2014年12月21日日曜日

久谷雉の『夏の思ひ出』を読む:第三者(媒介者)の排除





久谷雉のこの詩は、わたしにリルケの『マルテの手記』の次の箇所を想起させました。

『マルテの手記』を耽読した安部公房が存在象徴と呼んだマルテの創作の方法と態度の記述の後で、マルテは、第三者について次のやうに述べてゐます。

マルテが今まで書いた自分の詩も詩とは呼び難く、詩ではないといひ、劇も書いたがこれも駄目なもので、その理由が、ふたりの登場人物を創作するとして、そのふたりの意思疎通のために第三者を必要として、そのような人間を登場させたことが愚かなことであり、失敗の原因だつたと言つてゐます。以下、望月市恵さんの訳で引用します。


「(略)僕は劇を書くにあたってなという誤りをおかしたことだろう。苦悩を与え合う二人の運命を語るために、もう一人の人間を登場させなければならなかった僕は、愚かな模倣者にすぎなかったのだろうか。僕はなんとたあいなく陥穽に落ちたのだろう。僕は、あらゆる生活と文学とに登場するこの第三者、現実には決して存在しなかった亡霊のような第三者は、なんの意味も持たない人間であって、それを黙殺しなくてはならないことを知らなくてはならなかった。この三人目の人間は、僕たちの注意を人生の最も深い秘密からそらそうとしてやまない自然の術策の一つである。進行中の真の「ドラマ」をおおいかくす屏風である。(略)(この第三者が)たとえば悪魔にさらわれてしまったとしたら?そういう場合も仮定してみようではないか。そしたら、だれも作りごとでかためられた劇場のむなしさに不意に気づき、劇場は危険な穴のようにふさがれ、仕切桟敷のクッションから蛾が飛び立ち、がらんとしたむなしい場内を力なく舞うのみになるだろう。劇作家は郊外の高級住宅に住んではいられなくなるだろう。すべての公けの諜報機関が動員され、劇作家のために遠く世界のすみずみまで、劇の動きそのものを意味した掛けがえのない三人目の人物が捜索されるだろう。

 しかも二人は僕たちの近くに生きているのである、(三人目の人物ではなくて)問題の二人は。この二人は僕たちの近くで苦しみ、生き、絶望していて、かれらについては話さなくてはならないことが驚くほど多くあるが、きょうまでにはほとんどなにも語られていない。」

わたしたちは、第三者がいなければ意思疎通ができません。この第三者がゐて、社会的な生活がなりたつております。これを媒介者とか、媒体といつても同じです。

マルテの言ふ「あらゆる生活と文学とに登場するこの第三者、現実には決して存在しなかった亡霊のような第三者」という形容は、正鵠を射てをります。

わたちたちは、その亡霊のやうな実体のない機能と役割を日々演じて、第三者として生活をもしてゐるのです。このことを、あなたにも想ひ出してもらいたい。

しかし、他面、これは社会の役に立つ人間であるということの真の意味でもあるのです。即ち、あなたが媒介者、媒体になるということが、社会の中で生きるといふことなのです。

マルテがここで言つていることは、言語と人間にとつて本質的な事を言つてゐるのです。

いつも他者と意思疎通をし得るのは、相手と、共通の何か(第三者、媒体)を共有してゐるからです。それゆゑに、誰それさんを知つているといふだけで、わたしたちはお互いに理解し合つたやうに勘違ひをする。何故か親しくなるのです。

さて、人間としての第三者ばかりではなく、わたしたちが何かを知つたり、理解したりするときには、例外無く第三者、媒介者、媒体を持つ事無く、知り、理解することがありません。

人間は物事の本質を直かに、直接知る事はできないといふことです。

文法的に言えば、わたしたちの言語は、必ず述語部を持つてゐるといふことが、これに相当します。あなたは、第三者、媒介、媒体を述語部に措くことなく、一行の文も生成することができない。相手に自分の意志を伝えることができないのです。

