は齢を重ねることによって、世の中に馴染み、それなりの居心地のいい場所を得るものだが、これが作家の仕事に限らず、創造行為にとっては最大の敵なのであろう。
 むろん、わかってはいた。承知はしていた。多くの前例があったから。自分なりに警戒していたから、できるだけ〈中心〉から離れようとしていた。しかし、たとえ離れていても、書くことによって作家は書くことそれ自体に慣れる。これが怖い。初心に返らなければと思うものの、周囲の環境がそれを許してくれない。矛盾である。
 今になって気付いたのだが、『白き日旅立てば不死』の中心テーマは、この〈外縁の魂〉だったと思う。社会の中心界の縁、つまり境界の外にいる者のことを、概念化して社会心理学は、アウトサイダーと呼ぶ。コリン・ウイルソンの著書『アウトサイダー』も、この心理学のタームから取られているのだ。
 辺境人と訳されている。国境の近くに住む者たちということいなるだろうか。」(『定本 荒巻義雄メタSF全集 第3巻 白きひ旅立てば不死』の「解説 漂白する魂の記録」363~364ページ)

これから本論に入るに当たり先に少し此の詩人の割り当てた記号の意味について述べると、著者が〈〉といふ記号を使ひ〈中心〉と書き〈外縁の魂〉と書くときには、中心ではなく外縁の魂ではなく、この世と非連続的に連続し、また連続的に非連続してゐる別の次元の〈中心〉であり、そこからみて云ふ現実と人が盲目的に信じてゐる世界の中心ではない〈中心〉のことであり、この詩人の魂が既に其処にある時には、其処にあるが故に〈中心〉と書くのであり、そのやうな魂を〈外縁の魂〉と書くのです。これが解説の題名の「漂白する魂の記録」といふ言葉の意味なのです。そして作者は同じ記号を使つて次のやうに書いてゐる。

主人公の白樹は「遠藤というSF作家に出会うことによって、世界そのものの持つメビウス的二重構造に気付き、ついに〈異界〉の存在を容認するのだ。
 物語のプロットはざっと右のとおりだが、重要なのはやはり〈気分〉であろう。作品世界に漂っている空気のような者だ。『白き日……』の世界は白い。ブラウン管の向こうに見える景色のように透明である。ではなぜ白なのか。黒の反対概念として白が必要だったからか。なぜ透明なのか。世界の汚辱性の反対概念として必要だったからか。この作品は、さまざまな象徴記号によって構成されており、その記号の意味と解法は、作者だけの解読表に委ねられる。」とするならば、作者の解読表の復元こそが、読者のなすべきことといふことになる。
この詩人は安部公房の余白と沈黙の透明な白を共有してゐる。そして、この解説の最後にかう書くのです。

「そして、諸権力の支配する現世より離脱して、魂は〈異界〉を目指すのだ。もはや生も死もない世界の相。その世界相は、生死連続体である。すべてが脱色されたような不死世界へと魂は旅立つのだ。多分そこにも、救済の一つのあり方があると思うから……。」(同巻368~369ページ)

この言葉の意味するところは、詩集の最後に置かれた詩『世界接触部品』の最後の連の、

「われらは定住者の帝国主義者ではない
 われらは世界を横断する者
 熟語の駿馬にまたがる主語は 境界面を浸透する」

とあるところに従へば、現世は、脱色ではなく着色された生と死の世界に定住する者たちの住む世界であり、この定住する国を此の詩で帝国と呼び、対して最初に置かれた詩『老人と飛行士』で老人のいふ「この土地は全部おれのものだ」と飛行士に向かつていふ土地とは〈土地〉であり〈異界〉であり、現世に対しては実は〈外縁の魂〉の住む外縁であり、やはり「熟語の駿馬にまたがる主語」が「浸透する」「境界面」といふ「生死連続体」の、辺境人の棲む宇宙の実は〈中心〉なのだ。さあ、そして第一連は次のやうに始まる。

「傾くは地層の無意識
 鋭く北に
 対峙して黒々……」

三行目の「地層の無意識」が白ではなく「対峙して黒々」であるのは、このウォールと呼ばれる、ローマ帝国の築いた境界線を示す防御壁は、領土拡張のためにローマ軍がブリテン島に上陸してケルト民族と戦つた時の軍事防衛線として北に対峙するものであり、北といふ以上それは霊獣玄武を意味し、北の方角の色彩は黒であるから、また確かにヒースの丘陵は曇天といふ天の低い時には黒々として見えたのかも知れないと想像をする。

「黒々……」とある記号「……」は、安部公房ならば「僕の中の「僕」」に独白的・内省的・再帰的な対話の中に思考が落ちて行くことを示して、いや暗示して、ゐますが、この詩人の場合にも此のことは当て嵌まります、しかしもつと表に、内にではなく外に向かつて、外部と内部とこれらの接続と、そして此の接続関係にあつて作者と話者と主人公の思ふ永遠、即ち〈異界〉への思ひの、無意識の地層または「地層の無意識」からの湧出を明示的に且つ暗示的に、この記号は示すのです。

この意識の地表に湧き出た無意識は、現世では、しかも此の帝国と戦つた最初から多次元的な「地層」に存在する「無意識」にとつては、白ではなく黒い色を帯びて現世の意識となり、帝国の行つた殺戮に対する悲憤慷慨の感情を歌ふことになる。