このやうに考える人間、第三者を排除しようとする人間は、当然のことながら、役立たずの人間ということになるでせう。

また、このような人間は、物事の本質を、第三者や媒体を通じて間接的にではなく、直接的に、直に知りたい、直かに対象に触れたいと願つてゐる人間なのです。

これが詩人であり、詩人のこころは、無媒介のこころなのです。

そのやうな人間の一人である、28歳の若者マルテは、当然のことながら、自分自身を、上の引用に続いて直ちに、次のように点描する以外にはありません。これは、このままリルケの自画像であり、同時に安部公房の自画像でもあります。無名の人間。無名無能の人間像です。


「おかしなことである。僕はこの小さな部屋にすわって、今年二十八歳になるが、だれもこのブリッゲ青年の存在を知らないのだ。僕はこうして生きているが、存在しないも同然である。しかし、この虫けらのような人間は、パリの灰色の午後、安アパートの五階の部屋で考えることを始めて、こんなように考える―」

そして、実に鋭い嗅覚を以て、リルケは、そのような無役、無能、無名の人間が、社会との関係では、社会の中に住む人々の意識の底、無意識の世界では、危険な人間であると感じられていることを、次のように、第三者の不在の場合として記述するのです。

これは、リルケの心理を裏返しに、第三者に仮託して語ったものであり、これはまた同時にそのまま、安部公房の主人公達の意識と心理の逆説的な説明になっていることにご注意下さい。即ち、そのような無役、無能、無名の人間が、社会の諜報機関から捜索され、スパイされるという現実的な可能性を、リルケはここで書いているのです。

「すべての公けの諜報機関が動員され、劇作家のために遠く世界のすみずみまで、劇の動きそのものを意味した掛けがえのない三人目の人物が捜索されるだろう。」

さて、ここまでの前段を書いてから、いよいよ九谷雉の詩を読むことに致します。

この詩の最初の行に監視者が登場します。

上述の『マルテの手記』のことから、この監視者がこの話者のところにやつてくるのは、この話者が、第三者を排除して、1:1で、ぢかにものに触れたいと思ってゐるからだということになります。詩人の無媒介のこころです。

しかし、だうもこの監視者は頼りがない。何か社会の諜報機関が捜索し、スパイするために派遣した監視者といふよりも、これは話者自身の姿であるやうに見えます。

なぜならば、この監視者は、「渦を巻きながら」「流れ着く」と言われてゐるからです。これは普通の諜報機関の監視者ではありません。

この監視者は、社会と話者の自己を、否定的に繋ぐ監視者ではないかと思はれます。

これは、大東亜戦争敗戦後の70年を迎へた今のこの時期の、戦後の日本といふ国と日本人の国家観の喪失が、この若い詩人にどのやうな苦衷を強ひたかといふことを如実に表す、監視者の形象(イメージ)であるのだと、わたしは考えてゐます。

さうして、この監視者は、「みることそして泳ぐことが/あやうくたすきをつなぎあふ」とありますので、なにかどこに漂着するかもわからぬままに、必死に泳いで、そのことによつて「あやふくたすきをつなぎあふ」、即ち他者とからうじて繋がつている。

儚(はかな)い監視者である。

さうして読んでみれば、この監視者の顔の構成要素もみな「くづれた雫」であり、ここに至つて監視者は「液状」になつてをります。

さうして、話者は、ここで、「液状の監視者の脳天を」「棍棒で殴りつけ」て殺します。

これは、自己である、自己の一部である、自己の中の監視者を殺すということでせう。しかし、さうやつて他者である自分を純粋にしようとしても、即ち監視者を排除しようとすると、話者は生きて行くことができないでしょう。

「透明な肉体よりも先に」と、監視者の液体状の肉体を歌つてをりますので、やはり、かうして考察して来ると、この監視者も媒体であり、媒介者であつて、従い透明なものなのだといふことが判ります。

上で監視者は話者の自己の一部だと言つたことがこれですし、また、この監視者は、社会と話者の自己を、否定的に繋ぐ監視者ではないかと思はれますと書いた所以です。

この自己の一部を排除することを、

「ひとの構造は、花
 であるからこそ
 引き裂くこともできるのだよーーー」

と、この詩人は歌つております。

ここで、人を普通に一般に、そしてこの詩では監視者を、液体状の透明人間として、しかも、花に譬(たと)へてをります。

これが、この詩人の美を求めるといふことなのであり、日本語の詩人としての九谷雉の求めるところであり、その姿勢なのです。この姿勢は、今の日本語の詩の世界にあって、誠に尊いものだと、わたしは思ひます。

それ故に、これら上に述べたところから、これらのことをすべて合はせて一つにして、九谷雉は、正仮名を使って詩を書き始めたのでせう。

さて、自分で棍棒で殴りつけて叩き壊した監視者の脳天の「脳髄が雲を抱いてゐる」とは、

「 透明な肉体よりも先に
 浴槽の底面が音をたてゝ壊れた......
 いまが夏。」

と、その前にある、この夏という言葉からいって、脳髄の抱く雲は夏の雲なのでせう。

さて、その夏は、どのような夏であるのか。

「 透明な肉体よりも先に
 浴槽の底面が音をたてゝ壊れた......
 いまが夏。」

否定的な媒介者としての監視者の透明な肉体の破壊よりも先に、その液状の監視者の入った浴槽の底面が壊れたのですから、もうひとりの自己であり他者である監視者は、また泳ぎ、渦を巻きながら、次の浴室に流れ着くのでせう。

かうして読み解いて参りますと、監視者の「脳髄が雲を抱いてゐる」とは、この監視者は旅人であるといふことになります。

日本語の世界で、日本人にとつて、浴室とは何か、浴槽とは何かといふ問いに答えることは、そのままこの詩の「いまが夏」と歌つた、この夏の意味を解くことになります。

さて、かうして見て参りますと、最後の連を括弧の中に入れて歌った詩人の、この括弧の中のこころが解ります。

「(靴のかはりに足首を忘れる義務を、どうかわたくしにも、わたくしの家族だつた黍の群れにもお与へくださいーーー」


監視者という液状の存在、従ひ至るところに侵入するこの媒体は、靴音を立てずに、忍び足の音すら立てずに、浴室に入つてきて、浴槽に満ちるのです。

それ故に、靴ではなく、その代わりに「足首を忘れ」たいと話者は思い、それを義務だとすら言つてゐる。

この義務といふ言葉は、法律用語です。本来、詩の中で詩人が使ふべきことばではありません。しかし、この法律用語を使はなければならないほどに、この詩人は追ひ詰められている、何か切迫したものを、社会と、従ひ法律との関係で感じて、我が身を守らねばならないと思ひ、他方、しかし、それを何とか解決したいと願つてゐる。

義務といふ此の言葉の選択には、この詩人の苦衷が、上で述べたように、この戦後70年の今といふ現実が、この若い詩人の言葉の、語彙の世界に、どのやうな重い負担と苦衷を強ひたかといふことが如実に現れてゐると、わたしは思ひます。

さうして、このやうに考へて来ると、「黍の群れ」は、社会の中の仲間、仲間とは呼べなくとも、この話者の、この詩人の求めて願ふ人間たちだと読むことができます。

しかし、この最後の一行が括弧の中に入れられてをり、さうして、その括弧の中の一行が祈願文(非現実話法で書かれた文、接続法で書かれた文)であることから、これは話者の思ひであつた、まだ現実のものになってはゐないのです。

さうして、この詩人が、やはり言語の本質を知悉していることを示してゐるのは、この括弧の中の黍の家族が、今「わたくしの家族」であるのではなく、「わたくしの家族だつた」と歌つて、この詩を締め括つてゐることです。

この最後の括弧の中の、このこと、この時制の採用に、この詩人のこれからの詩業の姿が現はてゐると、わたしは考えてをります。間違ひがないと思ひます。

即ち、この括弧の時間、この括弧の中の季節が、

「 透明な肉体よりも先に
 浴槽の底面が音をたてゝ壊れた......
 いまが夏。」

と歌った、夏なのです。

それゆゑに、この詩の題名は、夏の思ひ出といふのです。思ひ出とは一体何か、です。

これが、どのような祈願された夏であるか、どのやうに「わたくしの家族だつた黍」を求める夏であるのか、読者は更に、自分の力で、想像されたい。









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