第一連の最後の黒い色の「……」は、最後の連の最初では、

「傾くは地層の無意識……」

と歌はれて、外部と内部とこれらの接続と、そして此の接続関係にあつて作者と話者と主人公の思ふ永遠、即ち〈異界〉への思ひの無意識の地層または「地層の無意識」へと回帰して行く。さう、帝国の領土なのではない、そこを宇宙船に乗つて「カルナック航法」によつて遥か彼方のあの惑星のあの土地へ、老人の住む辺境の「北極圏の荒波と風が/気まぐれな贈り物を渚に打ち寄せさせる」(現世の生者から見たらほとんど死に等しい)あの土地へと帰還するのだ。北とはそのやうな方角であり、そのやうな方角に存在する土地である。最後の連の此の象徴的記号「……」の後に、次の四行が続いて詩は(見かけ上)終はる。

「「おれはこの荒涼たる景色を一編の詩に閉じこめるつもりはない」
 と、草むらの髑髏が言い放ち 虚空を見つめる
 虚空の眼(まなこ)
 「おれの心に近づくな」と――」

地層は時間のまとまりある幾つもの層を持つてゐる断面である。そして垂直の崖もあらうが、眼にすることのできる地層の壁(ウォール)は大体が傾き傾斜してゐるだらう。この「連なる塁壁(ローマン・ウォール)を敢へて地層の無意識ととるならば、そのやうな「地層の無意識」である。ここは、辺境人と戦ふために、

「かつて軍団は ここに留まり
 彼らの旗
 帝国の平和」

を実現しようとして心ならずも、「熟語の駿馬にまたがる主語」である辺境人による「境界面を浸透する」力に負けて遂には防御線を築かざるを得ず、できた壁である。それ故に、この荒涼たる景色は、

「連なる塁壁(ローマン・ウォール)
 意識は吹き払われ 剥き出されるヒースの荒野
 吹き渡る風 蛮族の恨みと化し
 たれ込めし暗雲の冷たく湿り気を帯び 風すら剣となり
 血の匂いを運ぶ 黒い丘の国」

と第二連で歌はれる。この壁の立つ丘の国は黒い。ローマは帝国であるが故に「帝国の平和」の名前、

「その名は パクス・ロマーナ
 ブリタニアの屍の丘と化し
 王妃は犯され
 王女らは弄ばれ
 王の首は平和の証
 世界の富は彼らの都に
 すべての道は彼らの都に」

略奪され、運ばれて行つた。王族の処刑の様は繰り返しとなつて、そのまま呪文となり、死者の霊を慰めるかのやうに聞こえる。

しかし私は「傾くは地層の無意識……」の「……」の象徴的な記号の、辺境の、〈異界〉の住人である此の詩人は、こんな詩行を書いて満足するつもりなど毛頭ない。「おれはこの荒涼たる景色を一編の詩に閉じこめるつもりはない」のだ。

この科白は死んだ兵士の髑髏の発する言葉です。

「と、草むらの髑髏(どくろ)が言ひ放ち 虚空を見つめる」

「傾くは地層の無意識……」の後は、その世界は〈異界〉になるので、髑髏もまた生きてゐる。何故ならば、この象徴的記号は、内にではなく外に向かつて、外部と内部とこれらの接続と、そして此の接続関係にあつて作者と話者と主人公の思ふ永遠が語られるからである。

これが、

「虚空の眼」

であり、髑髏といふよりは、この「虚空の眼」が「言ひ放つ」と言つても良いのである。ここは〈異界〉であり、帝国の侵略できぬ辺境である、塁壁はあり、ここから先は白い世界であるからには、お前たち「定住者の帝国主義者」たちよ、お前たちの住むべき土地ではない、さつさと帰るがよい、この土地は私の〈外縁の魂〉の住む北極圏である、「おれの心に近づくな――」と。

そのやうに時間の中の現実にあつて〈異界〉を見ることのできる「虚空の眼」。この眼の虚ろな眼窩は「不思議な襞/襞によって創られる空間は 果たして/外部でしょうか。/内部でしょうか。/細長ければそれは溝/溝が縮まれば穴/位相学的には同じもの」「さあ、白い大きな布を広げなさい」「広げた布をぐちゃぐちゃにすれば/突起が/窪みが/現れる」からです。これが「〈世界〉の秘密を解き明かす試み」

あなたも「さあ、白い大きな布を広げなさい」。

しかし、このtopologicalに真つ白な「秘密のカタログ」を手にしてゐないものは、「おれの心に近づくな――」。

この詩人は骸骨の「虚空の眼」で観て何かの本質を語らうとするときにこの長い棒線を象徴的に使ふやうに見えます。一つ一つの詩を読みながら、長い点線同様に、この象徴記号を深く味はい、読み解きたい。

最後に付言すれば、最後の連の「傾くは地層の無意識……」といふ多次元的な、現世と連続的な非連続の、また非連続的な連続の接続関係にある永遠の〈異界〉に向かつて、また「既にして」ゐる〈異界〉の中で「おれはこの荒涼たる景色を一編の詩に閉じこめるつもりはない」と「言い放ち 虚空をみつめる」「草むらの髑髏」の時間論は、15番めの詩『アインシュタイン・タンゴ』の第一連に登場する、

「馬車の時代が終わり 初めて目撃した車窓の景色
 人が速度というものを初めて経験したとき
 一人の少年が奇妙な観念にとりつつかれた」

と歌はれる少年こそ、この草むらに死者として現実の世界では物質的に横たわつてゐる此の髑髏なのです。私たちは此の世に生まれてきた初心をすつかり忘れてゐるので、時間の本質について生まれる前に既に知つてゐたことを忘れてしまつてゐるのです。このSF人の時間論はまた此の作品にて論じます。無意識の地層が断面であれば、そのまま安部公房の世界に通じてゐますから。何故あなたは安部公房の読者であるのか?


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